lost days

Opening 03 Scene Player ──── ネロ

 朝にチョークをぶつけられたこと以外は極めて平和な一日が過ぎ、放課後。部に所属していないネロは、同じくどこにも所属していないキリエと一緒に帰る。
 ネロは部活なんて面倒くさいという理由で入っていないのだが、キリエは家計の負担になるようなことはしないという考えで入っていない。本人自身は特に入りたいものがなかったから、なんて言ってはいるが、気を使っているということはネロだけでなくクレドの目から見ても明らかであり、それが男たち二人の心配な部分でもあった。
「なあ、キリエ。本当に部活、入らなくていいのか? 別に俺に合わせる必要はないって」
「合わせてるわけじゃないよ。本当に入りたいって思う部活がなかっただけだから」
「……そうかよ」
 歌うことが好きなキリエが、合唱部があるにもかかわらず入りたい部がないなんてありえない。だからこうして今までにも何度か聞いているのだが、彼女の意志は堅いらしく、結局はネロが折れてこの話は終わる。今日もその例に漏れることはなく、これ以上は何度問い詰めても仕方がないというネロの考えでこの話は終わりを迎えた。
 ほんの少し気まずく感じてしまう空気の中、事態は急変した。
「…………」
 下校道である堤防を歩いていると、目深帽子の男が不安定に体を揺らしながらネロとキリエの前で立ち止まる。特に声をかけてくるわけではないというのに男は二人の前に佇み、どこうとしない。
「あの……?」
 訝しみながらキリエが声をかけると男は頭をもたげ、瞳を陽に晒した。
 それは、人間のものではなかった。動物……もっと限定的に絞るなら蛇のような鋭い瞳孔をしており、まるで獲物に狙いを定めたかのようにギラついている。
「キリエッ!」
 横にいたネロにもはっきりと捉えらることの出来る、人間とかけ離れた瞳。とっさに叫んでキリエを引き寄せれば、先ほどまでキリエがいた場所に獣と表現するに相応しい腕が振りかぶられていた。あと少し、引き寄せるのが遅かったら無事ではすまなかっただろう。
「きゃあああぁ!」
 どうやら男の異様な腕をキリエも目撃してしまったようで、ネロの腕の中で恐れおののいた。
「何なんだよお前っ! キリエが何かしたっていうのか!」
 目の前にいる男の怪奇な姿はあまりにも非現実的で、夢か幻なんじゃないかと頭が現実を否定している。
 しかし、これは夢でも幻でもなくて。化け物は今もなお、ゆっくりとキリエに狙いを定めて獣の腕を振り下ろすために一歩ずつ、確実に距離を詰めてくる。
「ネ、ネロ……!」
「キリエ! 走れ!」
 震えあがっているキリエの腕を引っ張って、ネロは元来た道に向かって駆けだした。転びそうになる彼女を支えながら、決して後ろを振り返ることなく必死に、全速力で化け物から逃げていた。
 ……はずだった。
「ネロ! 前……!」
「なっ……くそ! どうなってんだよ!」
 抜かれた気配なんてなかった。だが先ほどの化け物は間違いなく今、自分の目の前にいる。
 横を通り過ぎたわけでもないのに化け物はいつの間にか回り込んでおり、まさか二人いるのかと思って後ろを確認しても、似たような姿の化け物はどこにも存在しない。
 この化け物は正真正銘、先ほどまで後ろにいたはずの奴であるという現実がさらに二人を戦慄させた。
 肝心の化け物は二人の恐怖していることに反応することなく、どういう目的かは分からないが獣の腕でキリエを引き裂こうとまた一歩ずつ、その距離を縮め始めた。
「どうして、こんな……」
 ほんの数分前まで、ただ家に帰るための道を歩いていただけのはずなのに。日常が崩れ去るのはあまりにも唐突で、理不尽で。だというのに抗うことすら出来なくて。にじり寄って来るそれに怯え、命が刈り取られる時を待つことしか出来ないなんて。
 ──そんな現実、到底耐えられるわけがなかった。
「こんな意味分かんねえことで……失ってたまるかよっ……」
 気付けば口から洩れていた。この言葉が恐怖からくるものなのか、決意の表れなのかは分からなかったが、素直な気持ちだった。
「キリエは俺が守る……! 何があっても!」
 そう叫んだ時、自身の内側から何か得体のしれない力が溢れ出てくる。同時に周囲は異様な静けさに包まれ、背中に隠れていたキリエが意識を手放し、ネロにもたれ掛かった。
「……覚醒、したのか」
 目深帽子の男が初めて口にした言葉は理解出来ないものであるはずだった。だが、自身の内から何か強大なものが飛び出そうとする感覚があるネロには何となく、言いたいことが分かってしまった。
 背中に感じるキリエの体温が辛うじて理性を保たせてくれている。
 それとは裏腹に、ネロの内に秘められた強大な力は具現化し、右腕を凶変させた。指先は鋭く尖り、青く変色している。そして第一関節全体が赤い鱗に覆われた。
「腕、が……!」
「まるで悪魔だな。……すぐにお前も、俺と同じになる」
 獣の腕を人間の腕に戻しながら、目深帽子の男はネロの右腕を見て“悪魔”だと言った。ネロはどうして自分の腕が目深帽子の男と同じように形が変わってしまったのか意味が分からないまま、それでも的を射ていると妙に納得してしまった。
「誰がお前なんかと同じに……っ!」
 キリエの命を脅かした奴の言葉に納得している自分が腹立たしくて、振り払うように声を出した時には驚くべきことが起こっていた。目深帽子の男が忽然と姿を消していたのだ。
 超常現象の連続にネロの脳みそは理解できる許容量を超えた。さらに得体のしれない力を無理やり覚醒させてしまったためか、急激な疲労が襲ってくる。
 沈みゆく意識を保つことは出来ず、ネロもまたキリエと同じように崩れ落ちるのだった……。