Opening 04 Scene Player ──── おっさん
本日も晴天なり。
彼の脳内に浮かんでいる言葉である。雲一つない空の下、愛用のママチャリを漕いで街の周辺を何するわけでもなく見て回る。それが彼の暇つぶしだ。
もちろん、他にも暇をつぶす手段は持っている。居候させてもらっている事務所のソファでごろ寝しながら青少年には見せられない雑誌を読みふけったり、大好物のピザを出前で頼んで食したり。
自由をこよなく愛する男、おっさんは今日も気の向くままにママチャリを進ませる。ご機嫌に鼻歌まで歌いながら堤防を抜け、学校施設の傍を軽快に走っているときだった。
「誰だよ。もうすぐ夕暮れ時だっていうのに《ワーディング》なんか張ってる奴は」
ワーディング。
それはオーヴァードであれば誰でも使える能力の一つである。
レネゲイド物質と呼ばれるものを意識的、あるいは無意識的に大量放出することで周囲に影響を与える能力。
オーヴァード同士であればレネゲイドの活性化でお互いに存在を感知出来、非オーヴァードであれば活性化レネゲイドによって異常な不安や嫌悪、無力感などを覚え、本能でその場から離れようとする。それ以上に好奇心が勝ったとしても、活性化レネゲイドを浴び続けると精神的ショックを起こし、意識を手放してしまう。
このワーディングを感知出来たということは、おっさんもオーヴァードである証拠に他ならない。
せっかく気分よく町巡りしていたのを害された彼は鼻歌をやめ、ワーディングが展開された場所へと向かう。
自転車をかなりの勢いで漕いで数分。現場に着く頃にはワーディングは解除され、代わりに二人の学生が道端に倒れていた。女の子の方は特別変化はなく、ただ意識を失っているようだ。対して男の子の方は明らかに人間離れしており、普通の人間が見たら“化け物”だと思ってしまうものへと右腕が変化している。
「ジャームか……?」
レネゲイドウィルスに侵蝕され過ぎた者は心を失う。人を超えた力を持つ者は総じてオーヴァードと呼ばれるが、その中でも理性を失った者はジャームと区別される。ジャームは心だけでなく、時には見た目すらも人間とはかけ離れたものとなる者もいる。
理性を失うということは、己の欲望を制御できなくなるということ。どれだけ人間らしく振る舞っていても、ジャームのそれは見せかけの演技に過ぎず、自らの欲望のためだけに行動しているのだ。
そして、一度ジャーム化したものが心を取り戻した例は、ない。
だからオーヴァードとなってしまった者は心を失うか、命そのものを失うまでジャーム化の恐怖にさらされ続けることになるのだ。
明らかに右腕が変化している男の方を見たおっさんはジャーム化しているからなのかと推測するが、辺りを見る限り争った形跡もなければ、傍に倒れている女の子に外傷も見当たらない。
「ま、考えるのはあいつに任せるとしようかね」
ジャームだと分かったら、分かった時に対応すればいい。なんて呑気な考えのおっさんは一人で頭を悩ませることを放棄し、おもむろに指を鳴らす。すると空間がねじ曲がり、何処かの医療室がねじ曲がった空間の中に映し出されている。おっさんはそこへ一切の躊躇いを見せることなくママチャリを持っていくと、空間の中に映る医療室の方へとママチャリが移動し、おっさんの手元から消えた。
次に学生二人を脇に抱え、今度は自分ごと空間を跨げば先ほどの場所には誰もいなくなり、同時にねじれた空間も元通りになる。
誰もいなくなった道に残るは静寂のみとなった。
Middle 01 Scene Player ──── ネロ
二人の学生を保護したおっさんはその子たちをベッドに寝かせ、自分は他のメンバーが帰ってくるのを待っていた。時刻は既に日が落ち、辺りは薄暗い。
おっさんは何度目か分からないあくびを噛みしめながら、腹が減ったなんて気楽なことを考え、気怠そうにソファへ足を投げ出している。
「……ったく、ワーディングを感じ取ったら何をしていても優先して事務所に帰ってこい、なんていう割に、誰も帰ってこないのは如何なものかね」
いつまで経っても帰ってこないメンバーたちに文句を垂れながら、することもないのでピザの出前を取るために黒電話に手を伸ばした時だった。
「帰ってきていたか」
「おっと、ようやくオーナーのお出ましか。予想がついていたならもっと早くに帰ってきたらどうなんだ?」
「ああ、返す言葉もない」
ようやく帰ってきた二代目は来ていたコートを脱いでソファに投げかける。肌にぴったりと張り付く黒のアンダーシャツから垣間見える程よい筋肉を晒しながら、二代目は冷蔵庫に入っている水を取り出してコップに注ぐ。四つほど用意した内の一つはおっさんに手渡し、もう一つは自分で飲み干した。
「何故四つも?」
「夕時にワーディングが展開されたのを感じ取った。急いで現場に向かってみたが、そこは見事にもぬけの殻だった。どうせ、お前が保護したのだろう」
まだ何も言っていないのに図星をつかれたおっさんは驚いた後、笑って伝えた。
「本当に底が知れないな。……ああ、二代目の言うとおり保護した。二人ほどな」
「それほどに気になる何かがあったか?」
「……まあ、な。今なら昔の二代目が取った行動、少し理解出来るつもりだ」
昔取った行動というのは、初代と双子を保護したときのことを指しているのだと把握した二代目はそれ以上何も言わず、先ほど注いだコップを持って医療室へと向かう。それに続くようにおっさんもさっさと水を飲み干し、後を追った。
二代目とおっさんが医療室に入れば、相も変わらず二人はベッドの上で眠っていた。水の入ったコップを各ベッドに備え付けられているサイドテーブルに置き、診察を始める。
女の子の方は様子を見るに疲労からくるものだと思われ、時期に目を覚ますだろうと二代目は見解を出す。
問題は男の子の方だ。青年の容態を二代目が確認した時、まず初めに目につくのは凶変した右腕。明らかにオーヴァードが持つ力で、それを制御しきれずにこうして今も晒し続けているというのは芳しくない。ただこれを見て、どうしておっさんがこの子たちを保護するに至ったのか納得した二代目は敢えて問うことはせず、青年が少しでも早く意識を取り戻すようにと処置を施した。
処置を施してから数十分。どうやら効果があったらしく、青年はゆっくりとその意識を取り戻した。
「ようやくお目覚めか。随分と長いおねんねだったな、坊や」
「……ここ、は…………」
「無理しなくていい。辛ければ起き上がらず、そのままの体勢で構わない」
目を覚ませばベッドの上で、しかも見知らぬ男二人に顔を覗き込まれているという状況が青年には理解できなかった。状況は理解できなかったが、大切な存在のことを思い出した青年は飛び上がり、叫んだ。
「キリエ……キリエはどこだっ!」
「そう興奮するなって。別に取って食ったりしてない」
とにかく落ち着けと今にも暴れ出しそうな青年をなだめるおっさんの横で、二代目は眉一つ動かすことはなく説明を始めた。
「彼女、キリエさんは無事だ。君の隣のベッドで同じように眠っている。気になるならこのカーテンをめくるといい」
青年から見て右側のカーテンを指さし彼女はその奥にいると伝えれば、彼は躊躇うことなくカーテンを開くために自分の右腕を伸ばし、その手を引っ込めた。
「っ……!」
引っ込めた腕を二人にも見られないようにと慌てて布団の中へと戻すが、今更だ。二人の様子を窺えば一人は目を瞑り、もう一人はバッチリ見ましたと言わんばかりに笑いを堪えている。
「怯えなくていい。我々も君と同じだ。……自己紹介がまだだったな。俺は二代目、こっちはおっさん。俺は髭と呼んでいるが……そこらは些細なことだ。気にする必要はない」
「良い反応するじゃないか。その腕を見て異常だと思っているところを見るに、理性はあるようだな」
誰がどう見ても異様なこの腕を見ても二人は怖がらないどころか、そのこと自体が別段変わったことではないとでも言いたげな態度に青年はあっけにとられ、開いた口が塞がらなかった。
「少しは落ち着いたようだな。……では建設的な話をしよう」
そういって二代目はおっさんに青年を保護した時の状況を話してやれと促した。これを受け、笑いをこらえていたせいで引きつっていた表情筋を引き締めなおし、学校付近の道端で倒れていた二人をここに連れて来たこと、その時にはもう腕が凶変していたことを教える。
「俺、助けられたのか。キリエのことも……」
「簡潔に言えばそういうことだ。で、ここからが本題なんだが、坊や。その腕はいつから?」
いつからと聞かれて、青年は思い出す。目深帽子の男に突然襲われたこと。そいつは自分をというよりキリエを狙っていたこと。
「キリエが襲われて、俺が守らないとって思ったら急に力が湧き出て……気づいたら、腕がこんな風に」
「守りたい、か。どうやらその想いが覚醒のきっかけになったようだな。その後はうまくレネゲイドをコントロール出来ず、無意識にワーディングを展開したといったところか」
「Hmmm……二代目。坊やがレネゲイドの扱いを身に着けたらこの腕、元に戻せると思うか?」
「十分可能だろう。無論、誰かがある程度傍について教えてやらねばならないだろうが」
「ま、待ってくれ! なんだその、レネゲイドとかワーディングって。あんたら、俺の腕が何でこんな風になっちまったのかとか、襲われた理由とか知ってるのか?」
勝手に納得して話を進めていく二人の会話についていけず、青年は慌てて遮る。助けてくれた二人のことを完全に信じ切っているわけではないにしろ、危害を加えてこないところや自分の腕がどうしてこうなったのかを知っているなら教えてもらいたいと、藁にも縋る思いだった。
「む、すまない。話を急かしすぎた。……そうだな。君にはある程度、この世界について話しておかねばなるまい」
そういって二代目から語られた話は、今まで日常側にいた青年にはとてもじゃないがすぐに飲み込める内容ではなかった。
この世界は約二十年前から未知のウィルス“レネゲイド”によって侵蝕され、人類の約八割以上が感染していること。そして、その中の一部の人間が発症することで、人を超えた存在──オーヴァード──となること。オーヴァードとして覚醒した者は常人を遥かに超えた運動能力や知覚能力を発揮することが出来るようになり、まさに超人となることなど、他にもにわかに信じがたいことをいくつも説明された。
「は、はは……。なんだよ、それ。じゃあ……なんだ。俺はその、オーヴァードとかいうやつになっちまったっていうのか……?」
「そういうことになる。……なんだ坊や、びびっちまったか?」
「なんの冗談か知らねえけど、嘘をつくならもっとましな嘘をつけよ。そんな馬鹿げた話、信じられる、わけ……」
信じられるわけがない。だというのに、震えが止まらない。……青年はもう、気づいてしまっている。信じられないんじゃない、信じたくないだけなんだと。
自分の右腕が……凶変してしまっているこの右腕こそが、彼らの語る話を確固たるものにする証拠なんだと。下校時に突如襲ってきた目深帽子の男の腕が獣のそれになったのも、先ほど話されたオーヴァードの持つ能力の一つだったのだと。
「どういうきっかけだったにしろ、君はオーヴァードとして目覚めてしまった。それは紛れもない事実だ。だからこそ、これからの身の振りを考えなくてはならない」
残酷な現実を突きつけられ、それを理解してしまった青年は項垂れた。
確かにあの時……。目深帽子の男に襲われた時。
キリエを守りたいと、そのための力が欲しいと願った。しかしこれでは、こんな腕のままでは彼女を守るどころか、逆に怖がらせてしまうばかりだ。
「そう落ち込むなよ。確かに力を制御するっていう中々に面倒な一面も増えるが、今までできなかったことが出来るようになるのは意外と楽しいものだぞ?」
「……そもそも、あんたたちは何者なんだ。なんでそんなことに詳しい?」
これだけ話をして、今になってそれを聞くのかと別の意味で度肝を抜かれた二人は顔を見合わせ、おっさんは声高らかに笑いだし、二代目もほんの少しではあるが口元を緩めた。
「俺たちも君と同じで、オーヴァードだ」
「そう、なのか? じゃあ俺と同じように体のどこかしらが変わってんのか?」
よくよく考えれば、しっかりと設定の練られたごっこ遊びをしている痛い大人たちだと一蹴する方が現実的だったかもしれない。しかし、この時点で青年はとんでも話を信じつつあった。そういった考えに至った経緯はやはり、自分の腕が変わったことと、襲ってきた男の腕が変化するところを目撃しているという事実が大きかった。
だから青年は二人の外見をあちこち見回し、どこをどう見ても普通であることに違和感を感じてしまっていた。
「あー……シンドロームの話もしてやらないとなのか。本当、よく三人も引き取って育てたな」
「手のかからない良い子ばかりだったさ。それにお前も、覚悟して拾ってきたのだろう? きちんと面倒を見てやれ」
訝しむ青年の態度を見て、おっさんは説明することが多すぎると頭を抱え始めた。そんなおっさんに追い打ちをかけるように少しの間席を外すと言って二代目は立ち上がり、おっさんの肩を軽く叩いて医療室を後にしてしまう。
彼の含みある言い方に、一体どこまで見透かされているのかとおっさんは肩をすくめた後、青年の方に向き返った。
「いいか坊や、小難しい話はこの際置いておく。……初めに聞くぞ」
先ほどまでにも散々いろんなことを聞かされてきたが、一貫しておちゃらけた様子だったおっさんがあまりにも真剣な表情になるものだから、青年は息を飲んでおっさんを見据えた。
「幸か不幸か、坊やは人智を超えた力を手に入れた。……その力、何に使いたい」
オーヴァードの説明を受けた青年には今、いろんな選択肢が与えられている。
一つ目はこの力を隠し、今まで通りの日常へと帰ること。二つ目は力の使い方を覚え、非日常へと立ち向かうこと。三つ目は本人が望むなら力を思うがままに振るい、己の……オーヴァードという存在を世界に知らしめるために暴れまわってもいい。もちろん、他に何か望むものがあるのなら、それのために行動するのも一興だろう。
ざっと上げるだけでもこれだけ好きなことが出来る力を手に入れたのだ。だったらその力を使うことを誰に止める権利があろうか?
「俺は……見知らぬ人間のために力を使うほど出来た奴じゃなければ、他人を傷つけて暴れまわるような趣味もねえ。ただ、大切な人を……キリエを守れるなら、それでいい」
「はっはっは! 良い答えだ! 気に入った。流石、俺が見込んだだけのことはある。おい坊や、名前は?」
青年の答えを聞いたおっさんはすごく嬉しそうで、豪快に笑い飛ばした後も顔を綻ばせている。偽善なんか一ミリも含まれていない素直な想いを受け取り、おっさんは名前を聞く。
「……ネロだ。あんたのことはおっさんって呼んでいいのか?」
「ああ、それで構わないぞ。さて坊や、まずはその腕を元に戻さないとな」
聞かれたから答えてやったというのに結局坊や呼ばわりの挙句、乱暴に頭を撫でてくるものだからやめろと左手で追い払えば、ケラケラと笑いながらおっさんは謝罪と呼べるかいささか怪しい謝罪を述べ、ネロの右手を掴んで言った。
「いいか、レネゲイドをコントロールするには心持ちが何より大事だ。だから強く念じてみな、自分の腕が元に戻るように」
本当にそんなことで戻るのかと視線で訴えると、いいからやってみろと視線で返されてしまった。仕方がないので言われたとおり元に戻れを強く念じていると赤い鱗は消え、指先も普段と変わらないものへと変化し、何処から見ても人間の腕と変わらないものへとなった。
「戻ったのか……? 本当に……?」
「見てのとおりさ。ただ覚醒したばかりで不安定だからな、気を抜くとまたさっきみたいになっちまう可能性がある。せいぜい気を付けるんだな」
特に感情が高ぶると暴走しやすいと付け加え、ネロの腕が元に戻ったのでおっさんは手を放しながら次の話題へと入る。
「教えないといけないことは他にも山積みだが、生憎俺は教えるのがうまくない。それに坊や自身も今日は意味不明な話を大量に聞かされてお疲れだろう。ということで今日はもう家に帰るか?」
「は……? いや、正直これ以上話を詰め込まれても右から左に流れそうだからありがたいけど、いいのか?」
思っても見ない提案にネロはまばたきを繰り返し、本当にそんな緩くていいのかと何度も確認を取った。
「構わないさ。そもそも俺はオーヴァードである前に、ただのなんでも屋だ。別に誰かから坊やたちを助けてやってほしいなんて依頼は受けてないんだから、家に帰したって何も不都合なことはない。ちなみにさっきの旦那……二代目もただの事務所のオーナーってだけだぜ?」
「事務所のオーナーは十分すごいと思うけど。じゃあ、なんで俺を助けてくれたんだよ」
「なんで助けたって、そりゃお前……うまく言えないが、そう。近い将来、互いに“必要な存在”になると感じた。だから助けた」
「はあ? 意味分かんねえ」
「なんというか、非日常であるこっちの世界にも色々とルールってものが存在していてだな、これが複雑に絡み合っていてややこしいんだ」
今日は一日中意味が分からないことだらけで、もうネロの頭の中はいっぱいだ。その中で分かっていることと言えば、自分がオーヴァードが蔓延るというもう一つの世界に足を踏み入れてしまったことと、きちんと使いこなせればキリエを守ることが出来るということだ。
他にもオーヴァードというのが何なのか聞かされたが、正直覚えていない。それでも二つのことが理解できる環境に来れただけでも御の字だった。
だから今は、それだけ分かっていればいい。
「……じゃあ、俺はもう帰っていいんだな?」
「好きにしな。彼女も目を覚ましてこっちの話を窺ってるぐらいだし、大丈夫だろ」
ネロが驚くのが先か、おっさんはカーテンを手早く開くと、慌てて寝たふりをしようとするキリエとばっちり目が合った。
「キ、キリエ……今の話、聞いて……」
「ご……ごめんなさい。その、目を覚ましたらネロと誰かの声が聞こえてきたから……」
「おっさん! なんで教えてくれなかったんだ? キリエに聞かせていい話じゃ……!」
「まあそう怒るな。彼女にだって知る権利ぐらいはあるだろう? もちろん信じる信じないは自由だし、そんなに消してほしいっていうなら記憶操作だって出来る」
さらりと出てきた恐ろしい単語にネロは言葉を詰まらせ、慌ててキリエの方を見る。彼女も記憶操作と聞いて恐怖を感じたようで、布団を手繰り寄せている。
「ふさげんな! キリエに何かしてみろ! その首、ねじ切ってやる!」
「冗談にならないからな、それ。本当は記憶操作の話もしないといけないんだが……とりあえず今日は家に帰れ、な?」
「な? じゃねえ! なんでキリエにまできかせたんだって聞いてんだよ!」
「なんでって……じゃあ彼女に聞いてみるか」
おっさんは何故聞かせてはいけなかったのかと頭に疑問符を浮かべながら、キリエの方を向いて問い掛ける。
「今回の話、聞きたくなかったって思ったか?」
「えっ……あの、正直よく分からない、です。あまりにも現実離れしていて……」
「それもそうか。だったら、坊やが自分の知らないところで危険なことに首を突っ込んでいて、それを内緒にされていたら?」
「それは……嫌です。力になれないけど、相談ぐらいはしてほしいって思うから」
内緒にされたままは嫌だとはっきり口にされ、ネロはたじろぐ。まさかキリエがそんな風に考えているとは思っておらず、どう返したらいいのか分からない。
「女性ってのは意外と逞しいものなのさ。必要以上に関わろうとするのは控えるべきだが、まったく知識がないのもそれはそれで問題だ。……とはいえ、今日のことは他言無用にしてくれよ」
もっとも、話したところで信じてもらえないだろうと付け足しながらこれまた笑うおっさんにネロは拳を一発お見舞いし、キリエの腕を引いて医療室から出ていくのだった。
「──っ、なかなか……いいパンチだったぜ」
抵抗せずに殴られたために身体ごと吹っ飛び、おかげでそこらに置かれているいくつかの備品と共に床にダイブしたおっさんの鼻は赤くなっている。すぐに立ち上がってネロのことを追おうかとも考えたが、今はこれ以上何かを聞かせるものでもないと思い、そのまま行かせるのだった。
Middle 02 Scene Player ──── 初代
双子を迎えに出かけてから早数時間。ワーディングを感じ取ったために一旦事務所の方へと帰ろうかと考えた初代だったが、二代目に頼まれたことを優先して今も双子を探している。
「あいつら、どこまで遊びに行ってるんだ……」
まず初めに双子が通う学校に向かったが、すでに帰っているとクラスメイトたちに聞かされた初代は次にいくつかのゲームセンターを回り、さらにはファストフード店をこれまたいくつも回った。その結果は御覧の通り、見つからずじまいだ。
太陽が完全に沈みきったために辺りも暗く、これ以上遅いと二代目に心配をかけてしまいそうだ。双子を探し出せなかったことも心配の種ではあるが、これ以上心労を重ねるわけにはいかないと初代は双子探しを一旦止め、事務所へと戻ることを決断。最後に立ち寄ったファストフードを出て帰ることにした。
「……少し、遠くまで探しに来すぎたか」
近場を探しても一向に見つからないから遠くまで足を運んだのだが、ここまで来ても見つからないというのは想定できなかった。もう少し時間配分を考えないといけないと反省しながら初代が事務所へと戻る途中、ようやく物語は進んだ。
「おいガキ。この服どうしてくれるんだ、ええ?」
何やら路地裏で小物がギャンギャン騒いでいる声が響いてくる。いくらダウンタウンである程度の治安があるとはいえ、夜に路地裏を足せばそれなりに物騒だ。とはいえそんなことにいちいち首を突っ込んでいるほど、初代も暇人ではない。
「むしろこっちが弁償してほしいもんだ、俺のピザ!」
「ピザに関してはどうでもいいが、当たってきたのはお前たちだろう。さっさと道を開けろ」
聞こえてくる声色はよく聞いたことのあるもの……いや、もっと言えば探していた人物の声そのものだ。これでようやく二代目の頼まれごとを果たせると安堵しながら初代は声をかけた。
「やっと見つけたぞ。ったく、何やってんだお前ら」
「あ、初代! 聞いてくれよ! こいつらが俺のピザをダメにしちまったんだよ!」
路地裏に躊躇いなく足を踏み入れた初代がチンピラに絡まれている学生に声をかければ、一人はピザがどうだのとお怒りの様子。もう一人はうんざりしながらも初代が来た事でようやく事態に収拾がつくとため息を漏らしている。
「んだてめえ……このガキどもの知り合いか? へっ、丁度いい。服を汚されたんだ、弁償してもらおうか」
「ああ、悪いな。今はそれどころじゃないんだ。……お前たち、何やってたんだ。まさか、言いつけを忘れたわけじゃないだろ?」
「俺はきちんと帰るべきだと若に諭した。だがこいつが……」
「はあああ? 最初に二代目と初代の役に立つために、情報収集をしようって言い出したのはバージルの方だろーが!」
チンピラを雑に扱いながら初代がお怒りの言葉を双子にかけると、若と呼ばれた方は声を荒げてバージルが言いつけを守らなかったと言う。一方バージルと呼ばれた方はそうじゃないと初代に弁解。これがどうやら若の癇に障ったようで、今度は双子がギャンギャン騒ぎだしてしまい、チンピラたちをそっちのけで取っ組み合いの喧嘩を始める始末。
「あー分かった、分かったから。とっとと帰るぞ」
どうせそんなことだろうとは考えていたようで胸ぐらをつかみ合っている双子を止めていると、次はガン無視されていたチンピラが大激怒。今度は初代がチンピラに胸ぐらをつかまれる羽目に。
「おちょくってんのか? おちょくってんだよな、ああ?」
「次から次へと勘弁してくれ。確か……何だ、服を弁償しろだったな。……これでいいか?」
どこから取り出したのか、初代は手に持っている一本の薔薇の花をチンピラの服についている胸元のポケットに刺しこんだ。そして見て見ろと言わんばかりに服を指さすと、そこには確かについていたはずの汚れがきれいさっぱり消えていた。
そんなバカなとチンピラは何度も見直し、さらには汚れていたはずの場所を触ってみるがベタつきは一切なく、シミも残っていない。
「お、おい! 一体何したんだ?」
「騒ぐなって。別に大したことじゃない。それより、汚れてないんだからもういいよな。帰らせてもらうぞ」
何が起こったのか全く理解できず放心状態のチンピラの拘束から逃れることはたやすく、今もにらみ合いを続ける双子を半ば引きずる形で回収した初代はようやく事務所へと帰着するのだった。
Middle 03 Scene Player ──── ネロ
医療室から出て行ったきりの二代目はカウンターにノートパソコンを乗せ、調べ物をしていた。医療室から時折聞こえてくる怒号や笑い声をバックミュージックがわりに作業を進めていると、一際大きな音が響いたのちに二人分の足音が広間に入ってきた。
「身体の方は良さそうだな。彼女も目を覚ましたようで何よりだ。気を付けて帰るように」
視線を上げることなく、部屋から出ていこうとしている二人に声をかける二代目。まったく気配を感じなかったため、誰かいると思っていなかったネロとキリエにとっては突然背後から声をかけられたような状態で、びくりと身体を強張らせた。
「……すまない、驚かせたか?」
「いや……まあ。……その、世話になった」
いちいち癪に障る喋りや煽りを入れてくるおっさんに感謝の言葉は浮かばないが、常識離れしていた内容を出来るだけ簡単に、理解できるように根気よく教えてくれた二代目には頭が上がらない。
もちろん全部を信じているわけではないし、いまだに夢を見ているのではないかと思うこともある。それでも彼には感謝してもいいと、ネロは思った。
「困った時はお互い様だ。こちら側のことで何か困り事が出たらここに来るといい、髭が力になってくれるだろう」
「おっさんよりあんたの方がよっぽど信用できるんだけど」
ネロの辛辣な言葉に二代目は苦笑いを浮かべ、どう伝えたものかと困った様子だ。
「元の性格も相まって不真面目に見えるかもしれないが……いや、事実不真面目だな。……安心してくれ、困ったことがあれば俺も力になろう」
「それなら……また来るかもしれない」
「あっ……助けてくださって、ありがとうございました」
手を引かれながら歩いていたキリエは最後にお礼を言い残し、先に部屋から出て行ったネロの後を慌てて追って出ていった。その代わりと言わんばかりのタイミングで医療室からおっさんが出てきて、ソファに腰かけた。
「面白い奴だったな」
「お前に対して顔面へ殴りを繰り出せる度胸があるなら、こちら側の世界でも十分にやっていけるだろう」
いまだに真っ赤な鼻をさすっているおっさんを横目に返事してやれば、そうだろうと嬉しそうに彼は語る。
「今は坊やが俺たちを必要とする側でしかないが、いつか必ず俺たちがネロを必要とする時が来る。……そう感じたんだ」
「お前がそうだというのなら、そうなのだろう。これがオーヴァードの紡ぐ縁だというのなら、全力で守り抜くまでだ。そのために事務所を立ち上げたのだからな」
大きな事務所ではない以上、こちら側のことを知らない人物が一人増えるというのはそれなりに負担も大きい。拾ったおっさんが全面的な世話を受け持つとはいえ、常に危険が付きまとうこちら側の世界では、新人であればあるほど支援する仲間は多い方がいい。それを快く引き受けてくれる者がいるという環境はオーヴァードにとって、それこそ貴重なことだ。
何故なら、彼らは何も知らない人間に理解されることもなければ、協力を仰ぐことすら出来ないのだから。
「ま、そういうことでこれから頼むぜ。オーナー?」
「身内である限り見捨てはしない。……さて、先ほどの彼女、キリエさんの検査結果だ」
先に席を外したのはキリエの容態を調べるためだったようで、この短時間にまとめ上げた一枚の用紙をおっさんに投げて寄越した。
「……レネゲイドウィルスに感染すらしてない、か。中々に珍しいな」
「ああ。記憶操作をしてやれば、すぐにでも向こう側に帰れる」
感染していないということは、オーヴァードとして覚醒する可能性がゼロであるということだ。もちろん、感染しているからといってオーヴァードに覚醒する者はほんの一部に過ぎない。それでも可能性があるのとないのでは雲泥の差であることに変わりはない。
自分の身を守ることが出来ない状況下に陥ることには留意しなくてはならないが、オーヴァードとして覚醒してしまった者の方が危険なことに巻き込まれやすく、いつジャーム化するか分からない恐怖におびえ続けることを考えれば、今の時代で感染していないというのは幸運以外の何物でもない。
「記憶操作の事なんだが……」
ネロと、ネロの大切な人の周りでこれから何が起こるのかをキリエにも聞かせてしまったことに、今更ながら後悔を覚えるおっさん。まさか非感染者という珍しい人物であるとは思っておらず、どうしたものかと頭を悩ませている。
「どうせ聞かせたのだろう? 彼女が拒んでいないのなら、それで良かったのだと俺は思っている。今の彼の支えは間違いなくキリエさんだ。だったらどの道、いつかはばれる。後になって修復不能なまでに関係がこじれるより、同じ新人として距離が近いうちに互いのことを知っておいた方がこじれも少なくて済む」
オーヴァードになった以上、ネロはこの力と一生向き合って生きていかなくてはならない。何十年と時を経れば物事を割りきったりする力もつくだろうが、彼はまだ高校生になったばかりだ。
力を持っていなくても日々の生活に苦楽を感じ、成長していく大切な時期であったはず。だというのに他の人以上に辛く険しい道へ分岐させられてしまった。感じなくても良かったはずの苦に直面した時、支えてくれるものがあるのかどうか。これがなくなったと感じてしまった時がオーヴァードの最期となる。
今の彼にとっては受け入れられない現実ばかりで、たまたま助けてくれたおっさんや二代目に感謝こそすれ、信用するまでには至らない。
なら、今の彼の支えは何か? それは何十年と共に過ごしてきた家族こそが今の彼にとって唯一にして絶対の絆だ。だから彼は絆を……キリエを守りたいと願って力を覚醒させた。この強い想いを忘れない限り、ネロはきっとこちらの世界でもやっていける。
「殊勝な子で助かったっていうのはあるか。……難しいもんだな、人間とオーヴァードの共存っていうのは」
「一般人からすれば我々は怪物か、檻から放たれた猛獣にしか見えないだろう。事実、ジャームは先の言葉どおりだ。そんな危険を孕んだ者を許容出来るほどに、人間の心は出来ていない。今回彼女が信じてくれたのは……それだけ彼のことを心から信じているからだろう」
「まったく羨ましい限りだ。そんな彼女を守るために覚醒したのなら、力を行使して人間の上に立ちたいなんて願望も持たないだろ。この俺でも今の生活で十分満足出来るんだからな」
こちら側の世界にも二大勢力と呼ばれるものが存在しており、それ以外にもいくつかの勢力がある。オーヴァードとなったものは過半数がそのどちらかに保護され、そのまま管轄下に入って仕事に就く。……その活動内容が正しいものであると信じて。
「二つの組織がぶつかり合っているのをかれこれ十年近く見てきたが、近年はこちら側の在り方を揺るがす事件が多発したからな。……ある意味で自らの道を往く、良いきっかけにはなったが」
「一方はオーヴァードとしての力を隠さず、好き勝手やってるテロ組織。もう一方は一般人とオーヴァードの共存を謳いながらも、実情はレネゲイド関連の事件対応に追われ、どのように共存するのかすら見えていないと来たもんだ。……どっちもどっちだな」
理想や夢物語を受け入れられるほどの余裕が、この世界にはない。危険が我が身に降りかかるかもしれないと分かった時の人間は、ある意味でオーヴァード以上の心ない化け物へとなり果てる。そんな中で一般人とオーヴァードの共存を目指すというのは、はっきり言って実現できるとは考えにくい。
「俺も歳を重ねた。そして、先の見えない共存実現を追い求めるより、大切な者を守る事の方が重要だと答えを出した。大きな組織から抜けたことで苦労はあるが、不思議と不安はない。……お前たちがいてくれるからな」
まっすぐな言葉を向けられたおっさんは少し居心地悪そうに、手に持っている紙を弄んだ。
二代目と知り合ってかれこれ十年以上の付き合いとなるわけだが、当時は全くと言っていいほど互いに関心がなかった。ただ仕事の関係で一緒に行動する回数が増え、自然と話す機会に恵まれた。声をかけてみれば案外話の分かる人物で、嫌がる二代目を引っ張ってバーに何度か通わせたこともあった。
そしてある時、そこまで酒に強くない二代目は飲み始めてすぐに顔を赤くしながら、こう語った。
「俺は、自分が世界にどれだけ通用するのか知りたいと常々考えていた。ある日、それが具現化してな。気づけばオーヴァードとなっていた。当時はまだオーヴァードという存在自体が少なすぎて、他人はおろか、自分ですら自分のことが良く分からなかった。その時は確かに感じていたんだ。何かに蝕まれる感覚──恐怖というものを。だが月日が経ち、自分の能力を理解した時にはもう、恐怖を感じていたことすら忘れてしまっていた。今思えば恐ろしいことだ。ジャーム化する恐怖を忘れるなど、ジャームと変わりない。そんな俺に人間としての心を取り戻させてくれた少年を最近保護したんだ。……俺はあの子たちのために、強く在ろうと思っている」
彼が饒舌に語ったのはこれが初めてだった。確かに酒の力もあっただろうが、ここまで熱いものを胸に秘めている男だったのかと、おっさんは感服した。皮肉屋であるおっさんが誰かにこんな感情を抱いたのは初めてで、だからこそ、この時彼と同じように決意した。
有事の際は力になってやろう、と。
そして最近になってようやく基盤が出来上がり、二代目は事務所を設立するということで所属していた勢力から脱退。このとき、おっさんも同時に抜けて彼の事務所へと転がり込んだ。
それからは毎日好きなように過ごしながら、二代目が可愛がっている息子とも呼べる三人と遊んだりしながら穏やかに暮らしている。
「そんな風に期待されちまったら、働かないわけにはいかねえな。“まつろわぬ獣”って聞いたことあるか?」
昔聞かせてもらった二代目の話を思い出しながら、自分もネロという青年ぐらいは立派に育ててやろうと胸に秘め、そんなことを考えていると思わせないように話題を変える。
とはいえ、長年の付き合いがある二代目が気づかないわけはなく、おっさんの心境の変化を嬉しく思いながらこちらもそれを悟られないようにと変えられた話題に乗っかる。
「いや、ここら一帯でそのようなコードネームで通っている者はいないはずだ。早急に調べてみよう」
「目深帽子が特徴的な男だとも耳にした。……そういや、坊やもなんか襲われたとか言ってたな。明日、どんな奴だったか聞いてみるか」
「それがいい。確証が持てた方が何かと動きやすい」
「坊やのためにも、一肌脱いでやりますか」
普段なら面倒だと嫌がるような仕事も、年長者としていいところを見せないと、なんて珍しく張り切るおっさんを横目に、いつまでも帰ってこない三人をどのように説教しようかと考えながら、二代目も目深帽子の男について調べ始めるのだった。
Middle 04 Scene Player ──── ネロ
オーヴァードとなってから次の日。いつもの通学路をいつものようにキリエと歩いているはずなのに、それがこんなにも気まずくなる日が来るなんて思っても見なかった。
今までだって喧嘩ぐらいしたことはある。どちらも頑固だからお互い謝れずに数日過ごしたことだってある。それでもいつの間にか怒りは治まって、どちらからというわけでもなく謝って関係を修復してきた。
でも、今回は違う。どれだけ時を重ねても、解決されることは決してない。
昨日の夜は家に帰るとクレドに遅いと叱られ、長い説教を聞かされる羽目になった。その後は疲れからすぐに眠ってしまったからクレドには当然話していないし、キリエともまともに会話していない。
「ネロ。……私、考えたの」
「考え……。どんな?」
重い沈黙を破ったのは彼女の方だった。何を言われるのかと変に身構えてしまったネロは自己嫌悪に苛まれながら、悟られないようにと極力普段どおりに振る舞う。
「昨日、いろんなことがあったじゃない? 事が事だけに、今も整理がついていないから、うまく言えないけど……」
隣を歩いていた彼女は瞳をまっすぐネロに向けて、彼の右手を優しく手に取り、言った。
「ネロはネロだから。私の大好きな……誰よりも人間らしい人だから。──何があっても、傍にいるよ」
彼女自身はまだ、ネロの凶変した右腕を見たことはない。それでも右手を手に取ったのは偶然ではないとネロには分かった。
どうやらキリエはほとんどの会話を聞いていたようだ。自分と同じだけの量の話を聞いて、それでも傍にいると言ってくれた彼女の言葉が驚くほどに温かくて、涙がこぼれそうになった。
「……ありがとう、キリエ。何があっても、俺が守って見せるから」
泣き顔を見られたくなくて、隠すようにキリエを抱きしめながら改めて誓う。
──何があっても、彼女を守り抜くと。
通学路で大胆なことをしていたため、先ほどの行動は瞬く間に校内に広がった。元々二人がデキているのではないかという噂は常々あったのだが、今回のことで間違いないとされてしまい、小休憩が挟まれる度にそれはもういろんな奴に話しかけられ、ネロはぐったりとしていた。
ただでさえ自分の身に降りかかったややこしい案件についての考えがまとまっていないというのに、こうも次から次へと追い回されては落ち着いて今後のことを考えられない。
学生であれば誰もが楽しみな時間である昼休みも、今のネロにとっては地獄の幕開けに他ならない。無情にも鳴り響く四限目終了のチャイムを合図にネロが教室外へと駆けだせば、話を聞こうとしている連中共との追いかけっこが始まった。
飛び出した最初の廊下はもぬけの殻で走りやすかったが、購買へと向かう生徒や別のクラスへ移動する生徒で次第に廊下は人で溢れ、うまく距離を離せなくなった。
捕まったが最後、質問攻めにあった挙句昼休みまで潰されるという未来がやって来ることは明々白々。しかしこのままではジリ貧で、最終的には逃げ場がなくなってしまう。どこに逃げればよいものかと思考を巡らせながら走っているとふいに身体を掴まれ、どこかの教室へと引きずり込まれた。
「勘弁してくれ……」
とうとう捕まったかと半ば諦めながら引っ張り込んだ人物を見れば、それは意外な奴だった。
「よおネロ! なんかすげえことになってんな!」
「若か……。お前も俺に質問攻めすんのか?」
ネロのクラスメイトである若とは何を隠そう、入学してから今日までほぼ毎日のように教室で大暴れしている問題児の片割れだ。今日の朝も暴れていたようだが、ネロはそれどころではなかったのであまり記憶に残っていない。
「いや、俺は前々から二人はデキてるって思ってたし、今更聞きたいこととか……いっぱいある!」
らんらんと目を輝かせる若を見ていると目まいがすると言わんばかりにネロは頭を抱えた。残念だが、今日の昼休みは諦めるしかない。
「悪乗りするな愚弟。……すまないネロ、こいつの言うことはあまり気にしないでくれ」
もうダメかと思っているともう一人の問題児、若の双子の兄であるバージルが声をかけてきた。愚弟じゃないと騒ぐ若を雑にあしらう彼にどういうことだと問いかければ、希望のある話を聞かせてくれた。
「昨日、チョークをぶつけた詫びがまだだからな。この時間だけ匿ってやる」
「……本当か? そりゃありがたいけど……どうやって」
「心配すんなって! こう見えて俺ら、この学校の人が来ない穴場とか詳しいんだぜ」
実を言えばこの教室もその一つだと自慢げに語る若。確かに彼の言うとおり、今この教室にはネロと若、そしてバージルの三人しかいない。
「ここのクラスの奴らは誰も教室では食事を取らん。昼休みの終わる五分ほど前からちらほらを帰って来るから、それまではゆっくりするといい」
巨大な学校施設ということもあり、教室の数だけをあげてもかなりの量がある。その中でピンポイントにこういった教室があることを知っているあたり、穴場に詳しいというのは嘘ではなさそうだ。
「……助かる」
「いいって! あ、あとこれ昼飯な。どうせ何も持ち出さずに教室飛び出しただろ?」
何が好みか分からなかったから文句はなしと釘を刺しながら、若はいくつかの総菜パンやおにぎりをビニール袋から取り出し、バージルとネロに投げてよこした。
「なんつーか、こういうところは本当に気前がいいっていうか、人当たりいいよな」
「そうか? 俺は自分のしたいようにしてるだけだから、そう言われてもな」
そのしたいことに“暴れる”さえ含まれていなければもっと色んな人に好かれただろうに、なんてネロは思いながら渡された総菜パンを口にした。
「人当たりがいいのではない。単に何も考えていない馬鹿なだけだ」
「言ったな? 昨日はバージルのせいで怒られたんだぞ。そのおつむの足りない考えのせいでな!」
「貴様の手際が悪いせいで遅くなったことを棚に上げるな。もっと手早く事を済ませていれば役に立てたというものを……!」
こうして始まる兄弟喧嘩。やり取りを間近で見たネロは、この時初めて二人のことを少しだけ理解出来たような気がした。
お互いに一言多いせいで喧嘩になっているのだ、と。
自分も皮肉めいた事を言うことはよくあるため、人の振り見て我が振り直せとはまさにこのことだなと肝に銘じながら、眼を飛ばし合っている双子の仲裁に昼休みを潰されるのだった……。
昨日とはうって変わって騒がしかった学校生活も今日は幕を閉じ、少しずつ西へと傾いていく太陽の光を背に受けながらキリエと下校する。彼女と合流するのにも苦労はあったが昨日のこともあるため、とても一人で帰らせようとは思わなかった。周りに何を言われようが、彼女の安全が最優先だ。
「なんだか、違うことで大変なことになっちゃったね……」
「悪い。朝のは……迂闊だった」
「いいの。嬉しかったから」
はにかむ彼女の手を取り、離れないようにと指を絡める。そして《非日常》へと足を踏み入れる覚悟を決めた二人は自分たちの家ではなく、ダウンタウンへと向かう。
ネロはオーヴァードとしての生き方を知るために。キリエはオーヴァードたちと共に生きる方法を知るために。
「ん……? あれ、お前……ネロか?」
二代目の事務所へと足を進めていると、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声に振り向けばそこにいたのは思ったとおり、若だった。彼の後ろには当然のようにバージルも居て、どうやら二人も学校帰りの様だ。
「げっ、若……」
「露骨に嫌な顔してくれたな。……あ、初めましてだよな。俺は若、こっちはバージル。よろしくな!」
「あ、キリエって言います。……ネロのクラスメイト?」
「そんなところ! まあ無粋なことはしないから警戒しないでくれよ。……ここらでデートすんのか?」
初っ端から無粋なことしかしていないことに気付かないのが若クオリティ。というか本人はこれで無粋なことをしていると思っていないところがなかなかに憎い。違うと否定したいところではあるが、そうなると今度は何処へ行くんだと聞かれるのが目に見えている。ただの学生でしかない自分たちが、ちょっとそこらにある事務所まで……なんて言えばさらに問いただされる未来が待つばかりだ。
なんと言って逃れようかと考え込んでいると、意外なところから助け舟がやってきた。
「それぐらいにしておけ。他人の恋路を邪魔すると馬に蹴られるぞ。……いや、貴様は一回馬に蹴られて死んだ方がいいかもしれんな」
煽りの天才かと思うほどに毒を吐くバージル。そしてこれまた沸点が存在していない若が食って掛かり、双子の喧嘩が始まる。数時間前にも見た光景にネロはうんざりしながら、止めようとするキリエを制止して目的のDevil May Cryへと歩を進めた。
Middle 05 Scene Player ──── ネロ
キリエと一緒に事務所の扉をくぐれば、眼鏡をかけて事務処理に追われている二代目に迎え入れらた。関係者以外立ち入り禁止の部屋に通されると、昨日も見た広間が確認できる。そこにはおっさんともう一人、二十代前半の男が寛いでた。
「やっと来たか、遅いぞ坊や」
ネロの姿を認識したおっさんが起き上がり、第一声をかける。昨日知り合ったばかりだというのに相変わらずな態度に若干のイラつきを覚えながら、ここは我慢の子だと堪え、悪かったと返した。
「ほおー。これがおっさんの拾った噂の青年か。初めましてだな、俺は初代。この事務所のオーナー、二代目の部下だ。よろしく」
「ネロだ、よろしく。こっちはキリエ」
「初めまして、キリエです」
初代は自分から歩み寄り、ネロに手を差し出した。おっさんと違い礼儀正しい彼に安心感を覚えたネロはその手を取り、握手を交わした。
「ふむ……随分と力が強いんだな。キリエちゃんもよろしく」
ネロと握手した初代は感想を口にしてキリエとも握手を交わた後、二人をソファに座るよう促す。
「相変わらず良いお兄さん面が上手いな、初代」
「良いお兄さん面じゃない、良いお兄さんなんだ」
おっさんの皮肉な態度はネロだけのものではなかったようで、ソファに座らせる気はないぞと言わんばかりに占領しながら初代を茶化している。
「髭よ、面倒を見ると決めたのだろう? 座らせてやれ」
最後はオーナーである二代目の鶴の一声で腰を上げたおっさんは、先ほどまでのことはなかったように振る舞い二人をソファに座らせた。
「さてと、坊や。今日もここに来たってことは、覚悟が決まったって思っていいんだよな」
「……正直、そこら辺のことはまだよく分からねえけど、力を制御出来なきゃキリエを守れない」
「なるほど? つまりは力の制御方法を習得してから今後のことは考える、と」
「都合のいいことだってのは理解してる。でも答えを出せって言われても、分からないことが多すぎる」
本来なら早急に答えを出さなくてはいけない事態に直面している。しかし、だからこそ周りに流されるのではなく、しっかりと考え抜いた末、後悔のない選択をしたいとネロは考えていた。
「それだけきちんと考えてるなら、今はそれで十分さ。だったら早速、昨日の話の続きと行こうか。まずは……こちら側の二大勢力の話をしようか」
昨日の帰りがけに濁した、こちら側のルールという話はこの二大勢力が原因だと前置きをしてからおっさんは語った。
こちら側の世界には“Universal Guardian’s network(ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク)”──通称UGN──と呼ばれる、人類とオーヴァードの共存を目指して活動している組織と“Farce Hertz(ファルスハーツ)”──通称FH──と呼ばれる、テロや犯罪を起こしている組織があると教える。
「ここでちょっと面倒くさい話になる。UGNは人類とオーヴァードの共存を目指していると言ったが、現段階ではまだそれを掲げる時期ではないという考えの元、オーヴァードの存在そのものを隠している」
「隠してるって……オーヴァードって人間を遥かに凌駕する能力の持ち主ばっかなんだろ? そんな簡単に隠せるもんなのか?」
「簡単に事を成してるかと言われると難しいが、事実として隠すことにはほぼ成功している。……思い出してもみろ。坊やは自分が覚醒するまでに、一度でも超人やら化け物やらの話を聞いたことがあるか?」
娯楽でそういった単語自体を聞いたり見たりはある。しかし、本当にそんな存在がこの世にいるなんてことは昨日までは考えたこともないし、例え本当にいるんだと友人に切実に訴えられたとしても、そんなことあるわけないと一蹴していただろう。
それはキリエも同じようで、実際に襲われたからこそ存在を認めたぐらいだ。それがなければ今もこんな話を真剣には聞いていない。
「隠してる理由は簡単。オーヴァードの存在が公になれば社会の崩壊は目に見えてる。だから情報操作して、知られないように隠してる」
情報操作と聞いて昨日の物騒な単語、記憶操作が蘇る。これだけ広い世界でオーヴァードのことを隠し通しているということはつまり、そういうことだ。
「とまあ、なんかUGNは悪い組織みたいに語っちまったが、これはあくまでも問題になっている一面を挙げたに過ぎない。基本的には善良な組織でな、坊やみたいに右も左も分からない奴がオーヴァードとして覚醒した時に、その力を使いこなせるようにと面倒見てくれたり、キリエちゃんみたいな一般人が巻き込まれた時に保護して、日常へと帰してやってるんだ」
記憶操作はそのために必要なことだとして使っているだけで、決して悪用することはないとおっさんは言葉を足す。
ここまでの話を聞いて思い返し、おっさんや二代目がしてくれたことはUGNの組織がしてくれたそのものであると理解する。
「UGNについてはこんなもんだな。……で、今度はFHだが、これはもう簡単だ。オーヴァードの力を際限なく使い、悪事を働くテロ組織さ。未だ何を目的にしているかは分からない所も多いが、UGNと幾度と無く衝突を繰り返してる厄介な奴らだ。関わり合いなんかを持った日には毎日のように戦いを強いられるぞ」
他にも勢力がないとは言えないが、こちらの世界に入ったとしてもまずこの二つの組織について頭に入れておけば当面は問題ないと伝え終わったおっさんは普段したこともないような説明に疲れたのか、気怠そうだ。
「まあ、何となくは分かった。……で、おっさんたちはUGNとかいう組織の人間ってことでいいのか?」
「坊や……なんでその答えに行きついた……あっ、あーもうダメだ! 俺には説明しきれん!」
むしろ先の説明であれば、おっさんたちがUGNの人間であると考えるのは至極真っ当なのだが……肝心なことを話していないことを完全に忘れているおっさんは、ネロが勘違いしている理由が分からない様子。挙句に慣れていないことをしているせいで頭はもう回っておらず、ギブアップだと二代目に説明を投げた。
「髭が根をあげてしまったな。ここから先は俺の方から説明しよう」
話を投げられた二代目は仕方のない奴だと苦笑しながらもおっさんの説明を引き継ぎ、ネロたちに説明を再開する。ネロからすれば何が違ったんだと言いたげだ。
「先ほどのUGNの情報操作の話になるが、これは事件に巻き込まれてしまった一般人に対してのみ行っていることではなく、世界そのものにオーヴァードという存在はいないと認識させるほどに大きく情報規制をかけているんだ」
その綻びを作らないために、関わってしまった一般人に対しては記憶操作を行い、こちら側の世界に足を踏み入れた新人にも、関係者以外には明かさないようにと良く言って聞かせるほどだ。そして世界にオーヴァードの存在が知られないようにと国の最高機関すらもが動いて関連情報を規制しているというのが、今の世界の仕組みだ。
「もっとも、オーヴァード自らその力を人に明かそうと思わないのは、君にもわかるだろう?」
自分は化け物ですなんて話したところで、何を言っているんだこいつといった蔑みの目で見られるのは考えつくし、もし認めさせようと本当にその力を振るえば、それこそ迫害されるだろう。迫害で済めばいいが、下手をすれば命を奪われるまで十分にあり得る話だ。
「さて、それだけオーヴァード……引いてはレネゲイドという存在は機密情報なわけだが……我々は一般人であるキリエさんにもこのことを聞かせている。つまりこれはUGNという組織と違うことを物語っていると、理解できるだろうか」
UGNであったなら例外なくキリエも記憶操作をされている対象になっていた。それをしていないというのはUGNと違うことを示すのに大きな事柄だ。
「……だけど、FHとかいうテロ組織でもないんだろ?」
「誓って」
だったら何なんだと核心に迫ろうとしたとき、何やら騒がしい声が二つほど近付いてきて、先ほどネロたちが入ってきた扉が豪快に開け放たれた。
「ただいま! 二代目聞いてくれ! またバージルの奴が……!」
「また貴様はすぐに二代目に頼るのか! 少しは自分の力で解決しようとは思わんのか!」
「お前がそれを言うか? 何かあったらすぐに二代目と初代に報告する癖によ!」
「伝えなくてはならないことを伝えるのは当然だ。それが俺たちの家を守るためなら、何故報告しないという答えが出てくる」
「……若、バージル、客人の前だ」
いつものように喧嘩をしながら帰ってきた双子、若とバージルの登場に二代目は頭を抱えながら静かにするようにと諭す。
客人と聞いて、ここに一体誰が来るんだと思って双子がソファを見れば、そこに座っているのは喧嘩をしている間にどこかへ行ってしまったネロとキリエではないか。
「はっ……え、あ、ネロか?」
「な、なんで若とバージルがここに……」
「それはこちらの台詞だ。そもそも、この部屋に入れてもらえるということは……つまり」
「なんだ、知り合いか?」
双子の反応を見るに、ネロと面識があるというのはすぐに察せられる。おっさんの確認の意味を込めた問いかけに四人はそれぞれ頷き返した。
「では、我々が一体何なのかという話をしよう。ここDevil May Cryは表上事務所として銘打っているが、実を言えばオーヴァードが集まった家でな。俺を筆頭に、ここにいる者は全員オーヴァードであり、平穏な日常を求めて活動している。……ただそれだけの小さな組織だ」
FHに入ればただの道具として扱われ、UGNに入れば己がジャーム化するか、はたまた死ぬまでFH構成員との戦いに駆り出される。
日常を求めて戦っているはずなのに、戦うほどに日常が離れていく虚無感。泥沼化したオーヴァード同士の攻防。
オーヴァードとなっただけで自分の命の扱い方すら縛られるのは間違っていると異を唱えた二代目はUGNを脱退し、自ら保護した三人の青少年たちとUGNエージェント時代からの旧友、計五人でこの組織を設立。今現在では穏やかな日常を過ごしながら、自分たちの周りに危害を加えようとするジャームだけは討ち取っているというのが活動内容だと説明した。
「じゃ、じゃあ……若もバージルも、オーヴァードだったのか……?」
「むしろ、俺はネロがオーヴァードだったことに驚いてるんだけど……」
「だったら聞いて更に驚け。坊やは昨日こちら側に来た新人だ」
「マジ?」
クラスメイトがまさかのオーヴァードであったことに驚いている三人は、同時に仲間がいたという安心感が生まれたのか、なんだかんだと話し込み始める。
先ほどまで小難しい話をしていたおっさんと二代目は一瞬にして毒を抜かれた気分だが、それでも友人と他愛もなく話すという日常の光景に表情を崩した。
「でも、なんでネロはオーヴァードになっちまったんだ?」
若にどうしてと聞かれ、自分がオーヴァードとして覚醒した元凶である目深帽子の男の話を覚えている限り話せば、おっさんは心当たりがあるといった振る舞いを取って見せた。
「なんで襲われたとかは心当たりがないんだ。ただ、あの時はキリエを守りたい一心だった」
「そうだったのか……。任せろよ、絶対そいつはとっちめてやるから」
「こら若、一人で行くなよ。……安心しな。流石に坊や……というよりキリエちゃんが狙われる理由までは現段階ではまだ絞りきれないが、襲ってきた目深帽子の男についてはぼちぼちと情報がある」
最近この街にやって来た“まつろわぬ獣”というコードネームの人物がいるということ。それは目深帽子が特徴的な男だという情報から察するに、キリエを襲ったのはこいつでほぼ間違いないだろう。
「いや、そこまで世話になるのはいくら何でも……」
「何を言っている? 家族を助けるのは当然だろう」
「かっ、家族?」
バージルがさも当たり前のように言うものだから、ネロはどういうことだとおっさんに問い詰める。
「さっき二代目が言ったじゃねえか、ここは家みたいな組織だって。俺だけは居候だから若干立ち位置が違うが、他の四人は冗談とかじゃなく家族みたいなもんだぞ」
「UGNと違って、こちらからオーヴァード関連の事件に関わったりはしないが、向こうが日常を脅かすというのであれば話は別だ。大切な者たちを守るためなら無論、全力で叩き潰す」
その相手が誰であってもと言い切る二代目の迫力は、先ほどまで根気よくこちら側の話をしていた時の彼とはまるで別人で、敵対した者は何人であったとしても許さないという強い意志を感じさせるものだった。
「二代目、顔がマジモードになってるぜ。とまあそういうわけで、残念なことに坊やは俺に拾われちまった訳だから潔く諦めて、この双子どもと仲良くしてやってくれ。……キリエちゃんもな」
「あ……その、私も……いいんですか?」
ここにいる全員がオーヴァードであると聞かされ、キリエは一人場違いだと居心地悪そうにしている。
「遠慮することはない。キリエさんが望むのであれば記憶操作を施すことも視野に入れるが……」
とはいえ、記憶操作をされることに恐怖を感じないわけでもない。今こうして、見て、聞いてきたことが“なかった”ことにされるというのは、とても恐ろしいことだ。
「……いえ。足を引っ張るかもしれませんが、私はネロのことを全部知りたいと思います。ですから、このままでいさせてください」
「了解した。ただ、一般人には話したとしても、基本的には信じてもらえないということは念頭に置いておくといい」
必要以上に混乱を生む必要はないという二代目の忠告を素直に聞くキリエは大きく頷き、これからよろしくお願いしますと礼儀正しくお辞儀をした。
「家族が増えたな、二代目?」
「全面的に二人の面倒を見るのは髭だからな、家族というよりは隣人が増えた気分だ」
おっさんと若に絡まれるネロと、その横でどう止めるべきかと困っているキリエを見ながら、初代と二代目はこれからの日常に想いを巡らせる。
オーヴァードだったからこそ知り合えた、彼らとの楽しい日常を夢見て。
Middle 06 Scene Player ──── ネロ
半ば強制だった気もするが本人もここの組織でいいと同意したということで、一時的にネロはDevil May Cryに仲間入りを果たした。もちろん一般人であるキリエも歓迎された。
一旦日を改め、今日は学生たちの休日。朝早くからDevil May Cryの面々が揃っていた。
「ネロにキリエさん。君たちを組織に迎えられたこと、心から嬉しく思う。事務所内は好きなように使ってもらって構わない。仕事を割り振った時も、基本的には自分のスタンスにあったようにこなしてくれればそれでいい。ただし、危険な場面に直面すると感じた時は一人で突っ走らないこと。何かあれば必ず俺か髭、最低でも初代には連絡を入れ、合流するまで待機すること」
「分かった。……で、組織の一員って何をすればいいんだ」
いまいち活動内容が掴めていないのですることはないのかと聞けば、二代目がやや思案した後、特にないと答えた。
「しいて上げるとするなら、もう少しこちら側のことへの知識をつけた方がいいだろう。……若、バージル。お前たちはネロとキリエさんにジャームとシンドロームのことを説明してやってくれ。何なら実際に見せてやって構わない」
「分かった! 二代目たちはどうすんだ?」
「俺と初代は事務仕事に戻る。髭は……」
「俺はちょっくら愛用車で外回りとしゃれこんでくるさ」
格好良く愛用車なんて言っているが、その正体はママチャリだ。そのことを知っている若はあのだっさいチャリンコか……なんて失礼な事を考えているのが表情に出ている。
「じゃ、俺らは表の事務所の方にいるから、何かあったら遠慮なく呼んでくれ」
一足先に出て行ったおっさんに続くように初代と二代目も広間から出て行った。
「仕事は無い……か」
「ん? どうしたバージル。早くネロとキリエに俺らの事、教えてやろうぜ!」
おバカな若には気づかれなかったが、勘の鋭いバージルまで欺くことが出来ないことは重々承知の上、大人組はこの部屋を去った。
事務所の仕事をするだとか外回りをしてくるというのはただの建前だ。本当は先日話に上がった“まつろわぬ獣”のことを調べるために席を外したに他ならない。
どうして本当のことを言わなかったのかまで察したバージルは自分も調査に立ち会いたいという気持ちを抑え、言い渡された仕事に取り掛かることにした。
「まずはジャームからだ。どこまで知っている?」
「……いや、聞いたことない」
ネロとキリエは初めて聞く単語だと答えれば、大事なことだからしっかり覚えておけと釘を刺された。
レネゲイドウィルスに感染し、それが発症した者はオーヴァードとなる。しかしこの覚醒する時の衝動は凄まじいもので、これに飲み込まれてしまうと理性を……心を失ってしまう。この“心を失ってしまったオーヴァード”のことを総称してジャームと呼び、区別している。
「それって……俺もジャームになる可能性があったってことか……?」
「新たにオーヴァードとして覚醒しそうになる者の約半数はレネゲイドウィルスの侵蝕に負け、ジャーム化する。それに、過去形では済まないぞ」
たとえその時は衝動を抑え込めたとしても、オーヴァードとなった者はレネゲイドウィルスに侵蝕される衝動に一生苛まれることになるとバージルは厳しく指摘する。
「……若とバージルも、そうなのか?」
「まあ……な。時々こう……身体の奥底から熱いもんがこみ上げてくる」
抑えがたい衝動のことを思い出し、いつもお気楽そうにしているあの若が表情を曇らせる。それほどまでに、レネゲイドウィルスの侵蝕というのは恐ろしいのだろう。
「オーヴァードになるということはそういうことだ。……だからこそ、二代目はこの組織を作ってくれた。俺たちが心を失わないように、日常に踏みとどまれるようにと」
「二代目が事務所を設立した時に語ってくれた言葉があってさ。俺、今でも覚えてるぜ」
“オーヴァードを人たらしめてくれているのは他でもない隣人であるということを忘れることなかれ”
強く、はっきりとした声で言い切ったあの時の二代目は本当に格好良かったと無邪気に語る若。そんな弟の言葉に珍しく同意を示すバージルを見るに、二人にとって本当に心に響いた言葉なのだということを感じさせた。
「俺たちが持っている力は絶大だ。だが決して力に驕るな。思いあがるな。奴らはいつも俺たちの心を喰らい尽そうとしていると、肝に銘じておけ」
「……ああ。俺は絶対にジャームになったりしない」
隣で不安そうに話を聞いているキリエの手を取り、ネロはジャームになったりしないと誓う。……彼女を置いてジャームになどなってたまるかと。
「それでいい。その強い心を忘れなければ、ジャームになることはないはずだ。……俺から言えることはここまでだ」
これ以上言うことはないと口を噤むバージルを見て、次は俺の番だと若が張り切って話を始める。
「じゃ、次はシンドロームの話な! オーヴァードは超人みたいな力を持ってるけど、みんなそれぞれ得意としてる種類が違うんだ。例えば……」
二人の前に拳を突き出すと徐々に赤からオレンジへと変わり、最終的には白へと変化していった。
「どうなってんだ?」
「なんだろう……熱くなった気がする……」
先ほどまで快適だった部屋の温度が急に上がったようで、キリエが額に汗を滲ませている。
「ご名答! 俺の右手は今、鉄を溶かすぐらいわけない温度にまで上昇してる」
試しに見せてやると若はいい、バージルに何かないかと尋ねれば鉄製のダンベルを投げつけられた。危ねえなと怒りながらダンベルを右手で掴めば、熱せられすぎた鉄は液状化し、床へと流れ落ちていく。
「マジかよ……」
「な? 言ったとおり……っておいバージル! これ、俺の筋トレ用のダンベルじゃねえか! ふさげんなよ!」
「もう一度型に流し込んで冷却すれば元に戻る」
「冷却は可能だが、ダンベルの型なんか持ってる訳ねえだろ!」
見るも無残になってしまったダンベルは原形を留めておらず、残念だが筋トレとしての機能を果たすことはもうないだろう。
「お前のシンドロームは説明しやすい部類なんだ。誇りに思えばいい」
ダンベルに関しては無念としか言えないが、二人にどのような力であるかという説明は十分すぎるほどに効力を発揮した。目の前で鉄を液状化させるシーンを見せられたとなれば、若がどのような力を得意としているかは良く分かる。
「ま……まあこんな感じで、俺は熱……もうちょい詳しく言うなら温度を操るのが得意な“サラマンダー”っていうシンドロームなんだ」
他にも光を操ったり、化学物質を作り出したりとその幅は広く、オーヴァードが持つ能力を体系化し分類したものをシンドロームと呼んでいる。現在確認されているシンドロームは十二種類と言われているがまだまだ未知数であるため、もしかしたら他にも存在している可能性は大いにある。
「オーヴァードは何かしら一つのシンドロームを持ってるってことか……」
「あーっとな。一種類だけの奴を純血種(ピュアブリード)、二種類持ってる奴を雑種(クロスブリード)って呼んでて、雑種(クロスブリード)の方が人口としては多いぐらいだぜ。最近では三種混合種(トライブリード)ってのも出てきて、オーヴァード自体も進化してる」
シンドロームは一人一つではないということ衝撃の事実にネロは頭を抱える。これの意味するところは組み合わせの数だけ得意とするスタイルが違うということだ。だから個々のシンドロームに対策を組んだとしても、組み合わさったシンドローム次第では難なく突破されるということを意味している。
「……取りあえず、すげえ厄介だってことは良く分かった。ちなみに、皆はどんなシンドロームなんだ?」
「俺はさっき見せたけど、温度を操るのが得意な“サラマンダー”の純血種(ピュアブリード)で、バージルは圧倒的な速さと音波を扱うのに長けた“ハヌマーン”の純血種(ピュアブリード)だ」
「へえ……二人とも純血種(ピュアブリード)なのか」
シンドロームは違えど同じ純血種(ピュアブリード)だと聞くと、流石双子と思ったり。
「おっさんは魔眼とかいう球体で重力を操る“バロール”と身体を自由自在に操れる“エグザイル”の雑種(クロスブリード)。二代目は……なんか良く分かんねえんだけど、因子とかいうのを使って自分の領域を作る“オルクス”と万能の天才って言われる“ノイマン”の雑種(クロスブリード)で、初代は雷を操る“ブラックドッグ”とあらゆる物質を別の物質に変えちまう“モルフェウス”に、こっちも万能の天才である“ノイマン”の三種混合種(トライブリード)だな」
一応説明をしたわけだがシンドロームに関しては習うより慣れろな側面が強いからゆっくり覚えていけばいいと言われ、ひとまずは頭の片隅に追いやることに。
「あの、ネロはなんてシンドロームなのかな?」
「確かに、俺たちのことよりもまずは自分の力を知るべきだ。……ネロ、ゆっくりでいい。少しずつ力をイメージしてみろ」
昨日おっさんに言われた、力を使いこなすには強い想いが大事だという言葉を思い出し、バージルに言われたとおり少しずつ力を具現化させていく。
少ししてからイメージするのを止めて自分の右手を見たネロはやっぱりこうなるかと少し落胆しながら、気まずそうにキリエや若、バージルの様子を窺った。
「こりゃ……俺と同じで分かりやすいシンドロームだな」
「身体を変化させる“キュマイラ”か。……他には?」
「後は……血が妙に騒ぐ感覚がある」
「血……ってことは、自身の血液を操る“ブラム=ストーカー”だな。ネロも雑種(クロスブリード)か」
オーヴァードである若とバージルは別段気にしていない様子でネロの右手を見ているが、キリエは初めて見るネロの凶変した禍々しい右手を見て、どう言葉をかけるべきなのか、ひどく悩んでいる。
「……キリエ、怖くないのか?」
「怖くはないわ。だって、どんな姿になってもネロはネロだもの。ただ、その……痛かったりしないのかなって……」
「ああ、見た目以外に変化はないから平気だ」
二人の甘酸っぱいやり取りに若とバージルは顔を見合わせる。キリエの逞しさに感服するのと同時に、オーヴァードになっても日常への架け橋を持ち合わせるネロがとても……とても眩しく見えるのだった。
場所は変わって表側の事務所にて、二代目と初代が自身の持つ情報網を使って“まつろわぬ獣”というコードネームを持った男のことを追っていた。
「…………、……こっちはダメだ。引っかからない」
「そう気を落とすことはない。先ほどツテから情報が入った」
この短時間で難なく調べ上げる腕前に、初代は敵わないなと素直に思う。少しでも近づきたいと常々思いながら行動しているのだが、如何せん目標が高すぎるのか、活動を始めて三年以上経つというのに近づくどころかさらに遠くへ置いて行かれる気がして、焦燥感に駆られる。
「何事も得手不得手がある。それを補い合うために俺たちはこうして共に活動しているんだ。焦る必要も無ければ、自分を卑下することもない」
「……ほんと、どこまでお見通しなんだ」
表情に出したつもりはなかったのだが思っていることを言い当てられ、本当にこの人の観察眼はどうなっているんだと脅威すら覚える。そんな彼が眩しくて、やはり自分の目標だと改めて思う。
「十年以上共に居てもお前たちのことを完璧に理解出来ず、不甲斐ないばかりだ。……話を戻そう。目深帽子の男の名はアーデン。どうやら恋人が目の前で事故死したことが覚醒の引き金になったようだ。そして衝動に飲まれ、ジャーム化している。その事故に関しては少し裏がありそうだが……今はアーデンを止めるのが先だ」
大切な人が目の前で亡くなったと聞き、初代が殺気立つ。持っていたペンを無意識に拳銃へと変化させるほどに。
「裏があるっていうのは“俺と同じ”ようにか?」
「確証のある話ではない。それに、今はネロとキリエさんの安全確保が優先だ」
二代目の諭すような視線に初代は口にしかけた言葉をぐっと堪え、分かっていると小さく呟いた。
「……俺は、いつも我慢を強いてばかりだな」
「やめてくれよ、二代目らしくない。保護してもらって、今もこうして一緒に居させてもらえて……本当に感謝してるんだ。二代目がいなかったら、俺も間違いなくアーデンって奴と同じ未来を辿っていた。だから少し……同情しちまっただけだ」
申し訳なさそうにする彼に、俺は大丈夫だと伝えるその言葉は自分に言い聞かせているようにも見える。それでも二代目は初代を信じ、今後の方針を決めるのだった。
ママチャリを颯爽と漕ぐガタイの良い男はすれ違う人々に二度見されるが、当人は気にせず街を巡る。ご機嫌に鼻歌を歌いながら風を感じていると、ふと路地裏へ曲がる一人の男が視界を横切る。
おっさんは何か考えがあるわけでもなく同じように路地裏へと曲がると……。
「っ──!」
瓦礫が眼前に迫っていた。
誰かにあり得ない力で投げられた瓦礫が速度を落とすことなく壁と接触すれば、衝撃に耐えられなかった瓦礫は更に砕けて地面に落ちた。
「危ないところだったぜ」
間一髪のところで避けたおっさんに外傷は無く、また彼の前には目深帽子の男が立っていた。
「……お前に、用は無い」
「そっちに用がなくても、こっちには用があるんだ。……何故学生二人を狙った」
学生と聞いた目深帽子の男はギラついた眼を帽子から覗かせ、おっさんにゆっくりと近付き始めながらこう言った。
「俺は……事故で彼女を失った。一体彼女が何を……俺が何をした……? ……あまりにも、理不尽じゃないか」
「その腹いせに襲ったのか?」
腕を獣のそれに変えた目深帽子の男はおっさんの喉元に突き付ける。それでも微動だにしないおっさんにイラつきを覚えたようで、さらに声を荒げた。
「……そうだ、この世は理不尽だらけだ! だから俺も理不尽に破壊してやることにした。みんな、俺と同じように苦しめばいい! ……だってそうだろう? たった一人だけが理不尽を背負うなんて、そんなこと許されていいわけがない。だから俺が理不尽を突きつけてやるんだ!」
「だったら、お前も理不尽をぶつけられる覚悟をしておけ。人を殴ったら殴り返されるもんだ。何倍にもされてな」
その言葉が引き金となり、目深帽子の男は腕をさらに伸ばしておっさんの喉を貫く。……しかし、腕が喉を突き刺すことはなく、ただ空を切るに終わった。
「随分と体の柔らかい奴だ。……だが関係ない。もう、誰も俺を止められはしない。世界は俺の手によって、理不尽に破壊される運命なんだ」
吐き捨てるように言った後、踵を返してそのまま路地裏の奥へと姿を消す目深帽子の男の足は尋常ではない程に速く、とても人間では追い切れないものだった。
「あそこまで会話にならないところを見るに、ジャーム化してるのは確定だな。次に会った時をあいつの最期にしてやるのがせめてもの情け、か」
反らしていた首を元に戻しながら、ママチャリを漕いで元来た道へと引き返す。確実に次で最期にするために。
Middle 07 Scene Player ──── ネロ
時刻は午後六時を少し過ぎた頃。学生組がワイワイとこちら側の話を、大人組は目深帽子の男についてそれぞれが情報を手に入れた時、それは起こった。
「……! もう動いたか」
「随分とせっかちさんだな。……場所は、学校か?」
ワーディングが展開されたことを感知した初代と二代目は現地に向かうべく準備を始めると、隣の部屋からは騒ぎながら若が飛び込んできた。
「二代目、初代! 今……!」
「若も感じ取ったか。……今まで使っていなかったものをわざわざ使ってくるあたり、誰かを誘き寄せたいのだろう」
一般人であるキリエは一体何の話をしているのかさっぱり分からないが皆の慌てようを見る限り、何か良くないことが起こり始めたということをその肌で感じていた。
「……二人を狙っている、か」
バージルの考えに二代目は頷き、キリエと同じく何が起こったのか理解出来ていないネロの元へ行き、説明した。
「レネゲイドが活性化したのは感じ取れたか?」
「ああ、それは感じた」
「恐らくだが、アーデン……目深帽子の男が君を誘き出すためにワーディングを張った。理由は……」
ちらりとキリエを視線に入れ、再びネロと目を合わせる。
「……また、キリエを狙いに来るのか」
「ほぼ間違いないだろう」
自分が狙われていると聞かされたキリエは両手を祈るように重ね、震えを抑えている。それでも弱音は吐かず、二代目の話に耳を傾けた。
「ワーディングの中では一般人は意識を保っていられない。だからキリエさんにはここで待っていてほしい。必ず、俺たちが迫る危険を取り除こう」
「……分かりました。ここで、みなさんを帰りを待っています」
不安に押しつぶされないように精一杯声を絞り出し、キリエはここで待つことを決める。ネロはそんなキリエを見て口を開こうとした時、別の人物の声に遮られた。
「待たせたな。……坊や、行くぞ」
ほんの少しではあるが息を乱したおっさんが事務所へと戻ってきた。そして有無を言わさずネロの腕を引いた。
「ま、待ってくれ! 俺はキリエの傍に……」
「彼女を守るんだろう? だったらお前が現場に向かって、その手で倒さなくてどうするんだ。……それともなんだ、ずっと俺らに守られる坊ちゃんごっこがご所望か?」
「そんなわけないだろ! 俺がどれだけの覚悟でこの世界にキリエと一緒に来たと思ってんだ!」
「だったら今、その覚悟を見せてみろ。……安心しな。ここに居ればキリエちゃんは絶対大丈夫だ」
ネロの言わんとすることが分からないわけじゃない。あくまでも目深帽子の男が狙っているのはネロではなく、キリエだ。だから彼女の傍を離れたことによって何かあるのではないかと、気が気ではないのだ。
「ネロ、私は大丈夫だから。……気を付けて、行って来て」
「キリエ…………。……、分かった。絶対にぶっ飛ばしてくるから、もう少しだけ……」
「うん、待ってる」
最後は彼女の一押しを受け、目深帽子の男の元へ向かうことを決めたネロ。
キリエを危険に晒すあいつを……自分をこちら側に引きずり込んだあいつを絶対にこの手で仕留めると胸に誓って。
「そうでなきゃな。……さて二代目、どういったメンツでお出かけだ?」
「誰か一人はキリエさんのために残れと言いたいのだが……」
オーナーである二代目とネロの教育係であるおっさん、そして当人であるネロの出陣は確定として、残るは三人なのだが……。
「俺は絶対に行く! ネロのこと心配だし、何より俺の友達に手を出した奴だから一発殴らないと気が済まねえ!」
「無論、俺もだ。ネロに俺たちの力を見せるのにいい機会だ。それに待っているのは性に合わん」
「おっと、今回は俺も譲る気はないぞ。ちょっと訳ありだからな、この目で確かめたいことがある」
言わずもがなで双子は行く気満々だし、初代もアーデンという男の詳細を聞いたこともあってか自分も行くの一点張り。誰に似て育ったのか知らないが、とにかく言い出したら絶対に曲げない頑固者ばかりだということを嫌というほどに知っている二代目はどうしたものかと困り顔だ。
「今日は坊やの歓迎会としゃれこもうぜ、二代目」
「……仕方ないな。キリエさん、少しの間一人にしてしまうが、どうか許してほしい」
申し訳ないと軽く頭を下げた後、改めて二代目がメンバーに声をかける。
「いいか、決して無理はするな。だが、我々の日常を脅かすジャームは確実に無力化しろ。手段は問わない」
今ここにいるのは一家庭の父親ではない。
Devil May Cryという組織を率いるオーナーとして、日常を守るためオーヴァードとなった二代目だ。その瞳は日常を脅かした者に例外なく罪を償わせるという確固たる意志を宿している。
そしてそれは、これから赴く場所が多くの危険を孕んでいることを認識させることに一役買った。初めてジャームと対峙するネロはもちろんのこと、今までにも幾度となく戦ってきたおっさんですら、その表情は固いものになっている。
「では“まつろわぬ獣”を討ち取りに行く」
壁にかけてあったコートを羽織り、事務所の扉を開け放つ。二代目に続くようにそれぞれが思いを胸に、足を進ませる。
“まつろわぬ獣”というコードネームで呼ばれる、アーデンというジャームに罪を償わせるため。そして日常を取り戻すために。
Climax 01 Scene Player ──── ネロ
ネロたちがいつも通っている学校に来ると、辺りは明らかに異様な雰囲気を醸し出していた。学生や教師がいないだけでなく、小鳥などといった小動物すら一匹たりとも見当たらない。
「……やっと来たか。あまりにも遅いから、尻尾を巻いて逃げたと思っていた」
「余計な心配を掛けちまって悪かったな! こっちにも準備ってものが必要だったんだ」
アーデンの挑発をおっさんはいなす。他の面々はこれが初対面なために特段何か思うことはないが、ネロだけは違った。
「間違いない……。あの時キリエを襲った奴だ」
「まさか、昨日の子どもを連れて来てくれるとは思わなかった。……君なら俺の気持ちが分かるはずだ。意味も分からないまま大切な人を失う恐怖が。自分すらも理解できない力に侵されていく感覚が。……世の中は理不尽なことしかないということが、君になら分かるはずだ」
思い出すは昨日の夕暮れ時。突然現れた目の前にいる男のせいでキリエは危険な目に合い、そして非日常の一端を見ることになってしまった。
自分だけだったならば、ここまでの怒りは沸かなかっただろう。だが奴は……目の前の男は、絶対に巻き込んではいけない大切な人を巻き込んだ。
「この力を手に入れた時、大切な人に軽蔑されるんじゃないかって怖かった。だが今は違う。これは、守るために俺に与えられた力だ。……お前みたいな理不尽から、彼女を──キリエを守るためになっ!」
自分と全く同じ境遇であるはずのネロに全面から否定されたアーデンは狼狽え、肩を震わせ始める。
「よく言った坊や。それでこそ、面倒見があるってもんだ。……そうと決まれば、さっさと片しちまおうか」
「良い決意だ。俺も全力でサポートしよう」
「これはまた熱い想いを持った家族が増えたもんだ。……兄貴分としていいところ、見せないとな」
ネロの熱い言葉を聞いた三人はそれぞれ力を具現化させる。
おっさんは魔眼と呼ばれる球体をいくつも生み出し、辺りに浮遊させる。二代目は因子を周囲の空間に浸透させ“領域”を作り出す。初代は足元に落ちていた小石を拾い上げたかと思うと、それを二丁拳銃へと変化させた。
「ネロはまだ力を制御しきれないだろうけど、心配すんな。おっさんたちが援護してくれるから、俺らは思いっきり殴りに行くことだけ考えてればいいぜ!」
「おい、ネロに無理をさせるな! ……援護はしてやるが、自分でも攻撃を避けるように心がけろ」
若は拳に炎を纏わせネロの隣に立ち、バージルは音波を操って作った浅葱色の剣を自身の周囲に八本用意する。
「……無駄だ。無駄だ無駄だ! 何人束になろうと、俺という理不尽な力の前には等しく無力に過ぎない!」
アーデンが叫ぶと同時に影が蠢き、彼自身を模した分身が現れる。かと思えばどちらもが肥大化を始め、徐々にその身体を化け物というに相応しい姿へと完全に形を変えた。
「グオオオオォォ!」
人の言葉すらも口に出来なくなった化け物は咆哮をあげる。
「っ……!」
「レネゲイドが……活性化してやがる」
化け物になり果てたアーデンの雄たけびに刺激され、辺りに漂うレネゲイドがどんどん活性化していく。これに当てられた若と初代は己のレネゲイドが騒ぎ、暴走している感覚を覚える。
「若、バージル、ネロ。援護する。好きに暴れてこい」
領域を展開する二代目が年少組に声をかけると同時に、バージルが音波で生成した浅葱色の剣──幻影剣──を一斉にアーデンの影へと撃ち込む。
アーデンの影は音速を遥かに超える攻撃を避けることは出来ず、身体から黒い靄が散っていく。しかしそれだけでは消えることはなく、眼窩をバージルの方へと向けた。
「おっと、俺の大事な弟分に手出しはさせないぜ!」
バージルの幻影剣に合わせるように銃弾の雨を降らせるは初代。その手に握る二丁拳銃──エボニー&アイボリー──から射出され続ける弾丸は全てアーデンの影を貫き、原形を奪っていく。
「これで終わりだ」
もう一度幻影剣を作り出したバージルは残り少ないアーデンの影を散らすよう丁寧に、それでいて迅速に化け物を象る影を塵に還していく。
二人の正確無比なコントロールと圧倒的な火力を前に身体を巨大化させたことは、アーデンの判断ミスという他ない。それを模倣したように作られた影があっという間に塵一つ残さず討ち取られたことが、何よりもその現実を物語っている。だが理性というものを失ったアーデンにそんなことが理解出来る筈もなく、また影が消え去ったこと自体に興味がないように化け物は自分と同じ境遇であるネロだけを狙い、その凶悪な腕を振り上げた。
化け物はただ腕を振り上げただけだったが、その巨体が腕を振り上げるという行動自体が大地を揺らし、空気を震わせた。そんな腕が振り下ろされると、地が裂ける衝撃と共に強靭な身体すらもたやすく引き裂く暴風がネロを襲う。
「避けられっ──」
昨日の今日でまだ完全には力を扱い切れていないネロは一瞬反応に遅れる。訓練だったならば次に活かせばいいだけだが、残念ながら今眼前に迫り来る暴風は間違いなくネロを引き裂かんとする殺意を纏ったものだ。
避けられないということ。それはつまり──死を意味する。
「手のかかる坊やだぜ……。怪我はないか?」
もうダメかと情けなく目を塞いだネロの耳に、皮肉交じりの声が聞こえてくる。一体何が起こったのか確認するために恐る恐る目を開けば、自分の前にはおっさんが身体にいくつかの切り傷を作りながらも大したことがないと言いたげに顔を覗かせた。
「平気……なのか……?」
「身体の丈夫さが売りなんでね。それに二代目と若もサポートしてくれた。……これが、チームで戦うってことだ」
よく見てみるとおっさんの前に炎を纏った防壁と、地面が盛り上がって出来た土壁。さらにおっさんが操っているいくつもの魔眼が衝撃を和らげるために使われたようで、どれもボロボロにはなっているが庇ってくれたおっさんの元に届く頃には威力がほぼ相殺されていることが見て取れた。
「おっさん、無事か?」
「おう、助かったぞ。二代目も流石のサポートだ」
「この程度、造作もない」
寸分の狂いもない援護をする二代目と大きな背中でみんなを守るおっさん。遠距離攻撃でアーデンの影を屠った初代とバージル。そして次は俺たちの番だと言いたげな若はネロに言う。
「な? みんなすっげえつええんだ。だからネロはあいつを思いっきりぶん殴ることを考えてればいい」
「……ああ。今回はその言葉に甘えさせてもらう。……行くぜ!」
庇ってくれたおっさんの横を駆け抜け、若と一緒に化け物の元へと走る。辿り着くまでに化け物は何度も腕を振るってかまいたちを起こすが、初代やバージルの援護射撃により、一つとして若とネロにあたることはなかった。
「まずは一発!」
己の拳を白熱させた若が大きく振りかぶり、重い一撃を腹部にお見舞いする。
全てを燃やし尽くす拳は例外など存在させない。相手がどれだけ巨大であろうとも、どれだけ硬化していようとも、触れたものは等しく燃やす。腹部を中心に発火を起こした化け物はすぐに炎に包まれ、火だるまとなった。
だが相手もオーヴァード。超人と呼ぶにふさわしいその身体はすぐに再生し、若をはね飛ばす。
「相手は若だけじゃねえぞ!」
はね飛ばされる瞬間受け身を取っていた若の姿を確認したネロは今すべきことに集中し、全力を悪魔の右腕に乗せて思いっきり殴る。
「オオオオオォォォ!」
完全な化け物となってもなおネロに対して一際強い憎悪を持っていることは忘れていないのか、殴りつけられ巨体を歪ませてもそれに構うことはなくネロに巨腕を伸ばす。
全神経を右腕に集中させていたために回避動作に入るほどの余裕はなく、ネロは両腕を掴まれる。アーデンは自分の両手の中にいるネロを引きちぎろうと左右に引っ張る。
「ぐっ……ああああぁぁ!」
身体が悲鳴を上げる。本来であればこれ以上伸びるはずのない部位を無理やり伸ばされ、文字どおり皮膚が裂ける感覚が全身を駆け巡る。
「バージル!」
「言われるまでもない!」
二代目が指示するよりも早く幻影剣を展開していたバージルは急襲をかける。それに合わせて領域の幅を広げた二代目は巨大な化け物に突き刺さる幻影剣の威力をさらに高める。
ネロの四肢を引き裂こうとしていた化け物に反応できるわけがなく、脳幹、喉、心臓。ありとあらゆる急所を貫けば、ネロを掴んでいた手はだらりと力を失い、その動きを止めた。
先ほどまで圧倒的な存在感を放つ巨大化していた身体は元のアーデンの姿へと戻り……もう、動くことはなかった。
「……ってえ」
「よくやったな、坊や」
引きちぎられる様な痛みの次は地面に激突する鈍い痛み。まだまだ力をうまく使いこなせないため、若のような重い一撃を繰り出せなかったのは悔しいし、止めを刺せなかったことも不甲斐ないと思う。
「我々の勝利だ」
それでも二代目の言葉が耳に届くと同時に、ようやく終わったんだという実感が沸きあがる。助けてもらってばかりではあったが、この手で、自分の手で日常を……キリエを守れたことが本当に嬉しかった。
Ending 01 Scene Player ──── 初代
アーデンを討ち取るとともに、ワーディングが解けていく。新人を連れてのジャーム狩りは初代にとっても初めての経験であったため、不安がないわけではなかった。だが心配は杞憂に終わり、こうして無事に皆で事務所に帰れると思うと、これでよかったんだと思える。
「……事件を起こしても覚醒するのは弱い奴ばかり。だというのに副産物で生まれた彼はあれほどの力を……一体何が違うというのか? まこと、興味が尽きない。……次はあの“レネゲイドビーイング”をぶつけてみるのも悪くない……」
「──誰だっ!?」
風に運ばれるように聞こえてきた謎の声。しかし周りを見ても自分たち以外には誰もいない。それに自分以外の面々は先ほど聞こえてきた声に気付いていないようで、アーデンの処理などを進めている。
「……この事件には裏がある、か」
今日手に入れた日常は仮初であるという予感。初代はこのことを自身の内に秘め、二代目たちの手伝いに戻るのだった……。
Ending 02 Scene Player ──── ネロ
アーデンの処理を終えDevil May Cry事務所に帰ってくると、キリエが出迎えてくれた。
「ネロ! おかえりなさい」
「ただいま」
おかえりなさいのあいさつがこんなにも温かいものだったのかとネロはその肌で感じると同時に、キリエを守れたんだという嬉しさを顔に出さないよう、ぶっきらぼうに返事をする。
「何照れてんだ坊や」
「照れてねえよ」
そうやって態度に出すからすぐにバレるのだが、こればかりは直らなさそうだ。
「なあなあ。ネロは家に帰るのか?」
家に帰るのかと不思議なことを聞くのは若。これに対してネロは当たり前だろと言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
「二人を狙うジャームは駆逐したから、家に帰っても問題はないだろう。……しかし、しばらくの間は力の制御方法を学びにここへ立ち寄るといい」
今回の戦いで嫌というほどに直面した力量差。確かに自分は昨日から力を使い始めたばかりだが、それを言い訳に出来るほど甘い世界ではない。相手がこちらに何かしらの敵意を持ち、襲い掛かってきた時、今日のように力を制御し切れず仲間に迷惑をかけていてはいつ足元をすくわれるか分からない。だからこそ、力を制御するということを早急に求められている。
「俺が家に居たら、やっぱジャームに狙われやすくなったりするのか?」
「意味も無く力を使わなければ問題ない。しかし、自分がジャームになった時のことは想定しておくべきだと、忠告しておこう」
オーヴァードは常に自身の内に巣食う悪魔──レネゲイドウィルスに抗い続けなければならない。ジャーム化するというのも、明日は我が身かもしれないのだ。そしてジャーム化した者に理性はない。傍にいる者を片っ端から殺戮していくような化け物に変わり果てるのだ。
その時、家に居たら……? 何が起こるか、想像するにたやすい。
「……俺の部屋って、用意してもらえるのか?」
「必要とあれば。……ただ、今日は一度帰ってご家族にきちんと挨拶はしてくるといい。明日までには用意しておこう」
ネロの決意に寂しそうな表情を浮かべたキリエは少しの間、俯いていた。しかし、次に顔を上げるときにはいつもの柔らかいものになっていた。
「クレド兄さんには、私も話を合わせるね」
「ありがとう、助かるよ」
自分の兄が頑固者で、こういった非現実的な話を信じるような人ではないことを良く知っている二人は説得に骨が折れそうだと苦笑い。
こうして後日、ネロは正式にDevil May Cryのメンバーになり、おっさんという指導役の元でレネゲイドのコントロール方法を学ぶために居候し始めた。
キリエと一緒にいる時間が減ってしまったことは確かに寂しくあるが、自分が力を扱い切れるようになれば彼女の日常を守ることが出来ると思えば辛くは無かった。
それに……。
「こんにちは」
「おっさん、帰ったぞ」
「ただいま二代目! 聞いてくれよ、今日もバージルの奴が……!」
「貴様が先にへまをしたからあんなことになったんだ」
たまにではあるが四人で事務所に帰ることもあり、これはこれでなかなかに充実した毎日だと、ネロは思う。
第一話「失われた日常」 了