Day not to expect

 ある早朝の出来事。今日の仕事はなかなかに骨のある悪魔が相手だったと、機嫌よく帰路に付いているのはおっさんだった。その手には何故か新鮮な魚が握られており、今も時折暴れ出して手の中から逃げ出そうとしている。無論逃がしてもらえるはずはなく、おっさんと一緒に事務所へ入ることになった魚はそのままキッチンへと連れ込まれる。
「たまには飯の一つぐらい、出してやるとしますか」
 お前が料理を始めるとキッチンが使い物にならなくなるから絶対にやめろと釘を刺されていることを気に留めることなく、おっさんは料理に精を出し始めるのだった。
 一方、おっさんを先に事務所へ帰した二代目は仕事の後処理に追われていた。なんて大層な言い方をしているが、やっている内容としては依頼料を受け取るために専門の受付で声がかかるのを待っているといったものだ。
「何か……嫌な予感がする」
 受付でじっと待ち始めて数十分。おっさんの足を考えればちょうど事務所についている頃だろう。仕事も無事に終わらせたというのに、何故今になって言い知れない悪寒に襲われたのか、二代目は考える。
「そういえば髭の奴、魚を持ち帰っていたな。……さか、な?」
 口にして、理解する。……この後、何が起こるのかを察知してしまった二代目は受付に駆け寄り、声を荒げる。
「すまないが急いでもらえるか。このままでは取り返しのつかないことが起こってしまう」
 あまりに真剣過ぎる二代目の声色は受付嬢だけでなく後ろに控えて事務仕事をしている者たちにも影響を与え、受付口は一瞬にして慌ただしくなるのだった。

 ふわふわと心地よいまどろみを感じて舟を漕いでいるのはネロ。上半身は何とか起こしたが眠気が取れず、今もベッドの上にいた。手放しそうになる意識を何とか手繰り寄せ、気怠そうにしながら目覚まし時計に視線を向ける。
「…………寝坊だ!」
 時刻を見て、一気に目が覚める。今日は自分が朝食当番であったことを思い出すのと同時に、今からではどう頑張っても間に合わないことも理解してしまう。それでも作らないわけにはいかないのでとにかく一階へと駆けおりれば、嫌な臭いが鼻をついた。
 自分以外でキッチンに立つのは二代目とダイナ。後は時たま初代とバージルだが、二代目に関しては仕事に出ているし、ダイナも昨日は帰りが大分遅かったので今も寝ているだろう。初代は補佐をしてくれるがメインで作ることがないことを加味すれば、自然と残る人物は絞られる。
 寝坊したことに対して一体どんな言葉を投げかけられるのか、必要のない心配を胸に抱えながらキッチンへと入る。
「起きたか坊や。寝坊するなんて珍しいこともあるもんだな」
 そこに居たのは予想の斜め上を行く人物だった。
 普段であればなんであんたがキッチンにいるのだとか、料理はそもそもできなかったんじゃなかったのかとか、色々とかける言葉があっただろう。だが、ネロの喉奥から飛び出たのはそんな言葉ではなかった。
「うわああああああ!」
 事務所内にこだまする絶叫。次には全力をのせた拳が相手の顔面を捉え、振り抜かれた。殴られた人物が後ろへ綺麗に吹き飛んだ後は大量の物が壊れる音が響き渡り、キッチンは一瞬にして使い物にならなくなった。
「……あのな。出会い頭に顔面パンチはないだろ」
「そうじゃないだろ! この……そうじゃないだろ!」
 怒り心頭のネロは感情が高ぶりすぎてうまく言葉が出てこないのか、そうじゃないと何度も繰り返す。殴られた相手はそんなネロの様子を見て愉快そうに笑みを浮かべながら身体を起こし、落ち着けとジェスチャーする。
「サービスが過ぎたか? 確かに驚かせようという魂胆はあったが、殴られるとは思っていなかった」
「どういう思考回路してんだよ!」
 まだ殴り足りないと拳を振るうが、流石に二発目は当たらない。空振りした腕はそのままキッチンの壁にヒビを入れ、みしみしと嫌な音を立てながら天井から何かしらの破片が落ちてくる。それでも殴り飛ばさないと気が済まないネロがさらに拳を振り回していると、キッチンの壁に数本の幻影剣が突き刺さった。
「朝からうるさいぞ! 何を騒いで……」
 言いかけて、言葉を詰まらせた。
 声からしてネロが誰かと騒いでいるのは分かっていたので、ネロに対して幻影剣を当てる気はなかった。怒らせている相手が若であれば躊躇いなく串刺しで良かったのだが、よくよく考えればあの若がこんな朝早くに目を覚ましてくることはあり得ない。だったら一体誰だと思いながら降りてくれば、そこに居たのはおっさんだった。
 裸エプロン姿の。
「とうとう血迷ったか……? 頭のネジが吹き飛んだか……? もういい! 貴様には今ここで引導を渡してやる!」
 罵声と共に放たれる幻影剣と次元斬の嵐。ネロは巻き込まれまいとすぐに退避したおかげで当たることはなかった。一方で矛先を向けられているおっさんはのらりくらりと隙間を縫ってかわし、きわどい姿を晒しながら避けていく。
 どんなに言葉を濁しても濁しきれない姿で避けるせいで、おっさんをぶちのめそうと思っているバージルのストレスはさらに上がっていく。というより、振りきれている。今までも許しがたい言動に何度も切れてきたが、今日こそは我慢ならんと攻撃をさらに苛烈させる。
 しかし、先に音をあげたのはバージルでもおっさんでもなく、事務所だった。
 抜ける天井。そこから降ってくるのは初代とダイナのベッド。部屋二つ分の天井が見事ダメになり、ベッドの足が折れる音が聞こえる。また初代は落ちた勢いで一階の床に打ち付けられ、その痛みで目を覚ました。
「何なんだよ、朝から……」
 それ以上、声が出なかった。
 どうしてとか、なんでとか、色々言いたいことは出てきていたはずなのに、そんなものは一瞬でどうでもよくなった。どうでもよくなったが、眼前に映るそれが何なのかを理解しそうになって、思考放棄した。 
 初代の顔の前には、何やら薄い布でギリギリセーフと言える際どさで隠されている、おっさんのそれがある。
「……なんだ。夢か、そうだよな。もう一回寝るか」
 完全に現実逃避を決め込んだ初代はそのままご就寝。彼の中では何も見ていないし、何も起こっていないことになった。もう片方の被害者であるダイナは運よくベッドから放り出されることはなく、もそもそと眠たげな表情を浮かべながら、一体なんだと瞼を押し上げながら辺りを見ようとする。
「何事……」
「見るな!」
 ネロの叫び声が聞こえたかと思えば、ダイナの顔面に伸びる青い腕。当然反応出来るわけはなく、綺麗にアイアンクローを決められる。
「起きたと、思ったら……顔を、潰されそうに……なってる」
 頭蓋骨が砕けるのではと思うほどに強く掴まれ、事実骨の軋む音が耳元から聞こえてくる。
「これもダイナのためなんだ。少しだけ、我慢してくれ……」
 普段から怒られすぎているせいで若干の慣れを覚えつつあるのはちょっとした内緒だが、今回に関してはただ寝ていて、騒がしいから起きたというだけでアイアンクローを喰らうのは理不尽極まりない。挙句に返ってきた言葉はお前のためなんだという、どう解釈したって逆としか思えない現状。とはいえ、一度掴まれてしまってはどう頑張っても抜け出せないので、ダイナはただただ激痛に耐えるしかない。
「悪寒の正体はこれだったか! それ以上の醜態を晒すことは許さん!」
 けたたましい音を立てて扉を開くのはもちろんあの男だ。今までに見せたことがあったかどうか、すごい剣幕で二丁拳銃を手におっさんへ声を荒げる。
「おっ、帰ったか! いやなに、たまには俺も料理を振る舞わないとと思ってな」
 料理を振る舞うために何故そのような格好をしたのか、ということが何よりの問題なのだが、おっさん自身は純粋に驚かせたかったという思考だけで行動に起こすのだから、止めようがない。……それよりも、もっと重大な事実が。
「いいから服を着ろ!」
「せっかく俺が料理するんだから、今日ぐらい大目に見てくれよ。それに俺がしているってことは、二代目も昔……」
「そんなわけないだろう!」
 次の瞬間、魔人化した二代目の渾身の一打がおっさんに向かって繰り出されていた。これに反応出来るものはおらず、おっさんは傍で現実逃避をしている初代と一緒に吹き飛ばされる。そして崩壊する事務所と、瓦礫と化した事務所の下敷きになるネロとダイナ、バージル。
 あまりにもうるさいので若もようやく目を覚ませば、周りは大崩壊。瓦礫の山の上には息を切らした二代目と、それらをどけて顔を出す若い衆。残りのお酒組は埋もれたまま音沙汰なし。
「目覚めたら、事務所がなくなってるんだけど」
 何も知らない若の呑気な声で我に返った二代目は一つ咳ばらいをする。今回の事はバージルもおっさんへの怒りが振りきれていたので、元凶を叩きのめせて満足している様子。ネロはうんざりしたように脱力している。アイアンクローからようやっと解放されたダイナも若と同じで、何がどうしてこうなったのかさっぱりだ。
「髭の処理は俺がしておく。……良いか、ダイナ。今日のことは絶対に言及しないでくれ。そして若、お前はこうなるな」
「いや、だからさ。何があったんだよ……」
「正直、納得できないけど……理解しておく」
 今日は一日中理不尽だらけだったが結局その原因も教えてもらえず、とことん不憫な二人。しかし、ある意味で知らない方が幸せなのも、間違いない。