本日の業務が無事に終わったアンジュは3階に来ていた。休憩時間に言われたとおり、レダの自室に行くためだ。
一か月前、初めてレダの自室に入った時はそこを自室だなんて考えには至らず、ただの事務所程度にしか思っていなかった。
だが今はレダの自室と知っている。故に、別の緊張も知らぬうちに抱いていた。
「レダ様、アンジュです」
扉をノックすると、どうぞという声が中から聞こえてきた。扉越しに聞くレダの声も新鮮だとアンジュは考えながら、促されるままに中へと足を踏み入れる。
「ああ、アンジュ。待っていたよ。どうぞ、座って」
デスクの上には前に見せてもらったのと同じ小瓶が置いてある。アンジュはそれを見て、レダも本気で自分の話を聞く準備をしてくれているのだと感じ、嬉しく思った。
「時間を取らせてしまってすまないね」
「気にしないで下さい。それで……」
「ああ。私の方も準備はしてある。だけど、最後にもう一度だけ確認を取らせて」
小瓶をゆっくりと持ち上げてアンジュの手前に置いたレダは小瓶から手を放さず、アンジュの目を見て聞いた。
「アンジュが司書としてだけでなく、個人としても本を好いていることは知っている。その気持ちが並ではないこともね」
レダが優しく微笑んでくれた。アンジュはこれを見てレダが納得してくれたのだと思い、つい頬を綻ばせた。
「でも、アンジュはまだ図書館のことをよく知らない。厳密には、フォールンについて」
「それは、その……はい」
教えてもらっていないから、とは言えなかった。
レダに楯突きたかったわけではないからというのもあるが、この間――アンジュが司書になった日――に一度だけ見せた、恐怖に歪んでいて苦悩に満ちた顔をレダが浮かべていたからだ。
「私がこの薬を創った経緯については話したよね」
「はい、今日の休憩時間の時に。覚えています」
「この薬を飲んだ者は私以外にも何人もいた。それは事実だ。だけど、今でも生きているのは私ともう一人だけなんだ」
アンジュは、レダがこの事実を伝えることの意味を理解出来なかった。
レダは最初に不老長寿の薬の欠点について説明してくれていたから、別に現時点で薬を飲んだ人が二人だけしか残っていないとしても、なにも不自然なことはない。
事故か、あるいは病気か。長く生きていれば、当然そういった不幸に見舞われてしまう確率が上がるだろう。アンジュにはそういう風にしか考えられなかった。
「今この図書館で働いている者の中で不老長寿なのは二人だけ。他の先輩たちはいつか老いて、本になる。アンジュはそれを看取ることになるんだ。これは先輩だけじゃなくて、今後入ってくる自分の後輩たちもだ」
これから入ってくる人たちが自分と同じような決断をするわけじゃない。薬を飲まないという選択をする子もたくさんいるだろう。
「……その覚悟が、ないわけではありません。実際目の当たりにしたら悲しいですし、たくさん泣くと思います。すぐには吹っ切れない。それでも、きちんと仕事はこなします」
先輩たちは本当にみんな良い人たちばかりだ。おかげでまだ一ヶ月程度しか働いていない自分でも、業務が終わった後もまだまだ働いていたいと思えるほどに図書館の居心地は良い。そんなお世話になった先輩たちをいつの日か看取ることになれば、絶対に泣く。
それはこれから何年後か、もしかしたら何十年後か。いつかは分からないが、入ってきた後輩たちが薬を飲まなければいつの日かアンジュを追い抜き、老いて本になるだろう。その時を迎えたら、絶対に泣く。
それでもだ。それでもアンジュは不老長寿になりたい理由があった。
レダのため? 否定はしない。だけど、これが真の理由ではない。
これからも増え続ける知識と知恵をつけたいから? これも間違いじゃない。だけど、真の理由とは言い切れない。
フォールンのことを知りたい。
――これだ。これこそが、アンジュの中でもっとも強く渦巻いている感情。
温厚で誰からも好かれ、頼られ、自身の能力を把握しているレダでさえも顔に恐怖を滲ませ、言葉を濁し、隠そうとしている存在。それを知りたくてたまらないのだ。
これから先、何百年と生きていればきっとフォールンについて知ることが出来る機会があるはず。期間にすると途方もないが、この薬と全ての知識と知恵で満たされる図書館であれば苦に感じることはないだろう。
少なくとも、アンジュにとって苦ではない。
そのためには不老長寿の薬が必要だ。アンジュの内に秘められた好奇心を満たすためには絶対に。
「薬、飲むの?」
意識の外から突如として与えられた声という情報に驚いたアンジュは体を強張らせ、慌てて振り返った。
最初は視界に真っ白な衣装しか映らなかった。そこは腹部当たりだとすぐに把握したアンジュが顔を上げれば、後ろに立っている人物の新たな情報がいくつも飛び込んできた。
身長は180cmを超え、細身で髪は白く、男性にしては長めで首元から肩にかかっている部分は黒い。瞳は青。色白で、鋭い目つきでありながら声質は温和なものだった。彼もレダと同じように温厚そうな感じがするものの、また別の印象を受ける男性だ。
「ブレイク! いつの間に」
「さっき。ちゃんとノックもした。返事がないわりには扉に鍵がかかってなかったから」
レダがブレイクと呼んだ男性はとても若い。アンジュと数年程度しか違わないように感じられる。
「……君、見ない顔だけど」
「あっ、初めまして! 一ヶ月ほど前に司書になりました、アンジュと言います!」
アンジュは急いで立ち上がってから頭を下げ、精一杯の誠意をブレイクに示す。
この一ヶ月の間で先輩たちに挨拶は済ませている。その中で唯一出会えなかった人は、今目の前にいる人物だけ。危険書庫管理室と呼ばれる場所で仕事をすることを許された人、専属司書と呼ばれているブレイクその人だ。
そしてブレイクの存在はアンジュにとっては大きな……いや、アンジュの好奇心を満たすためには必要不可欠な存在であることを理解している。フォールンのもっとも有用な情報を持っている人と言って過言ではないはずだから。
「新人が入ったのは久しぶりだな。俺はブレイク」
「これからよろしくお願いします。危険書庫管理室の専属司書の方で、合っていますか?」
「そうだよ。レダから聞いたの?」
「管理室の場所のことはレダ様から。ブレイク先輩がそこに勤めていると思ったのは、この一ヶ月でようやくお会い出来た先輩だからです」
出過ぎた発言をしてしまったかもしれないとアンジュは不安に思いながらも、どうにかブレイクに自分のことを印象付けようと必死になっていた。
「そう。……それより俺、レダに話があるんだけど。いい?」
「えっ? あ……どう、ぞ」
アンジュもレダと大事な話をしていた途中だ。なのにブレイクの放つ独特な雰囲気にのまれ、アンジュはついブレイクにレダと話す時間を譲ってしまっていた。
「はあ……、ブレイク。私はまだアンジュと話している途中だ」
「でも彼女は譲ってくれた」
レダの方からも一度注意をしてみるものの効果はなかった。これにはレダもため息をつき、アンジュに少しだけ待っていてと申し訳なさそうに合図を送り、改めてブレイクの話を聞く姿勢を取った。
「それじゃあ私、外で待っていますので話が終わったら声を……」
「出なくていいよ。君の話だから」
「えっ……?」
ブレイクとアンジュが顔を合わせたのはこれが初めてだ。それなのにブレイクが一体アンジュのどんな話をレダに持ちかけるというのか、全く想像がつかない。
それはレダも同じようで、ブレイクから話したいことがアンジュのことだと言われても皆目見当がつかず、彼らしくもないしわが眉間に寄っている。
「君、才能あるよ」
先ほどまでレダの方を見ていたと思ったら、急にアンジュの方に向き直ったブレイクが発した一言はそれだけだった。今はもうレダの方を見ていて、アンジュのことなど気にも留めていない。
だが、これを聞いて一番動揺したのはレダだった。明らかに狼狽えているレダはアンジュになんて言葉をかけてやればいいのか分からないといった表情で、ただただアンジュを心配しているような……いや、同情と呼ぶべきか、憐みというか……。とにかく、ただ事ではないことだけが伝わってきて、アンジュは余計に混乱した。
「あの時の約束、無効になったりしてないよね? だからレダに今、わがまま言おうと思って」
「――……あっ、私に……その決断を下す、ことは……」
レダの瞳はあちこちに泳ぎ、開かれていた口は固くとさざれてしまった。
「ごめん、レダ。君を困らせたかったわけじゃない。俺とレダの仲だから、いいかなと思ったんだ」
「ああ、いや。……アンジュに才能があるというのはつまり、そういう意味なのか?」
ひどく不安げな顔でレダはアンジュの方を一瞬だけ見て、すぐにどこか適当な床に視線をそらしてしまった。
ただ一人、意味が分からないままに話が進んでいく。アンジュは不安で押しつぶされそうな気持ちをどうにかこらえていると、ブレイクからお声がかかった。
「アンジュ。俺と一緒に唯一の本の対応作業、やってみない?」
いきなりのことで、最初は理解が追いつかなかった。唯一の本への対応作業とは何だろうかと、本気で考え込んだ。
唯一の本とは、共通の本の中に〝フォールン”が住み着いている本のことだ。つまり、対応作業というのはフォールンたちへ何かしらのアプローチを試みること。
「私がしても、いいんですか?」
信じられないという気持ちでいっぱいになった。レダに初めて聞かされた時からこの一ヶ月、ずっと気になり続けていた存在、フォールン。
他の職員たちとでさえも話すことは極力禁止されているそれらの話が出来るどころか、自らの手で対応作業を行える日がこんなに早く来るとは流石のアンジュも思っていなかったからだ。
「いいよ。レダが良いって言えば」
どれだけ俺が許可を出したって、ロードが良いと言わなきゃ入れない場所だからとブレイクは言い、後は二人で話してと言わんばかりに壁に背を預けて腕を組み、目を伏せてしまった。
この後はしばらく沈黙が続いた。どちらも話の切り出し方が見つけられなかったから、この沈黙は永遠に続くようにも感じられた。
「……アンジュは、唯一の本に興味がある?」
「あっ、はい! あります!」
興味津々なこともあって、アンジュが思っている以上に良い声で返事していた。
「フォールンは……その、とても危険な存在だと聞いても?」
一瞬だけレダはブレイクの方を見た後、すぐに視線をアンジュに戻す。
「その点についてはちょっと不安ですけど……その、一人じゃなければ、なんとか」
「最初は一人にしない。約束するよ」
目を閉じたままだがブレイクは返事を寄越してくれた。これを聞いたアンジュは安堵の表情を浮かべ、レダに伝える。
「でしたら平気です。それにブレイク先輩は唯一の本についてであれば分からないことはないんですよね? だからレダ様も安心して任せていらっしゃられてる」
「ブレイクのことを信頼している。これは間違いないよ」
「じゃあ決まりだね。……大丈夫だよ、レダが思ってるようなことにはならないから」
壁から体を離したブレイクがそっとレダの左肩に手を置く。レダはそれを振り払うことなく、ただブレイクの目を見つめていた。
「これ、今月分の報告書。しばらくの間は毎日アンジュに報告に来させる。アンジュ、明日から管理室にきて。場所は知ってるよね」
「はい! よろしくお願いします!」
良い返事だと言ってブレイクは踵を返し、扉へを向かって行く。
「後、薬のことはもうしばらくだけ保留しとくといいよ。今飲んじゃうとレダの心労がとんでもないことになっちゃうから」
「是非そうしてくれると助かるよ……」
ブレイクがレダの部屋を去る間際に指を差して行くのでその先が示す方を見ると、確かにレダは歳相応に疲れた顔をしていた。アンジュの仕事についてはもう決まってしまったのでこれ以上何か言う気配はないが、決断したことを悔いていないとは言えないようだ。
「私、頑張ります。だからそんなに心配しないで下さい」
「これだけは守って。何があってもブレイクから離れないこと。言うことは聞いて、困ったらすぐ彼に頼って。絶対に助けてくれるから。それに一人で抱え込む前に、必ず私に相談すること」
「守ることがたくさんですね。でも、分かりました。それだけ危険な仕事なんですよね」
「……それでも、誰かがしなくてはならない」
「すぐブレイク先輩みたいに、とはいかないかもしれませんけど、精一杯やり通します」
だから今は応援して下さいねと言って立ち去るアンジュを、レダは呆然と見送ることしか出来なかった。
不老長寿の薬についてはブレイクの言うとおり、新しい業務になれるまで保留ということになった。レダの本心は飲んでほしいと飲んでほしくないの気持ちが相も変わらず葛藤している。しかし、自分が拒まずに飲むことを許容してあげていれば、ブレイクは彼女に才能があっても黙っていてくれただろうか?
それとも、お構いなしにアンジュの才能を見出してフォールンたちへの対応作業に誘っていただろうか?
真相は永遠の謎だ。少なくともレダには一生分からない。
でも、そんな些細なことはどうでもよくなった。それも当然だ。
あれだけ危険な存在だと教えたにもかかわらず、アンジュが見せた表情は新しいおもちゃを与えられた時に子供が見せる無邪気な顔そのものであったからだ。
アンジュは何処か歪んでいる。レダがそう感じるには十分だった。