ルルアノ・パトリエ 第8話

「うぅ……緊張する……。入ってもいいのでしょうか……」
ララクは緑間家の玄関前で、教科書を抱えながらうろうろしていた。
「あの、あたしの家に何か用?」
「ひゃぁぁ! ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
後ろからかけられた声に完全に不意を突かれ、悲鳴を上げながら頭を下げて何度も謝る。
「何を騒いでいるのだよ。……む、ララクは何をしているのだよ。来ていたのならさっさと入るといい」
「あれ、お隣のお姉さんじゃん! なーんだ、お兄ちゃんに用事があったのね」
「あ、はい。えっと……お邪魔します」
声をかけてきた女の子と共に、緑間宅に勉強をするために足を踏み入れた……。

「俺の部屋は2階に行けばすぐに分かるはずなのだよ。飲み物を持っていくから、先に始めていてくれ」
「はい、分かりました」
緑間に言われたとおり階段を上るとそこには二つ扉があり、それぞれに『真太郎』『由佳』と書かれた札がかかっている。
「えっと、緑間さんの部屋はこっちですね……。入りますよー?」
中に誰もいないことは分かっていても、一応扉をノックし、声を掛けながら入る。
「わっ……本がたくさん……」
緑間の部屋に入っての率直な感想だった。ベッドに机、そして本棚だけという、まさにシンプルな部屋ではあるが、本の数はかなり多い。とにかく突っ立っていても仕方がないので部屋の真ん中に置いてある折り畳み式のテーブルに持ってきた教科書を下ろす。
「……うーん、相手方のお部屋にひとりきりと言うのは、落ち着かない……」
先に始めていてと言われたとおり、取りあえず教科書を開いてはみるものの、どうしても辺りが気になって集中できない。そこに飲み物をおぼんに乗せた緑間が戻ってきた。
「待たせたのだよ。飲み物は麦茶でよかっただろうか?」
「ありがとうございます、お気遣いなく」
「む……、アンカルジアの分を忘れたのだよ」
「あ、アンカルジアは勉強なんてやだ……、ってことで私の家でお留守番してくれています」
「そうか、では早速始めるとするのだよ」
「はい、よろしくお願いします」
こうして始まった勉強会。それを扉の隙間からチラチラと覗き見る人物が一人いたが、勉強に集中している二人は全く気付くことなく、30分以上の時が経過した。

「んっと……、あれ。これはどっちだったかな……」
「どうしたのだよ」
ララクが悩んでいるのに気付いた緑間が声をかける。
「この『責任をツイキュウする』って、どの漢字だったかな……と」
「あぁ、この場合は『追及』が正解だな。こういった同音異義語はしっかりと意味を知らないと答えられないのだよ」
「なるほど、漢字と意味を合わせて覚えるといいんですね。ありがとうございます」
緑間に言われたことをきちんと実行していくララクは、もとより勉強ができないというよりは何をすればよいかが分からないだけで、コツさえ掴めば自らどんどん学び取り、問題集を進めていく。ただ一人、そんな様子にしびれを切らした人物がいた。
「し、信じられない! 二人ともどうかしてるよ!」
ガチャリと勢いよく扉が開かれたかと思うと、先ほど玄関前で声をかけてきた女の子がどかどかを入ってくる。
「由佳か……。勉強の邪魔をしに来たのなら自分の部屋に帰るのだよ」
「あ、あの……?」
ララクは二人を交互に見比べ、どういう関係なのか窺う。
「お兄ちゃん、男としてどうかしてるよ!彼女を自分の部屋にまで連れ込んでおいて何もしないなんて!」
「か、彼女!?」
「なっ……! 何を言っているのだよ!?」
緑間のことをお兄ちゃんと呼ぶ女の子は、何を勘違いしているのか二人が付き合っていると思っているようで、ただただ勉強を続ける二人に文句を言いに来たようだ。
「お姉さんもお兄ちゃんに文句言っていいんだよ? 本当、鈍いんだから……」
「あ、あの、待ってください! えっと、私と緑間さんはそういった関係では……! それに、貴女は……?」
「へっ? 違うの……? なあんだ……、折角あのお兄ちゃんにもとうとう青春がやってきたと思ったのに……。お隣の可愛らしいお姉さんならあたしも大歓迎だったのになぁ……。あ、紹介が遅れたけど、あたしは由佳。お兄ちゃんがいつもお世話になってます……で、いいのかな?」
「緑間さんの……妹さん……?」
「お、お兄ちゃん! もしかしてあたしのこと、一言も話してくれてないの!?」
「聞かれなかったからな」
「兄妹がいるかどうかなんて、言わなきゃ分かんないでしょうが! このバカ兄貴!」
「兄に向ってバカとは何なのだよ、バカとは!」
幸先よく始まった勉強会も、妹の乱入によってどんどん話がそれていく。緑間が誰かと言い合う姿は珍しく、ララクは二人の喧嘩を止められずにいた。
「二人とも、兄妹喧嘩は……」
「本当信じられないっ! あーあ、お兄ちゃんじゃなくて、新崎さんみたいな優しいお姉ちゃんが欲しかったな」
「フン、こっちこそ、うるさい妹はもうこりごりなのだよ」
「そんなこと言っちゃダメです! 緑間さんは優しい方ですし、緑間さんの妹さんだって私たちのことを心配して部屋に来てくれたのでしょう? 兄妹でそんなこと言い合うのは、寂しいですからやめてください」
ララクの言ったことに、二人は目を丸くした。
「あっ……、ごめんなさい……。口を出してしまって……」
「……ううん、こっちこそごめんなさい」
「言い過ぎたのだよ」
バツが悪そうに俯くララクに対して、緑間兄妹もそれぞれ謝る。
「それにしても、お兄ちゃんのこと、ずーっと緑間さんって呼んできたの? それじゃ、あたしも呼ばれてることになっちゃうな」
由佳は少しでも話題を変えようと、別のことに話を振る。
「えっ……あ、そうですよね。緑間さんのお兄さんって呼べばいいですか?」
「何故そうなるのだよ……」
ララクの発想が斜め上すぎて、それに対して首を左右に振りながら緑間は呆れている。
「新崎さんって、天然? お兄ちゃんがちゃんとリードしてあげなきゃいけないじゃん!」
「苗字で呼べないとなったら普通、名前で呼ぶという答えにいくはずなのだよ」
「名前って、いきなり呼ぶと失礼な気がして……。私は呼ばれても平気なのですけど」
「え、いいの? じゃぁララクお姉ちゃんって呼んでもいい? あたし、お姉ちゃん欲しかったんだよね!」
「お姉ちゃん……ですか? なんだかくすぐったいですけど、はい。いいですよ」
快く承諾し、それを聞いた由佳はかなりテンションが上がっているようだ。
「用は済んだだろう? まだ勉強が残っているから、さっさと自分の部屋に戻るのだよ」
「ララクお姉ちゃんがお兄ちゃんのこと名前で呼ぶこと確認したら部屋に戻るよ」
「えぇっ! どうしてそんな条件なのですか!?」
「ほら、また緑間さんって呼んだら混乱しちゃうから、そうならないようにね」
由佳はもっともらしいことを言ってはいるが、全くの下心がないとは言えない程度にはニコニコしている。だがララクはなるほどと頷いて
「えっと、では……。真太郎、さん?」
「っ……! も、もういいだろう。さぁ、早く自分の部屋に帰るのだよ!」
「お兄ちゃん照れてやんのー! それじゃララクお姉ちゃん、勉強頑張ってねー」
兄にまたうるさく言われる前に由佳はそそくさと自室へと戻っていった。嵐が過ぎ去った後の様に二人の間には静けさとともに気恥ずかしさが襲う。
「その……やっぱり、名前はやめた方がいいでしょうか……?」
ただ名前を呼ぶだけなのにどうしてここまで恥ずかしくなるのか、ララクは自分の心が分からなくなるのと同時に、今はこの空気をどうにかしたくて取りあえず元に戻すか提案する。
「……無理にとは言わん。……が、由佳の前だけ名前で言えるほどララクは器用ではないだろう?」
「あっ……そう、ですね。頑張って練習します。真太郎さん、真太郎さん……。よし」
「っ……、ただ、無意味にあまり呼ぶな……」
「ご、ごめんなさいっ……」
お互いに顔を真っ赤にし、まともな思考回路が働かないまま初日の勉強会は終了。ただ、一週間の間は毎日集まって二人で勉強会を開くものの、何かある度に意識しすぎてしまい……
「困ったな……」
「うぅ……、本当にごめんなさい……。どうしても地理だけ覚えられなくて……」
明日からテスト本番なのだが、どれだけ勉強してもララクは地図の読み取りが出来ず、社会だけ壊滅的だった。
「いや……。今までの方向音痴ぶりから少し考えればわかることだったはずなのだが、自分でも何故この科目を最後に回してしまったのか分からないのだよ……」
どれだけ教えても地図記号や縮尺が覚えられないのが致命的なため、緑間でさえもお手上げ状態だった。
「もう……、夜も遅いですし、後は……その、雰囲気で頑張ります……」
「……仕方ない。これは最終手段なのだが……」
緑間は立ち上がり、机の引き出しから一本の鉛筆を取り出し、ララクに手渡した。
「これ、は……?」
「オレが昔、湯島天神の木で作ったコロコロ鉛筆なのだよ。期末テストはマークシート方式ではないし、効果があるかは分からんが……」
「今はもう何にでもすがりたい気分です……」
こうして、ララクは緑間に譲ってもらった特製コロコロ鉛筆とともにテストに挑み、テスト返し当日となった……。

「次、雫石さん」
「はーい」
「もう少しがんばるように」
「次、新崎さん」
「は、はい!」
「よくがんばりましたね。これで満足せず、さらに勉学に励むように」
担任の先生が一人ずつ名前を呼び、今回行われた教科全てのテスト用紙をまとめて、一言コメントを付けながら返していく。手元にテスト結果が帰ってきた生徒はそれぞれの友達同士で集まり、あーだこーだと話している。それはララクたちも例外ではなく
「……篠菜、どうだった?」
「朱夏先生! なんとか赤点は逃れました! いやあ、ひやひやしたね!」
篠菜は赤点がなかっただけで満足なようで、決していいとはいえない結果を平気な顔で言っている。
「俺はまぁまぁだなぁ……」
「……私も、ぼちぼち」
隆二は平均点付近、朱夏は全体的に平均点より上と言った感じだ。
「緑間は……うん、聞かなくても大体想像つくからいいよ。一番気になるのはやっぱララクの点数よね! どうだった?」
「そ、それが……」
恐る恐る、と言った様子でララクは自分のテストを机の上に並べる。
「うえええ!? 何この点数、軒並みたっか! え、すごいじゃん! ララクってば頭良すぎ!」
「……すごい」
「もしかして、緑間を抜いてる可能性もあるんじゃないか?」
机の上に並べられたテスト用紙には、80点以下は書かれていなかった。
「じ、自分でも信じられないです! それもこれも、ぜーんぶ真太郎さんのおかげです! 本当にありがとうございます!」
「いや、ララクが真剣に取り組んだ結果なのだよ。……しかし、社会も80点を超えるとは少し、驚きだな」
「あ、それは……、お恥ずかしながら、真太郎さんが貸してくださった鉛筆をコロコロしていたら、不思議と答えが浮かんできて……」
顔を赤らめながら、緑間からもらったコロコロ鉛筆を指先で挟んで転がしている。
「どういうことなの……。え、呪い……?」
「結果が出てるんだから、逆じゃないか?」
「人をなんだと思っているのだよ」
コロコロ鉛筆がもたらした結果に対し、それぞれが好き勝手な感想を口にする。
「静かに。……テストも終わり、もうすぐ夏休みです。気が緩みがちな時こそ踏ん張り時です。事故のないよう、気を付けて帰るように。あぁ、それと今日から部活動が再開されます。それでは起立、れい」
「「ありがとうございました」」
先生の挨拶が終わり、放課後となった。
「ウィーッス。真ちゃん、迎えにきたぜー」
いつものように高尾が教室へとやってきた。
「ララクは緑間達の部活見学?」
「あ、ごめんなさい。今日は家に帰ってお菓子を焼こうかなと思っていまして」
「あり、そーなの? ……一人でちゃんと帰れる?」
「も、もう高尾さんってば。流石にもう帰り道ぐらいは大丈夫ですよ」
「寄り道せず帰るのだよ。じゃないと迷子になるのだからな……」
「もう!真太郎さんまでそんなこと言って……」
口を尖らせ、少しふて腐れた様子のララク。その様子を見て、篠菜と朱夏はこそこそと……
「(高尾はまあ、お調子者だしいつもあんなノリだけど、緑間とララクはまたぐっと距離が近くなったよね!)」
「(……やっと、名前で呼び合うようになった)」
「(青春だねぇ! てかもう、なんで付き合ってないのかが不思議なぐらいだわ)」
「(……、あの二人のことだから、お互いの気持ちどころか、自分の気持ちにすら気づいてなさそう)」
「(まっさかー! …………あぁでも、あの二人ならありえそう……)」
「お前ら……、小声で言ってても大体内容は想像できるぞ」
そんな二人に呆れた隆二。しかしさらに篠菜の勢いは増し
「んじゃあ、今日はあたしと一緒に帰ろ!」
「えっ、いいですけど、私と同じ方角でしたか?」
「今日はそっち方面に用事があるからね。へーきへーき。んじゃみんな、また明日ねー!」
「みなさん、また明日」
「おう、またなー」
「んじゃ、俺らも部活に行きますか」
「フンッ」
「……篠菜。明日、教えてね」
「まっかせなさい!」
こうして各々の放課後を過ごす……。

「ねー、ララク。緑間のこと、どう思ってるわけよ」
帰り道。いつもと違うのは一緒に帰る人物が篠菜ということ。篠菜はララクに恋心があるのかが知りたいようだ。
「どう……、と言われますと、そうですね……。すごい方だと思いますよ。部活動に関しては言わずと知れた実力者ですし、今回ご一緒させてもらって分かりましたが、お勉強についても丁寧に教えていただきました。何より、それを成し遂げる努力を惜しまない姿が素敵に感じます」
篠菜の質問に対し、自分が持っている緑間への印象を伝える。
「それは人としてでしょー? 男としてはどうなのよ」
しかし案の定の答えだったのか、篠菜は間髪入れずにさらに言葉を足す。
「男性として……とは、どういう意味ですか?」
鈍いララクは首を傾げ、篠菜の言葉を理解できずにいる。
「えーっとね。…………、ララクは、あたしや朱夏のこと、好き?」
「ん……。もちろん好きですよ。いつもよくしてもらっていますし、一緒にして楽しいですから」
「ふんふん。嬉しいこと言ってくれるねー。じゃぁ高尾や隆二は?」
「高尾さんは少しお調子者ですけど、明るい方なので元気を貰えますし、辰野さんには暴走した篠菜さんを抑えてもらっていますから、感謝しても足りないぐらいです」
「まさかララクがそんなジョークを交えて話すようになるとは……。まあ、内容については流してあげるとして。ただ、ララクの口にしてる“好き”は、友達としてってことでしょ?」
「はい、そうですけど……。好きって、他にも意味があるんですか?」
「もっちろん! 他に意味があると言うより、むしろそっちのほうがよく使われるのよ。だから、ララクの表現として使う“好き”も決して悪いことじゃないけど、あんまり誰彼構わず使ってると、思わぬ誤解を生んじゃうのよ」
「そ、そうだったんですか!? それは……困りました。言葉はきちんと覚えて使うものですよね。篠菜さん、お手数ですが“好き”の本当の意味、教えていただけますか?」
ララクは迷惑ではないかと思いながら好きの本当の意味を知るため、篠菜の顔色を窺いながら尋ねる。ただ、篠菜はその言葉を待っていましたと言わんばかりに顔を輝かせ……
「それくらいお安い御用! ララクは高尾へと好きと、緑間への好きは少し違う気持ちがあるって、自分でも気づいてるんじゃない?」
「同じ友達なのに……違う、気持ち……?」
篠菜の発言が不思議で思い当たる節がないか、ララクは自分の胸に手をあてゆっくりと考え出す。
「特別にドキドキしたり、ついつい目で姿を追ったり、異性と話しているとなんとも言えない気持ちになったりとか、ね?」
「あっ……」
ララクはどきりとした。思い当たるどころか、まさにその通りのことばかりを言い当てられたからだ。
「ドンピシャって感じね。ララクはすぐ表情に表れるから分かりやすくて助かるわー。その気持ちが、皆の言う“好き”って意味。友達としてではなく、一人の男の人として意識してるってことよ」
「私が……真太郎さんのことを……? 男性として好き……?」
「ララク、めっちゃ可愛い顔してる! 最高よ! やばい……なんで今ここに緑間がいないのかめちゃくちゃ責め立てたい!」
今の篠菜はまさに水を得た魚状態。興奮を抑えられず、両手をばたばたとせわしなく動かしている。
「さ、篠菜さん! 私、明日からどんな顔して真太郎さんと顔を合わせたらいいのでしょうか!?」
一度気付いてしまった気持ちに歯止めは効かない。ララクの顔はみるみる赤くなり、どうしていいのか分からず視線があちこち泳いでいる。
「んー、気持ちを伝えちゃうのが一番てっとり早いと思うけど……、そうねぇ」
ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら他人事なのをいいことに、篠菜はどうしようかと言った感じで手を顎に当て、悩んでいるしぐさを取る。
「気持ちを伝える……?」
「そ。ララクは誠実なのが一番似合うと思うから、好きです、付き合ってください。ってのが効果的だと思うんだけど、どうかね。私としてはやっぱ、男から告白してほしいと思わないこともないけど……」
緑間も自分の気持ちには気づいていないだろうと篠菜は憶測を立てているため、ララクからの告白が一番だと踏んだようだ。
「断られたら…………」
「緑間がララクの告白を断ることは100%ない! あたしが保証する! ララクが緑間にふられるとか絶対にない!」
「その自信はどこから……」
二人の姿を毎日見ている人物たちであれば、誰だって篠菜と同じことを言うだろう。篠菜に関しては説得するのに意気込み過ぎたのか、同じことを何度も繰り返す始末。
「もっと自分に自信を持ちなさいって!気づいちゃった以上、後は行動あるのみなんだから。さてさて、あたしはこっちに用事あるから、ここまでかな。……一人で大丈夫?」
「すぐそこですから、大丈夫ですよ。…………その、真太郎さんのこと……」
「ま、あたしとしては早く二人には引っ付いてもらいたいけど、焦ってもね。なんて、あたしがララクの心を乱したのに無責任だね、ごめん」
「謝らないでください。私自身、自分の気持ちに気づけたのはよかったって、そう思えていますから」
ララクはこの帰り道だけで何度も取り乱していた。今でも緑間のことを少しでも思いだそうものなら、頬が赤く染まる。
「ほいじゃま、明日どうなったのか、聞かせてね!」
「明日ですか! ?あっ……行っちゃった……」
ララクは今日中に告白をしなくてはいけないという盛大な勘違いをしたまま、去っていく篠菜の後ろ姿をただただ見つめていた。
「…………、ララク……」
カバンの中からアンカルジアが顔を出す。
「あっ……、起こしちゃった?」
「ううん、全部聞いてた。アタシが入り込めるような話じゃなかったから……。さっきの、緑間のこと男として好きって、本当なの?」
先ほどの会話の内容は、アンカルジアからすれば快く聞いていられるものではなかった。天界の次期皇女になる可能性のある者が、よりにもよって天使以外を好きになるなど、許されない。
「…………はい」
「はい、って……分かってるんだよね? 緑間は人間。ララクは天使……。ううん、天使の中でも特別な存在」
「っ……」
今まで見たことないほどのアンカルジアの真剣な眼差しにララクは言葉を詰まらせ、自分の家に向かってゆっくりと足を動かし始める。何かしていないと、自分がやっと手に入れることのできた胸の奥にあった想いを手放さなくてはいけない気がしたから。
「篠菜があそこまで自信を持って二人の関係が発展するって言い切るの、アタシにはちょっと分かんない。篠菜は知らないから、純粋に応援できる。それは正直羨ましい。アタシだってララクには幸せになってほしい。でも緑間は、ララクを天使だって知ってる。だから、緑間がララクのことを好きになるなんて……」
「それは違うよ」
アンカルジアが言葉を紡ぐことに少しためらったところへすかさずララクは言葉を割り込ませた。
「私は真太郎さんに好かれたいから好きになったんじゃない。一緒に居て楽しい、ここにいていいんだって、勝手ですけど私はそう感じられた。だから真太郎さんという人物に心を惹かれたんだと思います。……それに振られてしまった方が、私が天界へ帰る時、後腐れがなくていいのかもしれないって、最低なことも考えちゃったんです」
「…………、怖いんだね」
ララクの声が少し震えているのをアンカルジアは聞き逃さない。ほんの少しの変化だって、すべてお見通しだ。
「……。拒絶されるって、分かっていながら伝えないといけない……。でも、心の奥にあるものに気づいちゃったから……、もうさっきまでの私には戻れない。……大丈夫、地上界で一人ぼっちになったって、もともとここは私の住む世界ではないから……」
自分を守るための、精一杯の言葉たち。どこまでも自分勝手な考えで、相手のことを想っていない。それでも口にしないと耐えられなかった。
「アタシもちょっと、迂闊だったかな。ララクは恋をしないって、勝手に思っちゃってた」
「ごめん、ね。いつも迷惑ばっかり……」
空笑いを浮かべながら、たどり着いた家の扉に手をかける。
「ほう……、随分と面白そうな話をしているではないか」
「っ……あ……」
一瞬の出来事だった。何者かの声が聞こえたと同時にララクは意識を失い、地面へと崩れ落ちる。それを何者かが支えた。
「あ……アンタ、はっ……」
アンカルジアの意識もここで途切れた。