Leaving

 六月十四日午後六時十分。
 必要になるものを全て揃えたネロは完成した移動式事務所に乗り込む直前までキリエと挨拶を交わしていた。
「忘れ物はない?」
 心配そうに確認を取ってくるキリエにネロは小さく頷いた。
「大丈夫。君の方こそ、忘れないでくれよ」
「ええ。事件が解決するまで外出は出来る限り減らすわ。子どもたちにもちゃんと言い聞かせておくから」
 キリエはうら悲しい表情を浮かべまいと必死に振る舞うも、ネロには痛いほど伝わった。謝ることはしなかったが申し訳なさからしっかりと顔を合わせることが出来ず、少しの間俯く。
 誰かがやらねば、世界は滅びる。
 安全なんて保障されていない、まさに命がけとなる現場へ大切な人を送り出さなくてはならないのだ。笑って送り出すことなど、出来るはずがなかった。
 それでも引き留めなかったのは、この事件を解決できるのはネロしかいないとキリエも分かっているからだ。
 ダンテを助けに行く。
 ネロにこう言われてしまえば、たとえキリエであっても止めることは出来ない。キリエ自身もダンテに救われた身であるし、困っている人に手を差し伸べないなんてことはあってはならないと考えているから、引き止めることは出来ない。
 キリエがネロの身を案じているように、ネロもまた、キリエの身を案じていた。
 伝え忘れたことはないだろうか。他にもっと、かけておくべき言葉はないだろうか。思案するネロの背後から人影がやってきて、乾いた音が鳴った。
「いつまでやってんだ。もう行くぜ」
「分かってる。……叩くなよ」
 舌打ちしながら文句を言えば叩いた本人はもう車に乗り込んでおり、聞く耳持たずというより最早届いてすらいなかった。最後にもう一度キリエの方に振り返って小さく手を振り、ネロもようやく助手席側に回って車に乗り込んだ。
 手に入れてから修理を始めた時期は随分と前のことだったが、ほとんどの修理を約一ヶ月という短い期間でやり終え、ようやっと動くようになった移動式事務所。車体の横には若お手製「Devil May Cry」のネオンサインが取り付けられている。
 ネロが助手席に乗り込んだことを確認した二代目がエンジンをかけている間、若は荷台の方の窓を開けて顔をだし、キリエに言った。
「嬢ちゃんの大事な男は必ず無事に連れて帰るから、心配すんなよ!」
 余計なことをと思いつつ、ネロは口を挟まなかった。キリエがこれで少しでも安心できるならそれでいいと思った。それに予定の出発時間はとっくに過ぎているから、急がなくてはVとの約束に遅れてしまう。
「行こうぜ、二代目」
 いまだ窓から顔を出している若に気を遣うことなく、二代目は言われたとおり発進させる。突然動き出したから若は窓の淵に首をぶつけながら慌てて顔を引っ込め、文句を垂れた。それでも、速度を上げるならこれぐらいの荒い運転は我慢するしかないことを若も分かっているので、黙々と運転を続ける二代目に必要以上噛みつくことはなかった。
 静かになった車内で若は何かを探し始める中、ネロは目を伏せていた。
 レッドグレイブの街から逃げるように立ち去って以来、おっさんに関する情報を得ることは、当然だが叶わなかった。
 ……おっさんは本当に、ユリゼンという悪魔に敗れてしまったのだろうか。
 おっさんに限ってそんなことはあり得ないと思いたい気持ちはもちろんある。しかし、自分の目で見た最後の状況と、一度として連絡のなかった事実を考えると絶望的だと言わざるを得ない。
 だったらもう、自分に出来ることをするまでだ。
 何も自分は一人になってしまったわけじゃない。頼れる仲間が今もこうして力を貸してくれているのは本当に心強かった。
「待ってろよ、おっさん……」
 おっさんが生きていることを期待してネロは小さく呟く。三人の乗っている車は順調にレッドグレイブ市に近付いており、このままの速度を保てれば数刻もせぬうちに到着できるだろう。
 これから始まろうとしている戦いはただおっさんを救うためのものでも、世界を救うためのものでもない。──プライドの戦いだ。
 自分のことを足手まといと言いきったおっさんを見返す。ネロが真っ先に思い浮かべることはこれしかなかった。
 レッドグレイブ市に近付くにつれ、ネロは失われたはずの右腕が疼いたような錯覚を覚えた。まるで何かの胎動のように、あるはずのないものがあるような感覚。
 これこそが真の力になり得るものであることを理解するのは、もう少し後になってのことだった──。