唯一の本

 ブレイクに危険書庫管理室での業務に誘われ、レダの許可が下りて次の日。
 アンジュは逸る気持ちを抑え、まだ業務が開始されるよりも一時間以上早くから666階にある関係者以外立ち入り禁止の扉前でうろうろしていた。
「早く来過ぎちゃったけど、遅刻するよりいいよね」
 そんな独り言を口にすると、まるでそれが合言葉だったかのようにタイミングよく扉が開いた。
「何してるの。まだ仕事前だけど」
 中から出てきたのはブレイクで、アンジュを見て不思議そうな表情をしている。
「あっ、ごめんなさい! 唯一の本を見れると思って、つい……!」
 唯一の本のことで頭がいっぱいだったアンジュは、そもそもここが危険書庫管理室であると同時にブレイクの自室であるということをすっかり忘れていた。恥ずかしいところを見られたと、顔に熱が集まっていくのが嫌でも分かる。
「へえ。本当、君って才能に溢れてるよね。いいよ、君が望むなら今から唯一の本について説明してあげる」
「いいんですか?」
「業務が始まってからでいいかと思ってたけど、知りたいなら」
 思ってもみない提案に、アンジュは首を縦に振っていた。
「ぜひお願いします!」
「じゃあ入って」
 ブレイクに促されるまま扉の奥に足を踏み出すとそこに生活感はほぼ感じられず、代わりに図書館にある本棚が続いていて自室というよりはまた別の小さな図書館のような場所だった。
「ここだけ、他の部屋より大きいですね……」
「絶対数は少ないけど、これから先も増え続けるだろうからね。それを感知してアーヴェンヘイム自体が勝手に拡張してる」
「自ら大きくなるなんて、不思議な図書館です」
「ここにはまだ50冊程度しかないから、こんなに大きくなられても仕方ないんだけど」
 さらっと挙げられた数にアンジュは少しがっかりした。
 現時点でアーヴェンヘイムに保管されている本の数を把握することは不可能に近いほど、大量の本がある。それらを見てきた状態で50冊しかないと聞かされれば、流石に期待外れと言うしかない。正直、これだけしかないなら専属司書が一人しかいないのも納得のいく話だ。
「説明は唯一の本についてから。フォールンはその後」
「わかりました」
 なんて失礼なことを考えてしまったんだとアンジュは慌てて先ほどの考えを追い出す。今はとにかく説明を聞くんだと自分に言い聞かせ、ブレイクの説明に耳を傾けた。
「本と呼ばれてるものに正確な区別があることは聞いてる?」
「はい。本と認められているのは唯一の本と共通の本で、そうでないものは無価値な本と紙束、ですよね」
「要点は押さえてるね。じゃあ、唯一の本と共通の本の違いは?」
「えっと、本の中にフォールンが住んでいるか否か、です」
 正解だとは口にしないものの、嬉しそうに口元を緩めているブレイクを見れば唯一の本のことを正しく認識できているのだと思え、アンジュは胸を撫で下ろした。
「まず、現段階で唯一の本について分かっていることから。唯一の本をこの世から消し去ることは不可能とされている。本自体を破る、燃やすなど外的要因で本としての機能を全う出来ない状態にしても、次の日には何事も無かったかのように本棚に戻っている」
「本が……元に戻るんですか?」
「そうだよ。無価値な本や紙束は燃やせば灰になる。無論、これは共通の本だって同じ。だけど唯一の本だけは違う。だから丁寧に扱ってね」
 そんなことが本当に起こり得るのだろうかという疑問は消えない。しかし、よく考えればあれほどまでにレダが危険だと警戒していたものなのだから、破棄してしまおうという考えには当然至っているだろうし、色々手は尽くしたはずだ。
 だが今もこうして自分の目の前に陳列されていて、ブレイクが危険書庫の専属司書を務めているということは、そういうことなのだろう。
「後、明らかな敵意によって傷つけられた唯一の本は光りだして、すぐさまフォールンが現出しようとする。これは本の状態に限らないから、気をつけて」
「本が光りだす? フォールンが、現出する?」
 ついに理解出来る範疇を超えてしまったアンジュの脳みそは思考することを放棄してしまった。ブレイクの言葉をただオウム返しするばかりだ。
「ああ、このことは忘れてくれていいよ。重要なことじゃないし」
「そうなんですか……?」
「普段どおり本は大切に扱う。それで十分」
 ブレイクはこう言っているが、重要じゃないわけがない。あれだけ危険だとレダが念を押しているフォールンが現出するとはどういうことなのか、意味が分からないからこそ興味が尽きなかった。とはいえ、知識不足である今は全てを覚えようとするより、理解出来ることから順番に消化していくべきだろう。だからアンジュは言われたとおりに頷いた。
「唯一の本の性質についてはこれぐらいでいいか。……じゃあ、アンジュが知りたくて仕方ない“フォールン”とは何なのか、教えてあげる」
 細められた目に晒され、アンジュは言いようのない感覚に襲われる。まるで心を見透かされているような、全てを暴かれていくような感覚だった。
「フォールンというのは共通の本の中に住み着いた住人のこと。どのようにして本の中に住み着き、何故存在しているのか? ……さてね、これについては誰も知らない」
 いまだに理由は分かっていないとブレイクはもう一度繰り返し、続ける。

 分かっていることはそれぞれが全て別個体であり、各々に独自性の能力を持ち合わせて唯一の本の中から時折飛び出し、災害をもたらすこと。
 その他では人が死んで共通の本となった時に低い確率でフォールンが住み着いていることがあること。見分け方は簡単で、フォールンが住み着いたものは全て絵本と呼ばれる、絵を中心として物語が進んでいくものであり、これにもきちんとタイトル名付近の模様に宝石が埋め込まれている。
 後はどのような人物が死んだとしても全てに等しく唯一の本になる可能性が秘められていること。唯一の本が共通の本や無価値な本に戻ることがないこと。共通の本や無価値な本、さらには紙束が唯一の本に変容することもないこと。
 以上である。

「一気に話したけど、ここまでで質問があったら聞くよ」
「災害をもたらすって、フォールンは悪いものたちなんですか?」
 唯一の本が生まれる可能性が万に一つもないほどに確率が低いものであるということについては別段聞くことはない。また唯一の本が共通の本に戻ったり、その逆もあり得ないということも分かる。だから素朴に、人に害をなす存在であることが気になった。
「善悪で語るのは難しいな。言い方は悪いけど、フォールンたちはあくまでも自身が持つ固有の力を使っているだけ。結果として、それが人々にとって不利益であることが多かった」
「なるほど。どれも強い力を持っているんですね……」
「弱いのもいるけど。フォールンたちの基準で考えれば。人にとってはどれも同じに見えるよ」
 淡々とブレイクは話すが、これは彼自身がフォールンとの関わり方を熟知しているからこその余裕なのだと思う。普通の反応は、レダのように恐怖を抱くことなのだ。
 だがアンジュは膨らみ過ぎた期待を抑え込むことが出来ず、気付かぬ内に目を輝かせていた。
「──フォールンと会ってみたい?」
 刹那、青い瞳がアンジュの心を捉えたかのように最も望んでいることを言い当ててくる。
 会える? フォールンと会うことが出来る? 一度ブレイクから与えられた甘美な誘いは簡単にアンジュの思考を一つへ釘づけにした。
「出来るなら、会ってみたいです。でもそれって、フォールンを現出させるってこと、ですよね……?」
「そんなことしなくても、こちらから会いに行けるよ。会いに行って、正しい対処をすることが俺の……今はアンジュもだから、俺たちの仕事」
 フォールンに会うことが仕事だと、思ってもみない話にアンジュの心は踊り、詳しい説明をブレイクに求めた。これにブレイクは笑ったり困ったりすることなく短い返事をして、仕事の話を始めた。
「唯一の本にはそれぞれ定められた周期がある。この周期に従って唯一の本からフォールンたちは現出し、世界で各々の能力を使おうとする。これを阻止するのが俺たちの役目」
「フォールンを私たちの世界で暴れさせない、ということですね」
「そう。この周期はフォールンたちが持つ固有の能力で差がある。簡単に言えば、強い奴は出てくるのに時間がかかって、弱い奴は定期的に出てこようとする。これを分かりやすくするために、俺が危険度をつけてある程度の周期を予測できるようにした」
 これをと言って見せてくれた資料は細かく唯一の本についての分類がされていて、とても分かりやすい。こういった資料などを作ってレダに報告することに自分も関われるのだと思うと、アンジュのやる気はますます上がった。
「フォールンの現出を阻止するために、私たちが先にフォールンに出会うんですよね。でも、その方法はこの世界に呼ぶわけではない?」
 理解してきたねと優しく笑うブレイクは飲みこみが早くて助かると言葉を付けたし、アンジュのことを褒めた。普通の人間は、危険だと言われているフォールンに会おうとは思わない。それがフィルターとなって理解する能力が格段と落ちるらしい。そのため、唯一の本やフォールンについて説明するだけでもかなり骨が折れる作業だという。
「フォールンたちに会う方法は、唯一の本の中に入ることだ。奴らは共通の本に住み着いた時点で全てを絵本に変え、自分のことを物語にしたような内容に変えて、それどおりの世界を本の中に作り上げる」
 唯一の本はフォールンが住み着いた本だと定義しているが、言い換えるなら“本の中に新たな世界が作られたものを唯一の本”だということも出来るとブレイクは口にした。
「本の内容が反映された世界。フォールンたちが作り上げた、自分だけの物語……」
「そういうこと。だから俺たちは本の中に入って、奴らの望むことをして満足させる。そうすれば周期はリセットされ、現出するまでの時間が伸びる」
「……分かりました。私、がんばってみます!」
 フォールンたちの望むことが何であるのかはまるで見当がつかないが、そこはブレイクに教えてもらいながら一つずつ覚えていくしかない。
 とにかく今は、本の中に入ってフォールンたちを満足させ、周期をリセットして現出するまでの時間を伸ばすことが自分の仕事なのだと理解出来れば十分なはずだとアンジュは納得した。
「成すべきことは分かったみたいだね。物分かりが良くて助かるよ。……じゃあ、早速今日の鎮圧予定の本の中に行こうか」
 業務開始の時間だとブレイクが時計を指さす。つられるようにアンジュが時計を見れば長針がぴったり12を指し示している。
 午前8時。業務開始だ。