Wonderful person

湖畔に一人の女性が佇んでいた。右手の中指にはキラリと光るプラチナの指輪がはめられている。裏にはリエルと、自分の名が彫ってあるようだ。
湖に自分が映らない位置で、金色の長い髪を風に揺らしながら、湖に映る月を見ているようだ。
「!」
先ほどまでピクリとも動かなかったリエルが、突如振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ心地よい風がそよそよと流れているだけだ。
気のせいか。
そう思い、湖の方に身体を向けようとしたとき身体が強張った。
「俺に気付くとは、大した奴だ」
背後から男の声が聞こえてきた。
喉元には刀と思われる刃先が突きつけられている。もう少し気付くのが遅れていれば、そのまま首を掻き切られていただろう。
「誰、ですか」
恐怖で急速に乾いていく口で、必死に声を出した。こんな恐ろしいことをされる覚えはない。この男は、一体何が目的なのだろうか。
「……俺に気付いたなら、相応の力を持っているかと思ったが、期待外れか」
何が期待外れなのかはよく分からなかったが、男に解放される。今はそのことで頭がいっぱいになり、急いで男から距離を取る。先ほどまで刃をあてられていた首元を守るように手を添え、男を見る。
銀髪をオールバックにした、貴族風の青い衣装を身に纏った男。その手には刀が握られている。男が刀を鞘に戻すとき、月に照らされ刃の部分がきらりと光った。その光が先ほどの行為を思い返させ、身体が震える。
「いきなり……なんなのですか」
気付けばそう口にしていた。そして頭の中は、後悔でいっぱいになった。いかにも危険な男に何故、声をかけたのだろうか。恐れをなして、その場から逃げればよかったのに。
「もう貴様に用はない。去れ」
男から返ってきた言葉は、ひどく冷たいものだった。それが何故か無性に寂しくて、腹が立った。
「貴方に用がなくても、私にはあります。いきなりあんな恐ろしいことをしておいて、何の説明もなしに去れだなんて、そんなのが通ると思っているのですか!」
頭に血が上って、啖呵を切っていた。リエルの行動は、恐怖という域を超え、異様なものへと変わってしまっていた。何故関わろうとする?
このような危険な男に。
脳が送る危険信号が、今のリエルには届かない。
「黙れ女。力無き者に用はないと言っている」
「なんですか、そのわがままな理由は……。私はただ、ずっとこの湖畔で月を眺めていただけですよ!? 一体何が邪魔だというのですか!」
そう言い切ったとき、リエルは背中を地面に叩きつけられていた。
「っぁ……!」
一瞬の出来事だった。それ故に、何故こうなったか分からない。今になって分かるのは、男にマウントポジションを取られ、首にはまた、刀が突きつけられているということ。
「ひっ……!」
恐怖に染まった声が出る。
「弱者が強者に楯突くということは、こうなるということだ」
冷酷な瞳に見下ろされ、涙が溢れる。
今度こそダメだ、殺される。
極限に達したリエルは……。
「なっ……」
力いっぱい、男を突き飛ばしていた。
このとき、男は油断していた。そのため、少しバランスを崩した。だが、それだけだった。そもそも、騎乗している、自分よりもはるかにガタイのいい相手をどうこうしようなど、出来るわけがない。
リエルは万策尽きたのだ。
「覚悟は出来ているのだろうな」
素早く体勢を立て直した男が、再びリエルの首元に刀を向ける。
「うっぁ……や、だ……。どうして……こんな……」
リエルの身体からは力が抜け、だらりとしている。嫌だ嫌だと繰り返し、泣きじゃくる。
「貴様、それでも悪魔の端くれか」
いい加減腹が立ったのか、男はピシャリと言い放った。悪魔という言葉に過敏に反応し、リエルは目を見開く。
「どうして……知っているのですか」
「悪魔特有の気配を消しきれるものか。貴様とて、俺がどういった存在かぐらいは察しているだろう」
そう言われて、初めてリエルは気づく。
この男は、人ではない。いや、人でありながら、人ではない。という表現の方が正しい気がする。
「貴方も……半人半魔なの?」
「今更気づいたのか。だから貴様は弱いのだ」
呆れたように男は溜息を吐き、キッとリエルを睨み付ける。彼女はその視線にビクリと身体を強張らせ、さらに涙を流し始めた。
「うぁ……うあぁぁ……!」
「まあ、知ったところで無駄なことだ。お前はここで死ぬ」
そう言って、リエルの首元に構えてあった刀を下ろそうとする。
「おい! 今度は何をしている!」
しかし、その行動もまた、リエルのとんでもない行動によって阻止されてしまった。なんと、リエルは何を血迷ったのか男に抱き着こうと両手を男の首に回したのだ。
「だって……だってぇ! 初めて出会えたの! 私と同じ、半人半魔の人に……!」
ぐずぐずと鼻をすすり、顔は涙で濡れていて、なんとも情けない姿だ。挙句の果てには首元に刀まで向けられている。だがリエルはそんなことはお構いなしに、同じ存在に会えた喜びを伝えようと一生懸命ハグを試みている。
これには面食らったようで男はリエルから飛び降り、距離を取った。
「あ、あのっ……! いっ……」
男がどいたことで自由になった身体を起こし、今度はリエルが男に近寄ろうとする。しかし、先ほど打ち付けられた背中が痛いのか、その場にうずくまってしまった。
「それ以上近寄れば、今度こそ斬る」
男は刀を鞘に納め、凄まじい眼力で睨む。
「私、リエルって言います。貴方のお名前は?」
リエルは顔だけ上げて、男に問う。
「名乗る名などない」
教えてもらえなかったことにしょんぼりを肩を落としたリエル。だが彼女は、何かいいことを思いついたとすぐに明るい表情に戻った。
「私が強くなったら、教えてくれますか?」
「……どういう理屈だ」
男は意味が分からんと言いたげに、言葉を投げかける。
「強者であれば、貴方は認めてくださるんですよね?」
「否定はしない」
「だったら、私が強くなれば、教えていただけますよね?」
「俺より強くなれるのならば、な」
「じゃあ、がんばって強くなります!」
そう言い切ってリエルは痛みをこらえて立ち上がり、男に向かって一歩を踏み出した。刹那、男は抜刀する。次の瞬間にはリエルの背後に立ち、刀を鞘に納める動作に入っていた。カチン、と鞘に収まる音が鳴る。
「寄れば斬ると、言ったはずだ」
リエルが地面に倒れ込む。それを確認するように男がリエルの方に振り向くと、男は驚愕した。
いない。
そこにあるべきはずの死体も、血溜まりも。いや、血に関しては一滴も落ちていない。
「捕まえたっ!」
「何っ!?」
完全に不意を突かれた男は焦る。声がする後ろを見れば、リエルはがっちりと身体に抱き着いてきていた。刀を構えようにも、こうも近くにいられてはどうしようもない。
「私の勝ちです!」
リエルは嬉しそうに言って、男から身体を離す。
「……何故、かかってこない?」
せっかくいいポジションを取ったというのにリエルは何もせず、ただ離れていった。意味が分からず、男は問うことしか出来なかった。
「えっ……。私、攻撃手段は何もありませんから。私が出来るのは自分の身を守ることだけです。あ、でもでも! 守りに関しては、こう見えて自信あるんですよ?」
上手くいって良かったと、リエルは楽しそうだ。
「それより、今のは私の勝ちですよね? ですから名前……!」
くるくると回りながら喜びを表現し、男の方を振り向く。その時、男は斬りかかってきていた。凄まじい力に押され、二人は湖に落ちる。
「ぷはっ……! もう、往生際が悪いですよ!?」
だがそれすらも防いだリエルが湖から顔を出す。続いて男も顔を出し、リエルを睨む。が、視界にチラリと入った水面に映るリエルの姿に、その表情はどこか少し、驚いていた。
「あっ……。ごめんなさい、こんな顔で。同じ半人半魔でも、気持ち悪い、ですよね」
リエルは視線を水面に移す。
そこに映るは、自分の顔。……であるはずなのだが、その顔はとてもじゃないがリエルの顔とは似ても似つかないものだった。
「ふん、その程度なんともない」
だが、さして興味がないと男はそう言った。リエルは男の言葉に驚き、何度もまばたきを繰り返す。そうして言葉の意味が理解できはじめると、表情はみるみると明るいものへと変わった。
「やっぱり私、貴方についていきたい! お願いします! 絶対強くなりますから、私を貴方の傍に置かせてほしい!」
ばしゃばしゃと水をかき分け、男に抱きつこうとする。
「邪魔だ、鬱陶しい!」
そんなリエルと追い払おうとするが、かなりしつこい。
「一人はもう嫌なんです! 寂しい思いはもういっぱいしました! だから……お願いします……」
何度もお願いしますと繰り返し、男に引っ付こうとするリエル。だがその力は最初ほどの勢いはなく、弱々しい。今なら、男は余裕で振り払えるだろう。
「……勝手にしろ」
だが、男は疲れたのか、はたまた何か心情の変化があったのか。そのことは誰にも分からないが、観念したように女の抱きつきを受け入れる。
「あ……ありがとうございます! うっ……うぅぅ……!」
「何故泣く」
「あっ……そうですよね、嬉しい時は笑うんですものね!」
リエルはぐしぐしと服の袖で顔を拭き、満面の笑みを浮かべる。
「……騒々しい女だ」
「リエルです! あ、名前を教えてください!」
「……バージル」
「バージルさん……。素敵な名前ですね! これからどこまでも、お供させてください!」
何とも面倒くさい女を抱え込んでしまったものだ。そんな悪態を心の中で突きながら、バージルは湖から出る。リエルもそれに続き、湖から身体を出す。
「バージルさん、髪を下ろしてる姿も……素敵です」
湖畔に立つ、髪を下ろしたバージルを見てリエルは少し頬を染める。
「髪を下ろした姿など、似合わん」
バージルは冷たくそう言い放ち、髪をかき上げ、いつものオールバックに戻す。
「……そうですね。バージルさんはやはり、その髪型が一番です」
クスクスと笑いながら、リエルはバージルの言葉を肯定する。
「行くぞ」
「はい」
何処へ行くかなんて知らない。この人が一体、何を求めているのかなんて知らない。それでもリエルは死ぬまでついていく。悪魔だと知りながら、受け入れてくれた。
最初で最後の、素敵な人に。