That day

 六月一日午前三時三十三分。
 腹部に感じる痛みで意識がぼんやりと戻ってきた。体中の軋み具合から、どれだけの間眠っていたのかを考えようとしたがすぐに思考は停止した。
 目の前はただ暗くて、何も見えなかった。ダイナはこの闇が何であるかを思い出し、恐怖する。
 自分の上には何か、温かかったはずのものが被さっているのではないだろうか? それも、二つ。今は冷たくて、そして重たい。
 腕の中には母の形見である魔具が確かにあった。これは、大切な人たちを守るために必要な物である。……では、守るべき者たちは一体どこに行ってしまったというのだろう。震える身体で必死に地面を這って、自分の上に被さっている何かから出ようと試す。
 傷を地面にこするたび、痛みから逃げるように意識が飛びかけた。ようやく這い出ることが出来ても辺りは薄暗かった。ほとんど明かりのない中で自分の姿を確認すると、全身が赤かった。
 ──同じだ。
 あの日と同じ。何も変わっていない。なら、自分にかぶさっていた者たちは……。
 見てはいけないと脳が強く訴えかけている。見てしまえば、認めなくてはならないから。そして認めてしまえば、もう二度と正気を保ってはいられない。
 逃げるように眠っても、現実はずっと付きまとうだろう。忘れようとしても、脳に焼き付いた光景は一生消えないだろう。狂気の中に身を隠しても、己が自身を絶対に赦さないだろう。どのような手段を取ったとしても苦痛から逃れられないのなら、道は一つしか残されていない。
 死の扉を開けること。最後の手段だ。死ねば、どんなものにも傷つけられることはない。そう言われている。 振り返ることは即ち、死を意味していた。そのことを理解してしまっているからこそ、脳は拒絶する。本能が生にしがみつかせようと、生き物として当たり前のことを全うできるようにと歯止めをかけているのだ。
 だが残念なことに、ダイナには知能があり、そして感情がある。何より、自身の命以上に大切だと思えるものがある。見ないままこの場を立ち去ることは、あり得なかった。
 ゆっくりと振り返り、先ほどまで倒れ込んでいた場所を見る。自分に覆いかぶさっていたものは──。
 一人は赤いコートを身に纏い、中に黒のアンダーシャツを着て袖まくりをしている。赤いズボンを見事に着こなす人物など、そうはいない。だが彼は、本当に良く似合っている。男性にしては長く伸ばされた綺麗な銀髪は瞳を隠し、決して表情を覗かせない。
 もちろんこれは通常時の、普段の初代だったならそうであるという外見だ。今は赤黒いペンキを頭から被り、それを洗い流すことなく乾燥させたように汚れていて、ほんの少しも動くことなくただそこに横たわっている。
 もう一人は青いコートを身に纏い、同じく中には少し小洒落た模様の入った黒い服を着ている。こちらは長めに伸びた銀髪をオールバックにしているから、端整な目鼻立ちがはっきりと見える。ただし眼孔は鋭く、かなり強面でもあった。
 当然ながらこれも通常時の、普段のバージルだったならそうであるという外見のことだ。こちらも同じように赤黒いペンキを全身にぶちまけたように体を汚し、ほんの少しも動くことなく、初代にかぶさるように横たわっている。
 ありとあらゆる部位が一色で染まっているから、瞬間的に見ただけでは人であるかどうかも訝しむような状態だ。しかし、どんな姿になっていたとしても、この二人を見間違えることはなかった。ダイナにとっては人生の始まりからずっと一緒に居ると言っても過言ではないほどに、同じ時を過ごしてきた者たちだ。だから……だからこそ、彼らが何をしてこうなったのかが嫌というほどに分かる。
 自分が初代を庇ったのと同じように、この二人も庇ってくれたのだ。
 何も変わっていないではないか。あの日と同じで、何も変わらない。守らなくてはいけない人たちに、あろうことか“自分が”守られて、挙句に生き残っているなど、こんな皮肉があって良いものか。
 ──良いわけがないだろう?
 同じ過ちを二度も繰り返して良いわけがない。特にあの日を、自分が守られて大切な人たちを失う過ちだけは絶対に、二度と繰り返してはいけないのだ。
 初代を庇い、意識を手放す最中で誓ったではないか。絶対にあの日を繰り返しはしないと。
 ここが、魔界だと思って訪れたこの地が魔界ではなく自分が居た元の世界だと、一体の悪魔を見た時に確信した。だから目の前に広がっている結果を覆さなくてはならない。何を以ってしても、覆さなくてはいけないのだ。
 そして自分には、今目の前に広がっている現実を覆すことが出来る。
 母、エイルは生粋の悪魔であった。自分は悪魔、エイルの娘だ。もう半分の血が人間のものであったとしても、間違いなくもう半分は悪魔なのだ。そしてその半分の血がエイルと呼ばれる悪魔のものであるなら、可能なはずだ。
 たった一度見ただけではあるが、絶対に忘れたりしない。自分の母が神の御業に匹敵することを成しえたことを。そして自分も同じ奇跡を成しえるだけで、目の前の現実を覆せる。自分は奇跡を成しえた者の娘なのだ。同じ血を持っているのなら、出来ないはずがない。
 だから自分の命を大切な人に分け与えることぐらい、簡単なことだろう?
 目の前の者たちを、自分の命を使って生き返らせるという行為に一切の迷いはなかった。ただ数瞬だけ、ダイナを躊躇わせることがあった。
 どちらに奇跡を使えば良い? 初代とバージル、どちらを選べば良い? 考えようとして、止めた。どうせ自分にはどちらの方が大切かなど、優劣をつけられるはずがないと分かっていたからだ。それに、優劣などというくだらないものをつける必要もない。
 どちらにも奇跡を起こせば良いだけだ。どんな現実も事はいつも単純で明快。複雑化してしまうのは余計な可能性を勝手につけ加えてしまうからで、真の姿には何も難しいことなどない。
 …………。
 分かりきっていることだが、この時のダイナは既に正気を失っていた。自分の命を使えば死者を蘇らせることが出来て当たり前だという思考に行き着いている時点で、まともなわけがない。人は死んだら蘇りはしないのだ。これは世界の摂理であり、永久不変である。にも関わらず、ダイナが出来ると信じ込むのは自身の目で見たことがあるという事実が大きな要因として働いているのだろう。
 それでもだ。それでも、行き着く考えとして正しいのは出来る可能性があるというところまでである。何故なら奇跡を起こしたのはエイルであって、ダイナではないからだ。確かにダイナはエイルという悪魔の娘ではあるが、残念ながらエイル本人ではない。どうあがいても、出来る可能性がある止まりなのだ。
 では、ダイナが出来ると断言するだけの根拠が何処にあったのか。残念ながらそんなものは存在しない。彼女は勝手に出来ると信じ込んでいるだけで、事実を裏付けてくれる事柄は何一つとしてありはしない。だが、根拠などあろうがなかろうが、今のダイナにとっては大した問題ではなかった。
 二人を死なせてしまったとなれば最早生きている意味などないのだから、出来なかった時のことなど考える必要がないのだ。
 奇跡を起こせた時には既にこの世にいない。起こせなかった時は自分の存在理由がなくなるのだから、この世にいる理由がない。この世にいる理由がないなら、死ぬだけだ。実に簡単だろう?
 地面に擦ったことで大きく抉られていた上体の傷口が開いていることに構わず、貧血によって引き起こされている眩暈に気を向けることもなく、自分の手を初代とバージルの露出されている肌に伸ばす。そっと、眠る幼子を起こさないよう細心の注意を払いながら触れようとする母のように、指先が震えないよう力を込めてゆっくりと伸ばしていく。
 指先が触れる。いや、感覚を集中しすぎて辺りの空気に触れたことを感じ取っただけだ。
 この時になってようやく自分の精神状態が異常であると気付いたが、無視した。今から二人を蘇らせるために正気であるかどうかなど、どうでも良かった。別のことに注意を向けられるだけの余裕などなかったし、今この瞬間にとってもっとも不必要であるものだと潜在的に感じ取っていた。正気に戻ってしまえば、成しえようとしていることがどれだけ無謀で、不可能であるかを理解してしまうと分かっていたから。
 今度こそ変えてみせる。未熟で、弱くて、力がなかったから失ってしまった全てを取り戻す。その一心で二人に手を伸ばした。
「間一髪、か……?」
 あまりの衝撃に脳みそが麻痺してしまった。何が起きているのか分からなくて、茫然と眼球を動かし、人間を形どるありとあらゆる部位を何度も確認する。変化が起きたのは唇と、手首を掴む大きな手。聞こえてきた声は確かに初代のもので、自分の右手を掴んでいるのも間違いなく、初代の手だ。
「どうやら、貴様も無事だったようだな」
 小さくではあるがもう一つの声も聞こえてきた。喋った人物は先ほど喋った者以上に苦しそうにしているものの、ゆっくりと体を起こし始めているところを見るに、数日安静にしていれば十分に回復が見込める容態だった。
「お陰様で」
 少ししわがれているように聞こえたことは気にならなかった。幻聴ではなく、本当に二人の口から紡がれた言葉だと理解した時には堰を切ったように感情が溢れだし、自分の早合点だったことにただただ感謝した。
「寂しかったか?」
 たくさんの想いが混ざり過ぎて、言葉を返せない。何でもいいからどうにかして想いを伝えたくて、必死に初代とバージルを手繰り寄せようと震える手を伸ばすと二人とも拒まず、優しく抱擁してくれた。
 確かに感じられる赤と青の光はあの日よりもずっと前の、穏やかに家族と過ごしていた日々の温かさと同じだった。

 六月一日午前四時十四分。
 過ぎた時間で言えば四十分弱といったところか。当人たちは倍以上に感じていたかもしれないが、事実として三人が意識を取り戻してからはその程度の時刻しか過ぎていなかった。
 ダイナが生きてきた中で一番望んでいた出来事が起きて、あまりの嬉しさに起きた出来事をしっかりと現実として受け止めきるのにそれだけの時間を要した。大げさなように聞こえるだろうが彼女にとってはそれだけ大きなことで、むしろこの程度の時間だけで落ち着きを取り戻し始められたことの方が驚くべきことであった。
「俺たちが起きる前、何をしようとしてた?」
 ぐったりと体を横たえたまま初代は問う。魔界に来る直前から、もっと正確に言えばクリフォトの樹を見てからというもの、バージルとダイナの行動は異様な点が多すぎる。何でも一人で抱え込む性格とは言っても、一連の行動はどれも唐突だった。異様な行動が連続的に繰り返される中、初代は彼女の行動に注意を向ける。
 先程の動揺具合から恐らくだが、自分とバージルは死んでいると勘違いしたのではないだろうか? 事実、今も瀕死の状態で、見間違えるのも頷ける程度には悲惨だ。
 ではダイナは、死体に対して何をするつもりだったのだ?
「傷を移そうとした」
 想像通りの、なんの捻りもない回答だった。死者の傷は移せないと分かっていても試さずにはいられなかったことぐらいは……まあ、分からなくない。明らかに隠し事をしている点を除けば、今の発言も真実だと思う。
「お前の母が、俺たちの母さんにしてくれた時みたいに、か?」
 バージルの発言は初代にとって、雲をつかむような話だった。何をいっているのかさっぱり分からない。それはダイナにとっても同じことであるはず。考えなくても分かることだ。
 出会った当初、バージルはダイナを知らないと言っていたし、ダイナもバージルは死んだと口にしている。ここから導き出されたことといえば、二人とも別々の世界の人間だということ。誰も異論はなかったし、何より本人たちが一番納得していた。
 だが今の発言はなんだ? まるでバージルはダイナの母親を知っているような口振りではないか。それも並行世界にいたと思しき母親のことではなく、今目の前にいる彼女を産んだ真の母親のことをだ。
「互いに気付かないものだな。……これだけ近くにいたのに」
 まただ。クリフォトの樹を見た後にみせた、ダイナを心配そうに見るあの目。バージルの心情を変える何かがあったんだと言い聞かせても、気持ち悪くて直視できやしない。
「その視線止めてくれ。……なあバージル、お前一体どうしちまったんだ。らしくないぞ」
「らしくない? 昔から俺は何も変わっていない。むしろ、らしくなかったのは今までの振る舞いの方だろう」
 あまりにも気色悪い受け答えを寄越してくるものだから初代は嗚咽してみせた。しかし、発言はともかく声色はダイナに向けるものを除けば今までどおりだ。
 では、何故今更になって態度を変えた? 特別なことは何もなかったはずだ。
 ダイナ自身も完全に困り果てていた。共に過ごして数年間、こんな風に接されたことなど一度としてない。いつも辛辣で、問題を起こせば容赦なく閻魔刀を振るって斬りかかってきたあのバージルが、こんな……まるで壊れ物を扱うような繊細さを持って接してくるのだ。これなら、変な食べ物を口にしてしまった後遺症だといってもらえた方がいくばくが安心できる。
 ただ、一番ダイナの心を乱したのは先ほどの確信を持って紡がれた言葉の方である。目の前にいるバージルはどうして自分の母が成しえたことを知っているのか? エイルがエヴァを蘇らせたことを知っているのは自分とダンテ、バージルの三人だけだが、その内二人は死んでしまった。だから知っているはずがない。
 それにダイナは態度の変わったバージルを、優しく諭すように、それでいて自分が無理をしないようにと気を配ってくれるバージルのことを知っている。
 自分が物心着いた時から全てを失うあの日まで毎日遊んだ大切な人。死んでしまったと分かってもなお、守り続けたいと願った相手だ。忘れるはずがない。
「奇しくもあの日を再現しかけるところだったが、一つだけ違ったはずだ」
 何のことかと一瞬考えたのち、その通りだとダイナは確信を得る。
 一つだけ、確実に違っていた。あの日のことは細部まで記憶しているから分かる。ダンテとバージルが死んでいないことを言っているわけではないと、ダイナには分かる。
 あの日は、ダンテがバージルにかぶさるように守っていた。傷の具合に大差がないことを自分の目で見たことを覚えている。ダンテに触れて、傷を移せなくて……二人は死んだのだと分かってしまったことを覚えている。
 ダイナは知っていた。自分が死者の傷を自身へ移すことが出来ないことを。何度試しても出来なかった以上、あの日は認めるしかなかった。
 それから数十年が経った今なら出来るかもしれない。だから試さずにはいられなかったし、出来ると信じなければ生きていられなかった。もしも二人は死んだと早合点したまま、死者を蘇らせることが出来ないことを認めてしまっていたら、生き残った自分を許せずに命を絶っていた。
「どうせ、ろくに調べないまま結論を急いたのだろう。ダンテの傷を移せなくて、同じだけの傷を負っている俺のことも死んだと早合点した。……俺には試さないまま、な」
 何も言い返せなかった。事実だから、否定できるはずがない。幼かったあの日、真っ暗闇の中から這い出て、かぶさっていた二人を見て気が動転した。正常な判断が出来ないままに母の真似事をした。ダンテの負った傷が自分に移ってくれず、息を引き取ってしまったのだと理解してしまった。ダンテの死に直面し、同じだけの傷を負ったバージルも死んでいるのだと脳が答えを出した。
 確認したくなかった。見たくなかった。何も考えられなくなって、気づけば走り出していた。何処か行くあてがあるわけでもなく、ただがむしゃらに、無我夢中で森の中を駆け続けた。
 逃げだしたかったのだ。大切な人たちが死んだという現実から。何より、自分という存在を全否定された現実を直視できなかった。守らなくてはならなかったのにあろうことか守られて、大切な人たちを死なせてしまったという事実を認めたくなかった。でも、ダンテの死を見てしまった。認めるしかなかった。
 逃げるように走り続けている中で見つけたのが父の亡骸と思しきものだった。
 見つけてしまったから、まだ誰か頼れる人がいるかもしれないという希望的観測すらも打ち砕かれた。本当に独りになってしまったんだと感じた時には父の亡骸にすがり、形見を抱きしめていた。だが燃え盛る森は悲しむ暇すらくれなくて、煙に追い出されるような形で森を後にするしかなかった。
「本当に、この世界のバージルなの? 私に本を読んでくれたり、一緒に花摘みをしてくれた……」
「ああ。……いままですまなかった。訳があって、言いだせなかった」
 バージルが死んだ事実が覆された瞬間だった。数十年という時をかけて明かされた真実はあまりにも理想的で、すぐに信じてしまってよいのかとダイナを躊躇わせる。戸惑う彼女の頬にバージルが優しく手をあてがえば、恐る恐るといった様子で体を寄せ、大きくて逞しい胸の中へ自身を埋めた。
「ずっと、この日を夢見ていた」
 呟かれた声はくぐもっていてもこの場にいる全ての者に届いていた。身を休めているここが一体どこであるのかを三人はまだ気付いていないが、確かに飾られている肖像画に描かれている人物たちは手放しで喜んでくれただろう。
 ただ一人、黙って話を聞いていた初代だけはバージルを信じていなかった。