不老長寿の薬

 時間が経つのは本当に早いもので、気づけば司書として図書館で働き始めてからもう一ヶ月が経った。最初は業務が終わった後は死んだように眠るだけの日々だったが最近は多少のゆとりも生まれだし、ほんの少しだけだが自室で本を読む時間が取れるようにまでなった。
 そしてもう一つ。
 司書になった日に見せてもらったある薬のことについての考えも、まとまり始めていた。
 仕事に追われて大変な日々を過ごしていても、一度として忘れることが出来なかったレダの憂いた表情。アンジュは自分でも気づかない内に、レダに心を奪われていた。

 先輩たちとは仕事だけでなく休憩時間も共にすることが多く、お陰でアーヴェンヘイムについてのあれこれを教えてもらった。仕事中はもちろん司書としての業務のことを。そして休憩時間には先輩たち自身のことや、レダのことについても色々聞かせてもらった。
 話を聞いて分かったことは、レダは司書たちみんなから尊敬され、そして愛されているということである。司書たちはみな敬意を示して彼のことをレダ様と呼んでいるそうで、アンジュもそれに倣ってレダ様と呼ぶようになった。
 また一ヶ月ほど経って、先輩たちまでとは言わずともようやっと仕事をこなせるに成長したと自負できる程度には要領よくなってきた。
 何よりも本が大好きなアンジュにとって、司書という仕事は本当に楽しくて仕方がない。最初の頃はそれが満足に出来なくて苦悩したこともあるが、今ではつたないなりにも業務に携われるようになり、毎日の充実感を感じていた。
 追加で、先輩たちから話を聞くうちにアンジュの中でレダへの印象はさらに良いものへと変わっていった。
 今では彼のためなら不老長寿の薬を飲んで、人生の全てを司書としての責務を全うすることに捧げても良いとさえ思えている。それほどまでにレダにはカリスマ性があって、魅力的だ。
 人はこれを下心と呼ぶのだろうが、アンジュはレダの力になりたい一心だった。
 実はアンジュが司書になって業務が終わった後の話を聞くと、一人の先輩がこっそりと教えてくれたことがある。
 これは新米司書が入った日はいつものことだから、アンジュが責任を感じることではないと最初に念を押されたのだが、実はあの日、アンジュは業務を終えて新しい家――213階の部屋――でゆっくりしている間、レダは本来こなさなくてはならない自身の業務をこなしていたらしい。
 新米司書がやってきた日はレダの業務はなくなるなんてこと、起こるわけがない。毎日のように世界中から持って来られる本たちは待ってくれないのだから、当たり前のことだった。
 これは先輩司書たちがかつてアンジュと同じように新米司書として初めて図書館にやってきた日は同じことがあったと口を揃えて言っていたから、本当なのだと思う。それでもやはり、罪悪感は拭えなかった。

 レダはいつも自分の休憩時間は他の司書たちと一緒に過ごすようにしているため、1階に設けられている飲食スペースにやってくる。他の先輩たちも多くはここを利用するが、たまに家で作って食べてくる人もいる。
 この飲食スペースには、毎日決まった時間に外からやってくる人が食事を運んでくる。本を運んでくる人たちとはまた違って食材専門に扱っているらしく、持ちこまれる物はどれも新鮮でおいしい。アンジュ達の家に定期的に供給される食べ物に関してもその人たちが運んできてくれているらしいが、出会ったことは一度もない。
 今日は運よくアンジュとレダの休憩時間が被っていたようで、飲食スペースでレダに会うことが出来た。
「こんにちは、レダ様」
「こんにちは、アンジュ。仕事の方はどうかな? 大変だとは思うんだけど。困ったことがあったらいつでも言って?」
「お気遣い、ありがとうございます。私も司書になって一ヶ月経ちましたし、少しは皆さんのお役に立てるようになってきたかな、と」
「そうか、もうそんなに経ったのか。いや、時間が経つのは本当に早いな。いつまでもアンジュを新米扱いしてばかりじゃ、怒られてしまう」
「いえそんなっ! 私はまだまだ新米ですから。あっ、もちろんそれに甘えるようなことはしません!」
「そのことに関して心配はしてないよ。アンジュは本当に真面目な子だって分かっているから」
 レダとこうしてゆっくり話すのはまだ三度目。本当はもっといろんな話が出来たらと思うが、今はまだ仕事を通じた話しか共通の話題がなく、もどかしく感じる。
「しかし、アンジュも私のことをレダ様と呼ぶようになったんだね」
「先輩たちがみんなそう呼んでいたので、私もと思ったのですが……何か不都合が?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっとこそばゆいなって思うことはある、かな」
 これはみんなに内緒だよと言って、レダはぐっと顔を近づけてきた。そしてアンジュの耳元で囁く。
「みんなから尊敬されるのはやぶさかじゃない。私自身としても、立場ある人間であることは自負している。だけどほら、たまにはレダって呼び捨てにされることがあるのもいいなって……。たまーに、ね?」
「そ、そんなっ! レダ様を呼び捨てるだなんて、恐れ多くて……!」
 レダの顔が近づいてきただけでなく、耳元で囁かれたこともあってアンジュは大きく動揺し、慌てながら顔を離して必死に言葉を絞り出した。するとレダは口元を抑え、笑いを必死に堪えながら返した。
「アンジュは本当、からかいがいがあるなあ。……あ、嫌だったらすぐに言って? 止めるから」
 人が本当に嫌がることをしたいわけではないからと付け足すレダに、アンジュは最初、ポカンとするばかりであった。だが、次第にどういう意図でレダが先ほどのような行いをしたのかを理解して、ちょっとふてくされてみた。
「ごめんごめん。あー……、どうしたら機嫌を直してくれるかな」
「ふふっ、冗談です。レダ様はからかい上手だって、私ようやっと理解しましたから。……あ、話が大きく変わってしまうのですが」
「許してくれてありがとう、アンジュ。それで、何かな?」
 先ほどまで陽気に笑っていたアンジュの表情が一瞬にして変わったことを感じたレダは茶化さず、アンジュの言葉を待つ。
「私が司書になった日に見せてもらった、薬のことなんですけど」
「うん。……アンジュはまだ司書になったばかりだ。私から言わせれば、まだまだ考える猶予があって然るべきだと助言する」
 アンジュが最後まで言い切らずとも、薬のことと言われてレダが察しない道理はない。だからレダはもっとよく考えてと伝えた。別に飲む必要すらないし、期限も無いからと。
「それに、もしもアンジュが司書を辞めた時は規約に乗っ取り、司書として働いていた時の記憶を全て抹消することになっている」
「はい。それも同意の上で私は司書になっていますから、その時になって嫌だなんて言いません」
「それはつまり、薬を飲んだという事実も忘れるということだ。また新たな人生を歩みだそうとした時、薬を飲んだことは必ず枷になる」
 不老長寿の薬が存在している事実を知っているのは司書だけだ。だから司書を辞めて図書館外で生活していこうとなった時、最初は良くても10年ほどすれば怪奇の目に晒されることになるだろう。
 周りの人たちは相応に老いていくのに、アンジュだけはいつまでも今の姿で生き続けるのだから。
「レダ様は、私が司書を辞めてしまうと思うのですか?」
「おっと、その聞き方はずるいな」
 さっきからかったツケが回ってきたかと困ったように笑ったレダは逡巡した後、言葉を紡ぐ。
「私はロードだ。アーヴェンヘイムで起こりうることならあらゆる可能性を考慮しなければならないし、物事に対しては何が起こるかまで見通した上で、部下たちに提案する責任がある」
 図書館が世界の知識と知恵を整理するという責務を果たすためには司書がいる。しかし、その司書は誰でもなれるものじゃない。それでも図書館を成り立たせるために必要であったから、レダは不老長寿の薬を創りだした。これはロードとして必要なことであると判断したからだ。
 司書になる時の契約として不老長寿の薬を飲むことを義務付けることはレダにすれば容易いことだが、それでもしないにはワケがある。
 レダは、司書になろうと志し、そして試験に合格して自らの足でこの図書館に来てくれた彼ら、彼女らには人として最大限の人権と権利が与えられるべきであると考えている。だからこそ、不老長寿の薬を飲むことは義務付けていない。
「ここまでが、ロードとしての私の意見。そして今から言うことは、レダというただの人間のたわごと」
 先ほどまで真剣な表情でアンジュの目を見て話していたレダは急に下を向き、照れくさそうに口ごもりながら言った。

「本心としては、飲んでくれることを嬉しく思ってる。私にとってみんなは宝だ。だからずっと、永遠とも呼べる時間をこの図書館で共に過ごせたらどれだけ素敵か……なんて夢をよく見てる」
 同時にこの考えはただのエゴであることも理解しているとも付け足し、レダは忘れてと小さな声でアンジュに伝えた。
 だが残念ながら、レダの想いがアンジュに届くことはなかった。皮肉にもレダが見せた人としての弱さがアンジュの考えを確固たるものにしてしまったのだ。
 レダのために。そしてこれからもずっと本に携わる仕事をするために、アンジュにとって不老長寿の薬を飲むことは必然であるという答えに行き着いた。
「レダ様、ありがとうございます。でも私にとって司書の仕事は本当に楽しくて、ずっと続けたいと思える仕事なんです。これからも増え続ける本たちによって知識と知恵を得られると考えるだけで私の心は晴れやかになって、頑張れるんです」
 アンジュの目は本気だということを物語っている。見ればすぐに分かるものだ。
 レダはもう一度だけ忠告しようと口を開きかけたが、自分の意志で飲むことを決めた彼女にこれ以上の忠告は失礼だと考え、口を噤んだ。代わりに本日の業務が終わった後、レダの自室に来るようにだけ言った。
「さあ、この話は今は終わり。楽しく食事をしよう」
 アンジュも一つ頷いて、レダと一緒に取りながら好みの料理を選び、先ほどまでの深刻な空気なんて一切感じさせない談笑に花を咲かせた。