第10話

 異界の主になってから、明日で一週間が経とうとしている。

「本日が今週のうちで最後の行動指針を決める日になりそうですね。……では、どのように」

 この間受け持った依頼内容はどれも急ぎのものではない。強いてあげるなら『EXCEED DEFENSE!』が来週の始めに予定として入っていることになるが、こちらに関しては日程指定されている分、指定時間に遅れなければまず問題はない。他の二つに関してもよほど後回しにさえしなければ、依頼達成出来るだろう。一つ付け足すなら、それを円滑にこなすために妖精郷の方へ顔出しした方がいいぐらいか。

「今週の最後も異界踏破を。取りあえず、第三層へ続く扉があるのかどうか、確認したい」

「かしこまりました。気を引き締めて参りましょう」

 現段階なら、まだ余裕がある。だから、今のうちに進めるだけ進んでおくのが得策だろう。返すのはいつでも良いとご厚意を頂いているが、いつまでも甘えているのは申し訳ない。せめて、次回顔出しするまでに最下層がどれぐらいなのか、検討はつけておきたい。

 相応に準備を整え第二層へ足を踏み入れれば、前回巡った部分に関して変化は見受けられない。異界が変容した原因は、この間中断させた魔法陣の暴走の結果と見て間違いないだろう。
 変容してしまったこと自体は芳しいことではないし、そもそもとして自分がこうして巻き込まれている以上、最悪の結果だと言って差し支えはないが、それでも時間単位で変容しないという事実だけは非常にありがたい。

「ダイナ様、こちらへ」

 マリアが何かを見つけたようだ。呼ばれた方へ足を向ければ、そこには扉がある。……しかし、第一層から降りてきた時に使った物とはまるで雰囲気が違う。

「仰々しい。それに、これは……」

「割符の残り半分でございますね。恐らく、この間拾ったものと合わせれば、扉が開く仕組みかと」

 妥当な見解に、私は一つ頷いて見せた。
 一体、扉の先がどうなっているのか、皆目見当もつかない。個人的にあり得たら嬉しいことといえば、扉の先が異界の最終地点であること。ただ、それはあまりにも楽観的過ぎる。現実的に考えるなら、この異界に居座る強力な悪魔が頓挫しているぐらいの心持ちの方がまだ何か起こっても落胆は少ない。

「一度引き返すことも視野に……如何なさいますか」

「……このまま前進する。幸い距離も短かったから、余力は十分。警戒は怠らず」

「かしこまりました。では……」

 慎重に、マリアがこの間拾った半分の割符を扉に近づけると、ぴったりとあてはまると同時に扉は重々しく開かれた。
 私たちを招いているとすら錯覚させるほどに荘厳さ溢れる、今までの通路とは比べ物にならない広さを誇る部屋からは何故かヴァイオリンの音が聞こえてくる。

「へえ……こんな所を潜ってるなんて、とんだ物好きがいたもんだ」

 部屋の中心で奏でていた人物は手を止め、私たちを横目に見ながらそう言った。
 風貌は高校生というに相応しい、学生服を身に着けている青年で、決して怪しい雰囲気はない。……こんな場所でさえ、出会わなければ。

「異界の主になった手前、致し方なく」

「異界……か。あんた、ここのことを何も知らないんだな」

 若干小馬鹿にしたような、含みの混じったような言い方をする目の前の青年は……はっきり言って異様過ぎる。ただの年下に言われたのなら大人な返答をすれば済む事柄だろうが、彼にそういった手合いは……己の首を絞めかねない。それほどの威圧を感じる。

「お恥ずかしながら、返す言葉もない。よければ、ここがどういった場所であるのか、教えていただけると助かる」

「謙虚に頭を下げつつ、それでいて足りない知識を補おうとする姿勢は嫌いじゃないな。だけど、人に尋ねるならせめて、名乗るぐらいはした方がいいんじゃないのか?」

「これは……大変失礼しました。私はダイナ。そして隣にいる彼女はマリアです」

 私の一礼に合わせ、マリアも頭を下げる。
 現状で一番の問題。それは相手が何者なのかが掴めないこと。敵なのか、或いは味方なのか……その判断すらつかないのは、正直言って怖い。

「言われた通り名乗るなんて、あんた素直なんだな。だったら俺も名乗らないと悪いよな」

 そう言って彼はわざわざこちらに面と向き合って、一人楽しげに口元を緩めながら気の済むまで言葉を溜めた後、ようやく名乗った。

「俺は≪魔人≫デイビット。この個体では月詠イクトと名乗ってる」

「≪魔人≫──ッ!?」

 血の気が引くとは、まさにこのことなのだろう。同時に、何故彼がここまで言葉を溜めたのかも理解できた。
 魔人。
 それ自体は悪魔の一種族の名称でしかない。だが、その存在は“万人に等しく凶事と死を撒き散らすもの”として、悪魔たちの中でも一線を置いた強さをその内に秘めている。だから、中にはこう呼ぶ者もいるほどだ。
 彼の者の前に立った命をすべて等しく狩る──死神だと。

「良い反応だ。それに免じてご褒美をやるよ。……ここ“東狂”は全四十六層で出来ている。ま、せいぜい頑張って最下層を目指すことだな、東狂の主さん」

「東狂……? それの意味するところは」

 異界と呼ばないということは、この場所は『東狂』というのが正しい名称なのだろう。地下へ伸びていく構造は異界と変わらないが、地形の不気味さからさらりと言い放たれた階層の深さまで、流石に規模が違い過ぎる。だから月詠イクトは私のことを“東狂の主”と呼んだ。

「さあな。今のご褒美で、ある程度は検討つけたんだろ?」

「……ええ、まあ。最悪な方向に」

「流石。ここを潜ってるだけあって、良い感してる。……さあ、おしゃべりはこれくらいでいいだろう」

 個体を確固たるものにする名前を持っていれば、小さな望みがあるかもしれないと思っていたけど……それはどうやら儚く散ったようだ。
 ≪魔人≫デイビット。人ならざる魔性のヴァイオリン弾きであり、それを狂おしく奏で、人々を惑乱と陶酔に誘い、死の舞踏を舞わせたと言う。

「東狂に彷徨う旅人の、狂える心は魔性の調べに……。俺の調べは死の舞踏。踊ってもらうぜ、その命尽きるまで」

 これが、合図──。

「ダイナ様、来ます!」

「分かってる。マリアは後方支援!」

 即座に構えたというのに相手はそれよりも素早くて、自分が距離を詰める前に手に持つヴァイオリンを奏で始めていた。広い部屋だというのに旋律は瞬く間に広がり、始めに聞いた音色とは対極な、聞く者全てを惑わせる音色。

「音に気を取られてはいけませんっ!」

「聴覚に訴える魔力……だったら──!」

 残念ながら、私に魔力適正はほとんどない。対策として魔力に長けたマリアを使役しているわけだが、そんな彼女でも月詠イクトの膨大な魔力量には敵わない様子だ。
 それなら、することはたった一つ。

「おいおい。たった一突きで地面を抉るとか、どんな腕力してるんだ? 掠るだけでもシャレにならないな」

「私の一撃を避けるほどの速度、見事です」

 今のを見る限り、速さは完全に五分。ただ、私の打撃を避けたということは他に隠している武器などは特にないのに加え、純粋な力比べで行けばこちらに分があるということ。
 こうなれば、私が力で捻じ伏せるのが先か、相手の惑乱に舞わされ堕ちるのが先か……。
 ただ距離を詰めたところで、そこから確実なダメージを与える一打を当てることが出来ない。何かしらの隙を生み出す必要があるが、それを簡単に許してくれるような存在であったなら、どれだけ良かったことか。

「俺のラプソディを聞きながら、なおも的確に俺を狙ってくる精神力。一体どんな仕掛けがあるのか、教えてくれるか?」

 こっちは本気で殺りにいっているというのに、向こうは言葉を紡ぐほどの余裕まである始末。それに……。

「……申し訳ございません、そろそろタイムリミットです」

 やはり、マリアはもう限界だ。攻防を繰り広げてもう五分は経つ。集中力を欠くことの出来ない戦いが一分以上続くだけで負担が大きい。
 私がこのラプソディの中でも月詠イクトに狙いを済ませられている理由など、単純なことだ。マリアが自身の魔力を使って、旋律に乗って流し込まれる魔力を私へ干渉しないように抵抗してくれている。これがなければ、魔力への抵抗力がない私なんて、ものの数分も持たずに惑乱し、仲魔を討っているか、操られて僕にでも成り下がっているか……自決でもしているかもしれない。
 ただ、魔力量の差というのは根性などで覆せるような代物ではない以上、マリアの方が先に倒れるのは必然。
 次の一手で決められなければ……私たちの最期だ。

「そっちの天使は虫の息か。せめて、最期に相応しい舞踏を舞ってくれよ」

 最期の仕上げなのだろう。一層強くなった旋律は私とマリアの心を惑わす。頭が割れるように痛み、まるで視力が落ちたかのように焦点が定まらない。今自分が視界に捉えている人物が月詠イクトであるのかも……分からない。

「我が主よ! 臆することなく、己が信ずるものに従って穿ち下さい!」

 私が信じていること。それは──。

「……よく…………分かった、な……」

「私の仲魔は……本当に優秀です」

「ああ……そうみたいだな。俺が……≪魔人≫が負ける、か」

 私が信じていること。それは父と母の信条。
 どんな絶望的な状況だったとしても、そこにかすかな光があるのなら、歩みを止める必要なんてない。光に辿り着けるよう、一歩を踏み出せばいい。
 背後からは崩れ落ちる月詠イクトの気配がある。……なんとか、私の放った背後への一撃は彼の者を打ち倒すだけの一撃を出せたようだ。
 何故、月詠イクトが後ろに回っていると分かったのかと問われれば、感だったとしか答えようがない。運が良かったのだと、言う他ない。

「辛勝ではあったけど……私たちの勝利」

 それでも、この勝利を掴むことが出来たのは間違いなくマリアのおかげだ。先の言葉がなければ、私は眼前に捉えているマリアを月詠イクトと錯覚したまま、マリアに矛を向けていた。

「死の上に勝利を重ね、行きつく先には何があるのか……。人の身でありながら≪魔人≫に勝ったあんたなら、答えを見つけられるかもな」

「私は両親の信条を胸に、これからも生きていく」

「好きにすればいい。それが勝利した者の特権だ。……これも、な」

「これは……?」

 ほとんど霧散し、今言葉を発せていることすら不思議な状態である月詠イクトの身体から、何か球体の物が溢れ出る。見た目はまさに鶏の卵だが……傍にいるだけで感じるほどの高濃度のエネルギーを秘めた物体であることはよく分かる。

「【神の欠片の一部】と言えば、あんたならどれだけの物か、分かるだろ? これは【宇宙卵】と、呼ばれている」

「ど、どういうこと? 何故そのような物質がこの人間界にっ──!」

「……もう、身体が消える。……知りたいなら…………下の階層に……」

「月詠イクト! まだ答えてほしいことは山ほど……!」

「ダイナ様、もう……霧散しました」

 この東狂と呼ばれるものが何故出来たのか。この東狂には何故≪魔人≫がいたのか。その≪魔人≫が何故【宇宙卵】と呼ばれる【神の欠片の一部】を有していたのか。
 調べなくてはいけないことが、たった二層下っただけで山のように出てくるなんて……。控えめに言って、厄ネタの宝庫だ。

「マリア。この【宇宙卵】とは、本当に在りて在るお方の一部なの?」

「……ええ、どうやらそのようです。物質から溢れる高濃度のエネルギー量や、またその質から、月詠イクトの発言は正しいと確証を持ってよいでしょう」

「そ、う……。でも、何故このような……」

「そこまでは、残念ながら……。月詠イクトの言葉を全て信じるのであれば、さらに下へ足を運べば自ずと答えが見つかるのかもしれませんが、それは……」

「階層を降りれば、間違いなく別の≪魔人≫と一線を交えることになる。……それについては、この階層の全容を伝えられた時点で、ある程度覚悟していた」

 全四十六層もある中で、ここはまだ第二層。そんな浅い階層ですら≪魔人≫が守っていたのなら、さらに下の階層でも幾つかこうした広い部屋があり、そこには間違いなく何かしらの≪魔人≫か、あるいはそれ以上の格を持った悪魔がいるとみて間違いない。

「ひとまず、拠点に帰りましょう。ここで考え込んでも仕方のないことです」

「うん。帰って、それから【宇宙卵】をどうするかも、考えないと……」

 東狂の主になって明日で一週間。
 ここまで次から次へと厄ネタが転がっているなんて、当初は思いもよらなかった。それでも、こうなってしまった以上は一つずつ、焦らずに問題を解決していかなくては……。