六月二日午後一時五十一分。
「ネロ、渡したいものがある」
車の整備をしている最中、二代目から差し出されたものを受け取ると、それは何かの破片だった。外した部品かとも思ったがわざわざ渡してくる理由がないし、見た感じ車の部品ではない。
何だと思ってよくよく観察してみると、破片には加工された跡があった。尖っていたであろう部分にやすりをかけて丸みを帯びさせ、怪我をしないようにと配慮が施されている。
手間暇をかけられた品物であるということは分かったが、結局のところ何であるのかはっきりとしない。答えを求めて渡してきた本人の方を見てみると、じっと破片を見つめていた。
この視線をネロは知っている。二代目が、自分の右腕がまるでそこにあるかのように見つめてくる時の視線だ。
流石のネロも、この時ばかりは相手が二代目だろうと関係なかった。いい加減にしてくれと、無くなったものを存在しているかのように見つめてくるその視線にうんざりだと物申した。……いや、正確には口を開きかけた。
直後、右腕に違和感が走った。すると、自分の目で確認するよりも先に自分の右腕に位置する部分から青い何かが伸びて、目の前にある車を持ち上げていた。
「あ? なんで車が離れて──」
車の下に潜り込んで作業をしていた若がすっとんきょうな声をあげた。若からすれば、まさに車が空を飛んだような感覚だ。そして疑問を言い終わる前に車が降ってきたせいで声が途切れた。
ネロは今起きた出来事の一連がよく分からず、持ちあがって落ちた車をただ茫然と見つめていた。当然、自分がやったんだという自覚もない。ただ一人、二代目だけはこの結果に満足しているようで口元を緩めている。まさに求めていた結果だと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべていた。
「いってえ。ったく、何だってんだよ」
車の下から出てきた若は悪態をつきながら鼻先をさすり、何が起きたのかを確認するために辺りを見渡そうとして、目の前にいるネロを凝視した。
「おいネロ、それ……」
若が指を差した先はネロの右腕があったところだった。思考が停止しているネロはぼんやりと、言われたままに自分の右腕を見る。
腕があった。半透明に透けた青い腕が、確かに存在している。
だがネロにはどうも、これが自分の腕であるという感覚がなかった。事実、動かしてみようと思っても動かないし、よく見てみると斬られてしまった部分ともつながっていない。元来あるべき場所よりやや外側に覆うような形で現出しているというのが正しい表現であった。
形状は千切られる前まであった悪魔の右腕にかなり近い。というか、この腕にネロは見覚えがある。
魔剣教団事件を解決する際に死にかけたことがあり、内なる力を解放した時に現出させた、青い魔人の腕だ。瀕死だったことはほとんどうろ覚えだが、気付いた時には閻魔刀が自分の手の中にあったことは確かに覚えている。
そして現在、右腕を失ってしまってからネロは内なる力を解放することが出来なくなっていた。理屈はよく分かっていないが自分の力を解放するために右腕が必要だったのか、或いは閻魔刀を失ったからなのか……どちらにしろ、鍵を握っていた両方を失ってしまった今、青い魔人を呼び出すことは不可能だった。それが何かをきっかけに右腕の部分だけだが現れたのだ。自分の意志ではない何かが、まるで失われた部分を補おうとするように。
「やはり、奴の息子だな」
全て計算通りであるといった具合に近付いてきた二代目に対し、あろうことか青い腕は周りの物を手当たり次第に持ち上げては投げつけ、極め付けに殴りかかろうとした。最初こそは驚いた二代目はすぐに表情を戻し、リベリオンを手にして投げつけられたスパナやらを弾き、殴ろうと伸びてきた青い腕を斬った。
痛みはなかった。ただ青い腕は霧散して消えてしまい、何も残らなかった。
いまだに事態を飲みこめないネロは二代目を見て、若を見た。同じく何が起きているのか分からないといった顔をしていた若も、ネロが握りしめている破片を視界に捉えてようやく納得した。
「ずっと気配は感じてたんだが、出所が分からなかったんだよな。どこで手に入れたんだ?」
全く気付いていなかったネロと違い、若はずっと破片の存在を認めていた。所在こそ掴めなてはいなかったが、二代目が持っていたのであれば何も不思議なことじゃないとすんなり事態を飲みこんでいる。
「出かけ先で少しな。ついでにもう一つ、面白いものを手に入れた」
そう言って二代目が見せてくれたのは魔具だった。両手足に現れた形状を見るに、若の持っているベオウルフやおっさんが扱っているギルガメスと同じ籠手のようだ。今は色を失っていて全体的に黒色が目立つが、曰く、殴れば殴るほど威力が上がるらしい。最大出力に至った時には煌々と赤くなるとのこと。
「いや。新しい魔具のこともいいけど、これは?」
手渡された破片を突きつけて意識をこちらに向けさせる。二代目に新たな力が加わっていたという事実は今後において頼もしいことだから嬉しい報告だが、今知りたいのはそれじゃない。
「分からないか? つい数週間前まで肌身離さず持っていただろう」
まさかと思った。破片をもう一度確認すると、これが何か分かった。
「閻魔刀?」
二代目が頷いた。若も間違いないと、同じく頷いた。
確かにこれは閻魔刀の破片だ。一度気付いてしまえば、渡された時にどうしてすぐ気付かなかったんだろうと不思議に思うほど、この破片は他では考えられないほどの存在感を放っている。
長年を共にしたために染みついたであろうバージルの気配。閻魔刀自身が内包している唯一絶対の、人と魔を分かつといわれる力。どちらも奪われてしまった閻魔刀と比べてしまうと見劣りするが、破片という本来であればただのガラクタでしかない姿であるというのに、わずかでも力を宿しているということを考えるとやはりそこらの魔具と同列には扱えない代物だ。
「見つけた時は破壊する算段だった。手に持っているから分かると思うが、破片ですら力を有している。悪用されると面倒だからな」
でも、二代目はそうしなかった。直感的なもので残さなくてはと思い至ったのか、何か別の用途を思いついたのか。どちらであったにしろ、結果として閻魔刀の破片に呼応されてネロの右腕に変わるものが現出した。
つまり、これは抗うための超越した力。単なる右腕の代わりではない、新たな力を手に入れたということだった。
「二代目がずっと俺の右腕を見てたのはこうなるって分かっていて、か」
「確証はなかった。だがネロになら、抗うための何かを宿してくれるのではないかと思いついただけだ」
とんでもない発想を思いつくものだ。それだけ閻魔刀の力を認めているということなのか、自分のことを信じてくれているのか……。考えて一人で勝手に恥ずかしくなったネロは顔を見られないよう大げさに視線を落とし、気を落ち着かせた。
「さっきの青い腕を見た後だと、閻魔刀が一度砕けちまったことも必要なことだったんじゃないかって考えちまうな」
若自身は元の世界に帰らなかったために歩むことのなかった並行世界の話。再びバージルと激闘を繰り広げた際に折れた閻魔刀についてはおっさんからそれらしく聞いただけでしかなく、元に戻った瞬間についてはネロがとにかく力を求めたら戻っていたという何とも大雑把な経緯しか知らない。だが、情報としてはそれだけあれば十分だ。
閻魔刀は一度折れて、元に戻った。この時に砕け散った破片の一つがこうしてネロの元へ辿り着き、また力を貸してくれている。
「つっても、さっきの様子じゃ自分で制御出来ないんだろ?」
いきなり車を持ち上げたと思えば手を放したり、二代目に殴りかかったり、明らかにネロの意志に反した動きをしていたことは確認を取らずとも分かる。なら、今後の方針は決まったも同然だ。
「残りの修理は頼むぞ、若。俺はネロが魔人の腕を制御出来るよう、稽古をつける」
「いいぜ。俺もさっさと直してそっちに加勢するから、ネロもそのつもりでな」
ネロの返事を待たぬまま二代目は工具をしまい、若は車の下へと潜っていった。とんとん拍子に進んでいくから渦中にいるはずのネロが若干の置いてけぼりを食らっているが、決定したことに異論はなかった。
確実に、新たな力を自分のものにする。これこそがVと約束した日までに必要とされていることだ。
「どうしたら腕が現出するのか。そして自分の思い通りに動かせるようになるのか。……ものは試しだ、かかってこい」
理屈なんてない、手あたり次第の荒業。どうすればいいか分からないものなど考えようがないのだから、全力で二代目に向かって行くだけだ。そうすれば自ずと見えてくるものがあるはず。そう信じて出来ることをするだけだ。
相手となってくれる二代目は先ほど見せた新たな魔具──バルログを装着し、構えを取っている。
「やってやる。怪我しても恨みっこなしだぜ!」
掛け声とともに、ネロは得物も持たぬまま二代目へと突撃していった。