Memory

 最悪の災いとも呼べるレッドグレイブ市で起きた事件から早数日。世界がどれだけの事態に見舞われようとも流れる時間は止まることを知らず、新たな日の出はやってくる。当然おっさんたちも例に漏れることなく、平穏に戻りつつある日常を迎えていた。
 残念ながらレッドグレイブ市の住民はほとんど息絶えてしまっており、街は無人となってしまったことで治安は最悪にまで落ち込んでいる。だから、誰もあの街に近付こうとはしなかった。
 もっとも、今はそれが幸いでもある。魔界からやってきた悪魔たちは肉体を維持するための食料──人間──にありつくことが出来ず、自然と息絶えていくからだ。知恵のある悪魔は別の街へ行って人混みへと紛れ込んでいくだろうが、それらはまたいつの日か、依頼が飛んでくるだろう。
 事件があった当日のことを思えば、悪魔たちの活動はあからさまに落ち込んだ。それでもいなくなったわけではないし、今もまだ暴れている悪魔がいつもより多いこともあって、事務所の面々は入れ替わりで悪魔を狩りに行くという、日常よりも少しだけ忙しい日々を送っていた。
 忙しいとは言っても今の彼らに敵う悪魔など、もはや存在しない。忙しい原因は強さではなく、ただただ数が多いため、手間がかかっているだけに過ぎなかった。
 フォルトゥナに帰ったネロに今回の事後処理に関しての連絡は入れていないので、ネロはキリエと共にVとその他大勢の子守をしているだろう。そして現在、事務所に残っているのはバージルとダイナの二人だけ。四人のダンテは先陣を切っていた二人と交代し、残り悪魔の残党を片付けるため各地に散っていた。
 久方ぶりに事務所で朝を迎えたダイナは普段と変わらない時刻に目を覚まし、支度をする。寝間着からいつもの服に着替え、一階に降りて洗面台の前に立つ。顔を洗い、手で髪をとかし、適当に整える。
「おはよう」
 背後に立つ気配に気付いて声をかけると、同じ言葉が寄越された。そっと鏡の前から横にずれると声の主であるバージルが洗面台で支度を始めた。
 先に洗面台を後にしたダイナはキッチンへと向かい、今日の朝食はどうするか思案する。人数が多い時は要望に応えていられないので、申し訳ないが手軽に量を用意できる食事になることがほとんどだ。手の込んだ料理を振る舞うのは、それこそクリスマスなどといった催し物がある時ぐらい。
 しかし、催し物がある時とは言ったが、残念なことにこの事務所には国に対して敬虔な者なんていないので祝い事なども基本的にはしない。唯一みんなが祝うであろう誰かの誕生日も、自分の誕生日を誰一人として覚えていないここでは行われることもない。数年前に一度だけ行われた謹賀新年を祝ったそれも、ダイナの父、隼の故郷の雰囲気を味わいたいというダイナの希望があってなされただけで、習慣化したわけではなかった。
 どうしたものかと考えているうちにも時間が過ぎていき、バージルが洗面台からこちらへやってきていた。
「バージル、朝食に希望とかある?」
 一人で悩んでいることを不毛だと感じたダイナが聞くと、ほんの少しだけ間が置かれた後に一言、パンを使った料理がいいと返ってきた。
 パンと聞いて何が残っているか、さっと頭の中に浮かべる。今の材料で出来るものはフレンチトーストかワッフル、後はベーグルに何かしらの食材を挟んだサンド系だろうか。朝食といえば定番とも呼べる目玉焼きにベーコンを付けたものでも良いが、それだとせっかくの要望であるパンがメインとは呼べなくなる。
 多少味気ないとは思ってしまうが、出来ることならバージルの要望に応えたいと思ったダイナは確認を取ることにした。
「簡素になっちゃうけど、いい?」
「構わん。豪華にする必要もあるまい」
 了承が得られたのなら、もう迷う必要はない。冷蔵庫の中に残っている具材の中から、バージルが好むであろうものを幾つか選び、手際よく処理をしていく。
 火を通すもの、食べやすいサイズに切るものなど一つずつ手順を決めて準備しながら、メインであるベーグルを上蓋と下蓋に切り分けて具材を挟めるようにしていると、バージルは横でコーヒーの粉末が入った容器を取り出し、自ら淹れていた。
「あ、飲み物なら用意するから、席についていて」
「これぐらい自分で出来る。ダイナは……ココアで良かったか」
 おっさんの事務所に来た時とはまるで別人のようなバージルの応対に、ダイナはつい笑みをこぼす。突然笑われたことにバージルは眉間にしわを寄せながら、何がおかしいと語気を強めて言った。
「ごめんなさい、悪気はなくて。昔のような……うまく言えないけど、温かさとくすぐったさが混じったような感覚が嬉しかったの」
 照れくさそうに視線を逸らしているダイナの様子を見れば、どう伝えたらいいのか困りながらも今の空間を好ましく思ってくれていることぐらい、バージルにだってすぐに分かるものだった。それに、何故ダイナが笑みをこぼしたのか、分からないほど疎くない。
 ダイナはこれまで、守らなくてはならないとしてきたダンテとバージルは死んだのだと思いこみ、何十年という時を過ごした。そしてどういう因果か、おっさんの元にバージルを含め、並行世界から来たとされる数人のダンテと生活を共にすることとなった。この時ほど使命感に囚われていた時はないと言い切れる程度には強固な決意を宿した眼をしていたし、有言実行だった。
 しかし、ダイナが思いこんでいた現実は違った。ダイナが幼少の頃に一緒の時間を過ごしたバージルはこうして生きていたのだから、本来であればこの事務所に集まった時に感動の再開を果たし、ダイナがあそこまで己の使命に執着する必要はなかっただろう。
 だが現実はどこまでも過酷であった。何より、バージル自身が記憶のほとんどを欠落してしまっていたためにお互いを認識することが出来ず、バージルは初めて出会った人間という態度で接した。
 普通の人間であれば関わりを断ってしまいたいと思ってしまうような辛辣な態度で接しても、ダイナは決して敵意を向けることもなければ弱音を吐くこともなかった。
 だが今になって思えば、それはダイナには絶対に果たすべき使命があったからであって、決してお人好しなわけでも、ましてや敵意などに気付かないほどの愚か者でもなかった。
 それだけのことがあってようやっとダイナのことを認めても良いとまで思うようになったバージルが、多少態度を改めだしたと感じられるようになったと思えた矢先、記憶を取り戻したことにより突然人が変わったように優しく接してくるようになったのだから、戸惑うなという方が無茶である。
「別に、怒ったわけではない」
 自分とダイナの飲み物を淹れながら、バージルはそっけなく言う。
 幼いながらに抱いた、大切にしたいという気持ちは記憶を取り戻した時に再び湧き上がった思いだが、今はそれだけじゃない。ダイナが昔を懐かしむ姿に嬉しさを覚えるのと同時に、これからのことを、もっと言ってしまえば今の自分を見てほしいと、素直に思った。
「うん。……ココア、ありがとう」
 そんなバージルの心境を知ってか知らずか、ダイナは昔の生活が帰ってきた喜びを噛みしめているような、それでいて大人になった今の関係をくすぐったがりながらも嬉しそうに受け入れてくれていることは救いでもあった。
 普段と違う空気にどぎまぎしながらも、ダイナはするべきことをきっちりとこなしていたから食事の準備に時間は掛からなかった。程よく火の通されたベーコンと、綺麗にスライスされたトマトにみずみずしいレタスが挟まれたベーグルサンドが四つと、二人で食べきるには多めに作られた朝食が完成した。
 サンドの乗った皿をダイナが運び、バージルはコーヒーとココアが入ったコップをテーブルに運ぶ。その最中で、ダイナは何度か鼻をひくつかせていた。
「飲むか?」
 ダイナの前に差し出されたのは、バージルが自分で飲むために淹れたコーヒー。いきなりの申し出にどうしてと問いかけると、飲みたそうにしていたと言われ、ダイナは思案する。そして先ほどコーヒーの香りを嗅いでいたところを見られたのだと理解し、瞳を泳がせた。
「香りは好きだけど、味は……」
「無理なら残せばいい」
「じゃあ、一口」
 コーヒーを受け取ったダイナは胸いっぱいに香りを吸い込み、意を決して口付ける。最初に口の中で広がったのは鼻腔をくすぐったのと同じ香り。そして間髪入れずにやってきたであろう味は、しかめっ面をするダイナの表情を見れば言わなくとも分かるものだった。
「まだまだ子どもだな」
「別に、コーヒーを苦いと思ったぐらいで子どもかどうかなんて……」
「ムキになって言い返すところが、だ」
 コーヒーの苦味のように間髪入れずに言いきられてしまったダイナは押し黙り、コップを返した後、自分用にと入れてもらったココアを口に含んだ。
「美味しい」
 口内が苦味で支配されていたからか、ココアがいつもより甘く感じられる。もう一口含むとコーヒーの香りは消え、ココアの甘さで口の中は満たされた。
 ダイナが一息ついていると、バージルは先に朝食をとり始めた。返されたコーヒーに躊躇いなく口を付けた後、ベーグルサンドを食べている。それにつられるようにダイナも皿から一つ取り、頬張った。
 食事中に言葉が交わされることはなかったが、実を言えばダイナは一人で勝手に頬を紅潮させながら、それを悟られまいと食事に集中しているように装っていた。無論、気付かれないはずはなく、また原因が何であるかも察したバージルは敢えて何も言うことはせず、意識しているダイナの様子を胸に秘めるのだった。

 多めに作られた朝食はバージルが平らげ、残ることはなかった。今は片付けも終わり、二人ともソファに腰を下ろしてくつろいでいる。
 正直、こういった手持無沙汰の時間を過ごすことがダイナはあまり得意な方ではない。時たま休息を取りたいと思う時はあるが、それは全員の無事がはっきりと分かっている時に限る。だから仲間たちが戦っている状況下で、自分だけ事務所で落ち着いた時間を貰うという感覚には今だ慣れなかった。
 隣で読書しているバージルを見る。自分にも何か、読書のような時間を潰せる趣味があれば空虚な時間を過ごさずに済むだろうかなんて、同じことを何度も考えたものだ。結局は何も見つからなくて鍛錬に励むわけだが、言ってしまえばそれこそが趣味みたいなものなのかもしれない。
「ダイナ」
 立ち上がろうとしていた時、ずっと書物に視線を落としていたバージルに声をかけられたので振り向くと目と目が合った。
「どうせ、することがないんだろう」
 分かりきっていることを口にしながらバージルが差し出したのはラッピング袋だった。よく分からないままに受け取ったダイナは脈絡のない贈り物にどうすればいいか分からず、受け取ったものをじっと見つめて固まっていた。
 ここ数日の間に自分はバージルに何かしただろうか? 考えても何も思い当たる節がないので悩むことをやめてラッピング帯を外すと、中には一冊の本が入っていた。
「これって、昔バージルが読んでくれた……」
 表紙には絵などは一切描かれておらず、大きく『童話集』とだけ書かれている簡素な本だ。それでもダイナにとっては思い出深いのか、珍しく目を輝かせてページを開いて中身を確認している。
「懐かしい……。『盲目少女』に『夢の島』はよく覚えてる。後は『青い腕輪』もあったはず」
「『黒い森』もあったと思うが。怖い話だったはずだが、泣き出したのはお前ではなくダンテの方だったな」
「ダンテ、怖い話はとことんダメだったから」
 幼い頃、バージルに読み聞かせてもらった『黒い森』は、かなり不気味な物語だった。
 ただ悪魔の存在を母から聞かされ続けていたダイナにとっては大したことがなかったのだが、あまりそういった存在を認めたがらなかったダンテはたまたま隣の部屋から聞き耳を立てていて、一人で聞いているのに堪えられなくなり、泣きじゃくりながら夜に怖い話なんかしてるんじゃないと部屋に飛び込んできたことがあった。
 今日だけでどれだけの思い出を感じただろう。人生の中でほんの僅かしかなかった時間でも、これだけたくさんの温かい思い出が残っているのはバージルと、ダンテのおかげだ。
「暇つぶしに使うと良い」
「ありがとう」
 いろんな物語が総集されている中で、ダイナが一番最初に読み返し始めたのは『盲目少女』だった。
 これはとある少女が呪いをかけられ、目が見えなくなってしまうというお話。
 今の歳になってもう一度読むと、幼い頃に抱いた感情とはまったく違うものがこみ上げてくるが、構わなかった。この本にはたくさんの思い出が詰まっている。ダイナにとってはその事実が何よりも大切で、それがあれば十分だった。
 ダイナが読む手を止めて視線をバージルに向けると、今度は読書の手を止めることなく耳だけ傾けるように姿勢を正してくれた。
「もし、時間があればだけど」
「読み聞かせてほしい、か?」
 思っていることを言いあてられ、ダイナは目を見開いた後に小さく頷いて見せた。
 やはり子どもだと、コーヒーを飲んだ時と同じことを言われてしまったが、こうして時間を共有することが出来るなら、まだ自分は子どものままでいいと思った。
 二人は幼少時代に想いを馳せる。読み聞かせる者と、聞き及ぶ者となって。