Perfect victory and Blue flower

 小さな家の一角に所狭しと置かれた簡易的な寝袋の上に、五人の人物がきれいに並べて横たえられていた。
 一人だけは別室に移されていて、その部屋だけは仰々しく、棚には普通の店では見たこともないような薬品や備品で埋め尽くされていた。
 部屋の真ん中に安置されている人物はまるで時が止まっているように、微動だにしなかった。

「──ぁ、っ」
 最初に意識を取り戻したのはリエルだった。体の倦怠感を感じながらもゆっくりと起き上がると、自分の左右には見覚えのある顔が並んでいる。
「目が覚めたか」
 全く気配を感じられなかったためにリエルは体を強張らせながら聞こえてきた声の方向に顔を向けると、椅子に座り、古い書物に視線を落としている男の姿があった。
「君はミラが育てていたメリアで、合っているか?」
「リエルです。……二十年ぶり、ぐらいでしょうか。また会える日が来るとは思っていませんでした」
 いきなり問われた内容に対し、粛々と答えたリエルはこれもミラ様のご加護だと口にした。それを聞いた男はどこか愁いを帯びているような表情を浮かべた後、リエルという名前だったなと一人納得して、彼女の姿を懐かしんだ。そして満足したのか、書物を机に置くと立ち上がり、ついてきなさいとリエルを呼んだ。
 素直に男についていった先は狭いが仰々しい部屋だった。その真ん中には一人の男が安置されていて、リエルは慌てて駆け寄った。
「ダンテっ……」
 どうして一人だけこんな所にという疑問はすぐに解消されてしまった。
 ──冷たい。
 ただ冷えているわけではなくて、熱がない。これが何を意味しているのか分からないほどに無知ではないから、胸が張り裂けそうだった。
「冒険者である以上、死は避けられないことでもある。この者が死の直前に生きていたいと強く願っていたなら生き返るかもしれんが……そればかりは蘇生してみないことには何とも」
 考えたことがないわけではない。常に死と隣り合わせである以上、いつか自分の身近な者が殺されてしまうこともある。頭では理解しているつもりだ。つもりだが、心が付いてくることと、実際に起きた現実を受け入れるにはあまりにも唐突で、現実味がなかった。
 このラクシアにおいて、死者を蘇らせる方法は少ないながらも存在している。
 もっとも一般的なのは、魂を再び元の肉体に降ろす技術を身につけている高名な操霊術師に頼むことだろう。もしもそれが叶わなくとも、世界のどこかには蘇らせる効力を持った魔法の道具などがあるかもしれない。
 ただし、蘇り自体が一般的に受け入れられていることかと問われると、否である。
 死者の蘇生は魂を歪め、穢れを発生させてしまうことから基本的には禁忌であるとされており、どれだけ不幸な事故に見舞われて死んだとしても、滅多に執り行われることではない。また、蘇りの技術を持つ操霊術師であっても全員が蘇生魔法を使ってくれるわけではないこともあれば、そもそもとして莫大な費用を払えないという背景もある。
 ただ冒険者はその性質上、一般よりも命の危険が多いこともあって蘇りを行う事例は他の職業と比べると例外的に多いという事実も確かにある。とはいえ、どれだけの理由があろうとも穢れを持つ者は他の人々に忌避されるようになる現実は変わらないし、蘇りを繰り返して重度の穢れを溜めこんでしまえば、いつかアンデットになってしまうという危険もある。
 何より、生前にその人物が生きたいと強く思っていなければ、どれだけ蘇生を試みても生き返ることはない。
「蘇生術を使うことが、出来るのですか?」
 自分の声はこんなにもか細いものだったかと、リエル自身が驚いた。それほどまでに動揺していて、加えて何も出来ないという事実が重くのしかかった。
 ──本当に?
「可能だ。知識は持ち合わせている」
 疑問がよぎった。
 本当に、自分には何も出来ないのだろうか? いや、そんなわけがない。自分には出来ることがあるはずだ。むしろ、自分にしか出来ないことが──。
「これを」
 男に止める猶予を与えないように手早く、頭部に生えている自分を象徴する青い花を荷物の中にあった短剣で斬り落とし、男に手渡した。これが何を意味するのか分かっている男は怒りを露わにした後、諦めたような、落胆したような表情を浮かべながら青い花を受け取った。
「ミラが君のことをどれだけ大切にしていたか」
「感謝しています。私が生まれてすぐに他界してしまった両親に代わり、私のことを育ててくださったミラ様には、本当に。ですがミラ様が貴方の妻になったように、私も人生を歩み、最愛の人と添い遂げました。そして彼は……ダンテは夫の家族なのです。ですから」
「いい。よく分かった。否定しているわけではない。……すぐに疲れが出てくるはずだ。先ほどの部屋で待っていなさい。こちらもしばらく、時間がかかるから」
 部屋を出ていくように優しく促されたリエルは口を噤み、一礼して男とダンテの元を離れた。

 隣の部屋に戻ると主人と息子、そして二人の仲間が今も目を閉じて眠っている。それらの姿が先ほどのダンテを見た時と同じであるように感じ、慌てて四人の体に触れた。
 温かかった。正常な体温よりは明らかに低いのだが、それを温かいと感じた。
 生きている。気を失っているだけだと改めて自分の手で確認が取れたことで落ち着いてしまった。だから、いいしれない不安が押し寄せてきた。
 ──どこで、何を間違えてしまったのだろう。
 魔剣の迷宮に挑み、ギーシェという魔術師を探そうとしたことだろうか? 国宝のネックレスを届ける依頼を受けたことだろうか? 困っている二人の冒険者と共に依頼を受けたことだろうか? ……冒険者として、復帰したことだろうか。
「何が、起きた」
 バージルが目を覚まし、体を起こしていた。辺りを見渡して、何が起こったのかを理解しようと鋭い瞳が忙しなく動いている。
「バージル……っ」
 リエルはほとんど無意識のまま、バージルの胸に飛び込んでいた。堰を切ったように涙が溢れ、苦しかった。たくさんの後悔と、これも運命だったのだと現実を受け入れようとしては脳が否定する葛藤に苛まれ、感情を制御できなかった。
 バージルは最初、理解出来ないといった面持ちでリエルを自分の胸から引き剥がそうと肩を掴んだ。その拍子にリエルの長い髪が揺れ、本来ならあるべきものが無いことに気付き、手を止めた。
 普段からどんなことにも物怖じしない気高く美しい妻が感情に流されてひたすらに涙を流し続けることなど、一度としてなかった。だから何か、それだけのことが起きたということを推し量ることは容易だった。
「慰めはせんぞ」
 拒絶せず、胸を貸してくれていることこそが慰めてくれているのだとリエルには伝わっていたから、言葉などいらなかった。それでもあえて口にしたのはバージルなりの気遣いだったのか、単に自尊心を守る体裁を保ちたかっただけなのかもしれない。
 どちらでも良いことか。この悲しみはリエルだけではなく、バージルも秘めなくてはならないものだから。

 泣き止んだリエルは疲れ果て、バージルの胸の中でぐったりとしていた。体調も思わしくないのか時折息を荒げ、咳はしないまでも辛そうに息を吐いている。
 どうにか言葉を紡げるようになったリエルから聞かされたことは、バージルにとっても衝撃的であった。
 弟が……ダンテが死んだなどと言われても、あまり実感が沸かなかった。普段から調子に乗っては馬鹿をしでかす愚弟ではあるが、反面実力は認めている。剣さばきから戦況把握、仲間への気配り、己の性格を理解しているからこそ、それを利用した鼓舞。どれをとっても確かだった。
 そんな男が、死ぬ? 何の冗談だ。ダンテは自分と血を分けた双子の弟だ。奴に限って、死ぬなど……。
 だがリエルが冗談でも家族の死を口にするような女ではないこともまた、知っている。不誠実な嘘をつくこともなければ、先ほどのように涙することもない。
 迷宮の最奥部で退路を断たれ、誰もが死を悟った時。あの時、何が起こったのかをはっきりと思い出すことがバージルは出来ないでいた。蛮族の振り下ろした強烈な一撃を受けて自分は早々に気を失ってしまったから、その後のことが分からない。覚えていることといえば自分が意識を手放す間際、同じ攻撃を受けたダンテは歯を食いしばり、どうにか立ち上がろうとしていたことだけだ。
「ここは……? 俺、どうなって……」
 喉が乾燥したような特有の声を出しながら、ネロが起き上がってきた。頭を押さえ、自分の体を見て傷一つないことを確認し、意味が分からないという顔をしていた。同じくしてキリエも目を覚ましたようで、隣で眠っているダイナの様子を確認すると、悪夢を見ているように険しい表情をしている姿を見て、揺すり起こそうとしていた。
「親父、ここどこだよ。それに母さん、体調悪いのか? つーか、おっさんは?」
「一度に聞いて来るな」
 ネロが口にした問いのほとんどの答えが欲しいのはバージルも同じだったから、眉間にしわを寄せて不機嫌になっていった。そんな父親を見て、ネロはこれ以上問いかけると面倒くさいことになると思って口を噤んだ。
「──キリエ様っ!」
 揺すられたことで意識が覚醒したのか、ダイナは鋭い声を上げながら飛び起き、ホルスターに仕舞われている拳銃を抜いて構えるも、何もいないことに勢いを削がれた。
「喧しい。静かにしろ」
 結局、バージルに怒られたのは最後の燃料を投下したダイナだった。ただダイナ自身は怒られている意味も、今自分がいる場所がどこであるのかも、体に傷が一つとして残っていない現状も分からないから、立ち尽くすしかなかった。
 キリエはダイナに落ち着くよう声をかけた後、バージルの胸の中で苦しそうにしているリエルを見て、何か出来ることはないかと傍により、模索した。
「なんだなんだ。俺を除け者にして騒いでんのか?」
 険悪な空気の中へ、飄々とした態度で別室から姿を見せたのはダンテだった。ネロやダイナは騒いでいたわけじゃないと反論したが、リエルは感極まったように両手で口元を覆った後、再び泣き出しそうになって顔を隠した。バージルもすぐにでも立ち上がって容態を調べようとしたが、体調の優れないリエルを抱えているためにそれは叶わなかった。
「えらく対照的な反応を──」
 真逆の反応を面白がったダンテは笑いながら一歩を踏み出した。すると上手く足に力が入らず、体が前のめりになって倒れていく。それを後ろから抱きかかえるようにして支えてくれたのは、同じく別室から姿を見せた男だった。
「まだ無理をするな。魂が体に馴染んでいない」
「あー、悪いね。どうにも、力が入らなくてな」
 曖昧に笑うダンテはもう一度自分の足で立とうと力を入れるが上手くいかず、そのままずるずると体を地面につけてしまった。男はこれを無理に引き上げようとはせず、ダンテの体に負荷がかからないよう、姿勢を正してくれた。
「何やってんだよおっさん、情けねえ」
「言ってくれるなよ。さっきまで天国に……地獄か? どっちでもいいが、とにかく放浪の旅をしてたんだ。もうちょい、労わってくれ」
 相変わらず訳の分からないことを言う叔父だと呆れながらダンテの傍に寄ったネロが肩を貸すと、全体重をかけられたせいで二人して倒れ込む羽目になった。これを大笑いするダンテに怒り心頭のネロが一発お見舞いしよう拳を振り上げると、先ほどの男によって止められるのだった。
「今は強い衝撃を与えない方が良い。最悪、魂が抜け出る」
「さっきから魂がどうとか体がなじまないとか、何の話してんだ。それに、あんた何者だよ?」
 つかまれた拳を振り払うとあっけなく手を放され、自由になれた。とはいってもダンテにのしかかられたままなのは変わらないから、動けるようになったわけではない。
「彼は先ほどまで死んでいたんだ。無理をさせてはいけない」
「……はっ?」
 この男が指す彼とはダンテのことだろうということは分かったが、突拍子もないことには理解が及ばなかった。
「何言ってんだよ。生きてんじゃねえか」
「私から説明するから、よく聞いて」
 バージルとキリエに支えられながら体を起こしたリエルは丁寧にひとつずつ、全員が事の経緯を分かるように順を追って説明した。
 迷宮の奥で強大な蛮族に襲われ、死にかけたこと。自分たちが生きているのは本当に運が良かっただけで、助けがなければダンテと同じように死んでいたこと。死んでしまったダンテに蘇りを施してくれたのも、自分たちを助けて治療してくれたのも全てはこの男の人がしてくれたことをリエルが伝えると、陰鬱な雰囲気が皆を包みこんだ。
 何故かは明白だった。全員、気を失う直前のことを思い出したから、リエルの言っていることが嘘ではないのだと理解出来たからだ。
「迷宮に入った辺りから記憶がさっぱりなんだが、そんなことがあったのか」
 男とネロ、そしてダイナの手を借りてどうにか体を起こしたダンテは並べられている寝袋の一つに腰を下ろし、今までの経緯を聞いて頭を掻いていた。
「案外、記憶のない俺の方が心情への負荷は少ない……なんて、冗談にならねえか。今回ばかりは流石の俺も、ちと堪えたな」
 頭を下げたダンテの顔は前髪に隠れ、表情を見ることは出来ない。ただ、誰もが死んでいたのは自分だった可能性を考えずにはいられなかったから、彼になんて声をかければいいのかなんて思い浮かぶはずもなかった。

 重い空気が充満した部屋は暗く沈んでいた。この中で普段と変わらずに活動しているのは家の主である男だけで、彼は特に助けた者たちに気を遣うこともなく椅子に腰かけ、書物をめくっては紙の擦れる音を響かせた。
 この空気に我慢ならなくなったネロは無言で立ち上がり、家を出ていってしまった。特に行くあてもないのに動いたのは苛立っている姿を誰かに見せたくなかったということもあるし、男の目に余るような無神経さに八つ当たりをしてしまいそうな自分を抑えられないと思ったからかもしれないが、実はそれら全てがただの言い訳で、あんなことが──死ぬかもしれなかった──起きた後でも冒険者を続けたいのかと問われたら答えることが出来ないからだった。
 だから今はただ、今後についての話を聞きたくなくて、その場から逃げ去ったに過ぎなかった。
「キリエ様、私たちも少し、外の空気を吸いに行きましょう」
「……そうね。そうした方が、いいわよね」
 ダイナに促されたキリエもどこか上の空といった具合で、瞳はずっと迷いの色を浮かべている。リエルに一言、少しだけ離れることを伝えればゆっくりしてきてと後押しされる形で外へと出払った。
 キリエはこの時、教義に従って守るべき者を探す旅が過酷であるという現実に直面した。それがどれほどに辛く、苦しいものであるのかを己の身と心で受け入れようとしては恐怖が思い起こされ、うまく自分の中で処理を出来ずにいた。
 若者が去ったことで一気に平均年齢の上がった部屋はいつまでも静寂に包まれているようだった。ダンテは顔を上げないままであったし、バージルは疲れて寝袋に体を預けているリエルをどうしてやることも出来ないから、静寂の中に身を委ねていた。
 この静寂を時折乱すのはリエルの苦しそうな息遣いぐらいのもので、いつの間にか男が立てていた紙を擦る音は静寂の中に隠れていた。
 それは男が本を読むことを、誰もが気付かぬ内に止めていたということだ。何をすればそこまで気配を消せるのか、或いはこの存在の薄さは元からなのか、それすらも分からないほどに男は謎に満ちていて、掴みどころがなかった。
「これを飲むと良い」
 小さな木製のお盆に乗せられている四つのティーカップからは湯気が立ち、ローズヒップの香りが部屋の中を満たしていく。運んできた男がお盆を差し出すと、リエルは体を起こしてカップを一つ受け取った。ダンテも顔を上げ、丁度喉が渇いていたんだと言ってカップを持ち、すぐに口付けていた。
 バージルは受け取らなかった。その眼はハーブ茶が嫌いというより、お前からの施しなどは受けたくないと言いたげな敵愾心が垣間見えた。
「……んー、良さは分かんねえな」
 特にハーブ類の嗜好品に興味も関心もないダンテはただ体が温まったという感想を言い、飲み干したカップを返した。これをお盆の上に戻した男は机の上に置き、自分の分を手に取ってまた椅子に座った。お盆の上には手に取られなかったカップと中身のなくなったカップになった。
「ミラ様が好きだった香りです」
「ああ。よく、彼女が淹れてくれた」
 リエルが男とだけ分かる会話をする光景に、バージルは気を立たせた。
 何かを懐かしんでいる二人の姿がただただ不愉快で、許せなかった。妻のことで、自分の知らないことを知っている男に対して出てくる感情はとにかくどす黒いものばかりだった。男の入れたハーブ茶に口付けるリエルを力づくで自分だけしか見れないようにしてやりたかった。
「落ち着けよ、バージル。二人の間にジェラシーでも感じてんのか?」
 バージルも分かりやすいほど表情が顔に出る性質なので、当然ここに居る者たちは彼の機嫌が悪いことを理解している。怒りを向けられている本人だけは特別気にした様子はないが、リエルは自分が原因でバージルが気を悪くしていると分かったからどのような声掛けをすれば良いかと困っていた。これを助けるためにダンテがお得意の茶化しを入れたわけだったが逆効果だったようで、拳こそはとんでこなかったものの恐ろしい双眸を向けられる羽目になった。
「もう一杯も貰っていいか? なんか、喉が渇いてな」
 味はよく分からないと言っていたくせに、バージルの残した分まで飲むつもりのダンテは男から湯気の立っているカップを受け取り、今度は少しずつ、出来るだけ味わうように飲み始めた。
 一方、バージルにどんな言葉をかければ自分の想いを正しく伝えることが出来るか悩んでいたリエルは意を決し、適切な言葉をゆっくり、誠実に聞こえる声色で口にした。
「完全勝利と呼ばれた人を相手にしても気を揉んでもらえる私は幸せです」
 慎ましく、お淑やかに想いを伝えるとバージルだけでなく、ダンテも大きな反応を示した。
「この男がかつて最強だと謳われた、あの完全勝利だと!」
 あまりの衝撃に立ち上がって異を唱えたバージルの言葉と態度にはリエルも驚き、まさか気付いていなかったとは思いもよらず、何度も口をぱくつかせた。ダンテも分かっていなかったようで飲んでいたハーブ茶をむせ返し、自身の胸を叩いてどうにか落ち着かせようと険しい顔をしていた。
「もう、昔のことだ」
 ただ一人、完全勝利と呼ばれた男だけはどこまでも淡々としていて、まるで関心を持っていなかった。
 ──完全勝利。
 ラクシア全土において英雄と謳われ、生ける伝説として名を馳せた男の二つ名である。
 かつてこの二つ名を聞いたことがない生き物を探す方が難しいほどにその名は各地に轟き、人族たちの間では英雄だと信じてやまない者が数多くいた。逆に蛮族たちからすれば天災とでも評すべき存在であり、忌み嫌っているはずだ。
 そんな男が今、目の前にいると知ったのだ。驚くのは当然のことであるし、冒険者たちが羨望の眼差しを向けるのも必然だ。
 本来なら、そうなるはずだ。
 しかし、残念ながらバージルとダンテの瞳は希望にあふれたものではなく、懐疑ばかりが色濃く瞳に映されていた。信じられないと、信じたくないと目が訴えていた。
「言っちゃ悪いが、いつ事切れてもおかしくなさそうなこのおじいちゃんが今から十八年前に英雄と呼ばれていた男には見えないね」
「同感だ。当時二十代だった男がここまで老けるものか。冒険者でなくとも誰もが憧れたあの男が、こんな老いぼれなどと……」
 認められないからなのか、認めたくないからなのか。辛辣な言葉を並べる二人をリエルは必死に諫めるが、効果はなかった。ただこれだけの言葉を浴びせられても男は動じることなく、一言、そうだなと肯定した。
「リエル、お前は勘違いしている。この男が完全勝利であるはずがない」
「それはあり得ません。この方はミラ様の名を口にしました。そしてミラ様の夫であると認めているのです。勘違いなどするはずがありません」
 バージルの否定を真っ向から跳ね除けたリエルは力強く、この男が完全勝利であることを訴えた。それでも信じて貰うには、決定的な何かが必要だった。
 完全勝利の経歴は目まぐるしい活躍を除いたほぼ全ての事柄が謎に包まれている。出自を知る者は当然おらず、どのようにして冒険者になったのかすら曖昧である。
 ただ一つだけ確実に言えること。それは完全勝利の二つ名どおり、この男は敗北を知らないということである。
 たった一人で数々の事件を解決しては数えきれないほどの人族を救い、誰も踏破出来なかった魔剣の迷宮を攻略し、歴史的価値のある遺物を持ち帰って人族たちの生活を豊かにした英雄。
 故に、英雄である男のことを詮索できる者もまた、この世には存在しなかった。
 分かっていることは人間の男であること。歳は恐らく、三十には届いていないのではないだろうかという推察。たったのこれだけであった。
 そんな、謎に包まれていながらも人族たちからの羨望を一手に受けていた完全勝利は今から十八年前、突如姿を消した。
 理由は不明。いつものように冒険者ギルドに依頼達成の旨を伝えに来たかと思えば一言、冒険者を辞める言って冒険の紋章を返品し姿を消したと、当時受付を担当した人物の証言だけが記録として残されている。
 この衝撃的な出来事は瞬く間に知れ渡り、アルフレイム大陸に留まらず海を超えた遥か先にあるテラスティア大陸にまで広まったとされている。
 あまりにも唐突すぎたこともあり、当時はただの冗談だとして完全勝利が冒険者を引退したことを信じない者が相当数の割合を占めた。しかし、本当にやめてしまったんだと落胆する者や、これに対して逆切れする者、或いは勝手に物語を作り出す吟遊詩人や根も葉もない噂が飛び交い、ただでさえ暗闇の中にある真相は更なる闇の中へと消えていくことになった。
 最初は引退を信じていなかった者たちも、その日を境に完全勝利の活躍を耳にすることがなくなったことで徐々に信ぴょう性を帯びていく噂に惑わされ、気付けばその二つ名を口にする者も減っていった。
 今でも覚えている者は星の数ほどいるだろう。それでも完全勝利を敬い、尊敬している人物が激減したことは間違いない。何より、引退の日から誰もその姿を見ることがなかったことから、死んだとさえ思っている人族は山のようにいるはずだ。
 そして当時、成人して冒険者となったばかりのダンテとバージルにとっても憧れであった完全勝利の引退は、あまりにも受け入れがたい現実であった。
「私はかつて、一度だけですが彼と出会い、話したことがあります。そして今回、再びお会いすることが出来ました。皆は英雄の姿以外を知りませんから勝手な噂を流しますが、彼は元から言葉数は少なく、繊細で、思慮深い方です。才に溢れていても驕らず、研鑽を積み続けた方です。そして私の同胞であり母の代わりをしてくださったミラ様とご結婚なされました」
「母の、代わり?」
 度々出てきたミラという人物が誰なのか、ダンテはもちろんのこと、リエルの夫であるバージルすら知らなかった。だから疑問を口にすれば、リエルは申し訳なさそうにしながらミラという人物のことと、完全勝利との間にあった出来事を話し始めた。

 自然の中で暮らすことを好むメリアは単独か、多くても数人程度で森の中に質素な家を建てて日々を過ごす種族である。リエルも例に漏れることはなく、ミラという同じメリアの女性と質素に森の奥深くで暮らしていた。
 今から十八年ほど前、その森へ足を踏み入れたのが冒険者を引退した完全勝利であった。当時の彼は傷心しており、アンデットではないにも関わらず、生気を感じさせない虚そのもののような気配を漂わせていた。
 それを憐れんだミラは好きなだけこの森で心を癒していくと良いと言い、森の中へ男を招いたという。
 メリアたち自身も人族であるため同じ人族を邪険に扱ったりといったことは基本的にないのだが、ミラとリエルはその生まれに秘密があるため、たとえどんな人物であろうとも自分たちの領域に入りこんだ相手を許容したことはなかった。
 いくつかの月日を男が湖のほとりで過ごす間、ミラはずっと男に声をかけ続けた。返事がなくても、毎日声をかけていた。この時のリエルはミラ以外の誰も信用していなかったから自ら男に近寄ることはしなかったし、ミラにも危険だから止めた方が良いと、男を森から追い出すべきだと何度も進言したが、聞き入れてはもらえなかった。
 そしてある日、いつものようにミラが他愛のない声掛けをしていると、突然男が喋ったのだという。
「人族の中にも、君のように美しい者がいるということを忘れてしまうところだった。思い出させてくれてありがとう」
 毎日声をかけていたことが無駄ではなかったことを知ったミラは大層喜び、この日から男にたくさん外の世界の話を聞くようになった。聞かれた男は包み隠さず、ありのままの世界を教えてくれた。
 明るい話から、後ろ暗い話まで、男は知っていることを話してくれた。
 これを遠巻きから眺めるようにして聞いていたリエルは、いつしか外の世界というものに憧れを抱くようになった。当然、これを間近くで聞いていたミラはもっと大きな憧れを抱いていた。しかし残念なことに、ミラの体は元から強いほうではなかったから、冒険者なんてものにはとてもじゃないがなれるはずもなかった。
 それでも外の世界に憧れたミラと、美しい心を持つミラに惹かれた男を見ていたリエルはいつしか二人の幸せを願うようになり、ある日、初めて男に声をかけた。
「ミラ様とご結婚されては如何ですか?」
 男は初めて声をかけてくるリエルの存在に驚いてはいなかった。ずっとこちらのことを見ている誰かがいると知っていたからだ。しかし、リエルの口から紡がれた言葉には微かに眉を動かした。
「リエルったら、彼を困らせてはいけませんよ。それに私は貴女を育てなくては」
「私ももう十三になりましたし、この森にいる限り私は平気です。そして私はミラ様のお陰で、穏やかで幸せな日々を過ごせました。ですから次は、ミラ様がご自身の幸せを追い求める番なのです」
 ──いつまでも私たちの種に縛られるべきではないのですから。
 リエルが放った最後の言葉は、ミラが今まで抱え続けていた目に見えない呪縛から解放した。
 その場に泣き崩れてしまったミラと、どうすればよいのか困っている男の姿にリエルは微笑み、今一度二人を祝福し、添い遂げた二人が誓いのキスを交わす瞬間を見届け、この森を後にする姿を見送った。
 そしてリエルも数年後、森へ迷い込んだバージルと出会い、結婚して夫と同じ地へ歩いていけるよう、冒険者となった。

「種の呪縛とはなんだ。何故、今まで黙っていた」
「それは……」
 ダンテはリエルから話された内容があまりにも突拍子がないので混乱し、一人で頭を捻っては唸っていた。それはバージルも同じはずなのだが、話を聞いている内にバージルの興味は完全勝利からリエルが隠していた種についてのことに切り替わっていた。
「その森から出たいがために、俺を利用したのだな?」
「違います! それだけは、断じて……。私は本当に、貴方を好いて……」
 悲痛の叫びだった。
 今まで黙っていたことへの罪悪感。信頼の二文字が崩れ去っていくのがありありと目に映るようで、胸が押しつぶされていく。でもこれらは全て、当然の報いだと受け入れるしかなかった。
 今まで黙っていることを、そして今話す決断をしたのは他の誰でもない、自分だったから。
「覚悟は出来ているな」
 頷く他なかった。
 何を言われるのだろうか。罵り? 蔑み? その程度で済むなら、許されている方だ。もしかしたら、殴られるかもしれない。正直、痛いのは嫌だ。だが、何よりも聞きたくない言葉があった。
 もしも別れを告げられたら? これが一番、怖かった。
「顔を上げろ」
 言われたとおりにしなくてはと、必死に体に命令を送る。しかし恐怖が体を縛り、頭を持ち上げられない。これに痺れを切らしたバージルの手がリエルの顎を捉え、無理やり上を向かせた。
 怖い。
 目を開けられなかった。体が震え、目尻に涙が溜まっていく。先ほどまで潤っていた口の中が、恐怖で渇いていく。
 目を閉じていても、バージルが近づいて来る気配は嫌というほどに感じ取れた。聞きたくない言葉を聞かされるのだと震えあがり、さらに強く目を瞑った。
「んぅ!? ふっ、ぁ……!」
 予想外のことをされて、リエルは目を見開いた。目の前にはバージルの顔があり、瞳がしっかりと自分を見つめている。
 まさかキスをされるなんて考えに思い及ばなかったリエルは先ほどまで感じていた恐怖などが全て吹き飛び、この光景をダンテたちに見られているという羞恥から逃げだすべく、必死にバージルの胸を押して抵抗した。
「どうした。覚悟は出来ているんだろう?」
 唇を離し、同じ言葉をもう一度口にするバージルは悪い顔をしていた。それは確実にリエルを追いつめるという顔だった。それは絶対に口を割るまで責めることをやめないという顔だった。そしてそれらを今から実行するという顔だった。
「覚悟と言っても、そういう意味では──んんっ」
 深く口付けをされ、言葉を切られる。ダンテたちに見られていると意識して、恥ずかしさで気がどうにかなってしまいそうだ。恐怖や痛みはもちろん嫌だが、これはこれで相当に堪えた。
「いつまでこの部屋にいるつもりだ。さっさと出ていけ」
 リエルを組みしだいているバージルは顔を上げ、ダンテにきつい言葉を浴びせた。これを聞いたダンテはあまりの横暴さに呆れ、盛大にため息を吐いた。
「我ながら、とんでもない兄貴を持ったとぼやかずにいられないね」
 一度言いだしたら聞く耳を持たないバージルをどうにかするぐらいなら、自分が出ていった方が労力も少なく済むというものだ。もちろん、ただ獣のように盛って襲おうとしているのなら二人が夫婦であっても黙ってはいないが、今回に限ってはバージル自身にも余裕がなく、絶対にリエルを手放したくないという強い思いを感じたから、文句もほどほどに出て行くことを選んだ。
 大変申し訳ないことだと思いつつ、家主である男にもどうにか二人の情事を邪魔しないように声をかけようとダンテが椅子の方に目を向けるとそこはもぬけの殻で、どこにいったのかと辺りを見渡すと玄関の扉が少し開いていた。
「ああっ! ま、待ってバージル……っ!」
 早く出ていかないと本当に最後まで見せつけられると感じ取ったダンテはそそくさと家から出ていくのだった。