Omen

 今回の事件はある意味で、起こり得ること自体が必然だったのかもしれない。それはひとえに、彼らが双子であったが為か。はたまた、家族への想いが具現化した奇跡か、或いは呪縛か。
 レッドグレイブ市にとって今回の騒動以上の出来事は、この先一生をかけても二度と起きないであろう最悪の災いでありながら、その災いは彼らがもっとも望んだ結末へと向かわせるために必要なことであった。
 きっと、そうであったはずだ。

 魔剣教団事件後、並行世界からの来訪者たち計五人を迎えてから数年──。半人半魔たちがいつもと変わらない生活を送っている中、一人だけ、ほんの少し生活リズムが変わった者がいた。
 バージルとダイナだけでなく、若、初代、二代目というそれぞれ三人のダンテもおっさんの過去や未来とは少し違う結末を辿った、並行世界の存在であるということが発覚してしばらくした頃から、ネロは時々一人でフォルトゥナへと帰る機会が増えた。
 理由は二代目たちの秘密が露呈するきっかけともなった、おっさんとフォルトゥナの街の様子を見に帰った時に対峙した強大な悪魔の存在。これが主な原因だった。
 強い力を持った悪魔は簡単に人間界へ現出することはないが、フォルトゥナという街はどういう因果か、悪魔が出てきやすい土地である。あの時は偶然自分とおっさんが居合わせて、さらに二代目とダイナも応援に来てくれたから、誰一人として犠牲を出さずに済むという最高の結果を掴み取れた。
 しかし、あれほどの力を持ち合わせた悪魔が出てくることはまずないとしても、自分にとっては弱い部類にくくっているその存在も、一般人からすれば何も変わらない。悪魔は悪魔なのだ。
 だからネロは、フォルトゥナの街へ帰る頻度を増やした。キリエに後押しされているのもあってまだまだおっさんの元での修業は続くからこそ、恋人であるキリエとの時間を少し作るぐらいは許されるだろうという下心も否定はしない。この下心込みの提案も、誰もが分かっていると言いたげな面持ちをするばかりで引き留める者などいなかったし、何ならついて行ってやろうかと言いだす連中の方が多かったほどだ。もちろん貴重なキリエとの時間を邪魔されるのは癪だったので、ネロは仲間たちの提案を一蹴した。
 今思えば、この時ネロが厚意を断った時点であるものを失うことが決定したのかもしれない。だが当時のネロたちがそれを知り得る手段は皆無であった。

 四月三十日、午後五時五十八分。
 事務所に一本の電話が入った。
「Devil May Cry」
 おっさんが受話器を取り、事務所名を告げる。
「あの……あの……!」
 聞こえてきたのは切羽詰まった女性の声であった。おっさんはどうしたものかと考えて、この声をどこかで聞いたことがあると思い出す。声の主が誰だったかを記憶から引っ張り出そうとしていると、相手は矢継ぎ早に言葉を続けた。
「ネロがっ……! 誰かに襲われたんです! 今は病院で、一命は取り留めたんですけど意識が戻らなくて、それで……!」
「落ち着けって、お嬢ちゃん。……今から何人か向かわせるから、そいつらが到着するまで出来るだけ外には出ないようにするんだ。まだネロを襲った奴がいるかもしれないからな」
「は、はい……」
 ほとんど何も伝えられていないというのにおっさんは門前払いなどせず、迅速な対応を取ってくれた。そのことを電話越しの相手も理解出来たようで、ようやく落ち着きを取り戻し始めたようだ。
「電話を切るが、問題ないか?」
「ごめんなさい、取り乱してしまって。……私は大丈夫です。どうか、よろしくお願いします」
 電話先の相手の動揺などが消え去ったわけではないだろう。しかし、今すべきことは女性を慰めることじゃない。気を強く持とうとして発せられた大丈夫という言葉を、真の意味で大丈夫な状況にしてやること。これこそが求められていることだ。
 受話器を置いたおっさんは今事務所にいる仲間たちをすぐさま玄関広間に集め、先ほどの電話で手に入れることの出来た少ない情報を共有する。
 たった今、フォルトゥナにいるネロの恋人であるキリエから電話を受けたこと。ネロが何者かにやられ、一命は取り留めたが昏睡状態にあること。早急にフォルトゥナの街へ向かう必要があることを伝えたうえで、おっさんは初代、バージル、ダイナの三名にフォルトゥナ行きを命じた。
 命を受けた者たちは何故自分が選抜されたのかといった疑問も、ネロの身に何が起きたのかなどの詳細を聞くことなく、淡々と準備を済ませてすぐに事務所を発った。これを送り出したおっさんはカウンター席からソファへと移動した後、深いため息を漏らした。
「どうしてこう……あの街には厄介事が転がり込むのかね」
 おっさんと比べればまだまだネロは未熟だ。それでも、大抵の悪魔には引けを取らないはず。むしろ、この事務所にいる仲間たちの誰かと肩を並べるほどの相手がいるのだとしたら、手合わせ願いたいほどには強者に飢えている。
 つまり、ネロに致命傷を与えるほどの相手など早々にいるはずがないのだ。だがキリエの話が本当であるなら、ネロを超える何かが現れたということになる。そしてキリエが嘘をつく理由がない以上、ネロを倒した何かがこの世界のどこかに、今も存在している。
「なんでおっさんが行ってやらなかったんだよ」
 フォルトゥナ行きへ指定されなかった若が、あからさまに気を悪くしながら問う。若の疑問はもっともだろうし、何なら現地に行かせた三人の口から出てこなかった方が不思議なほどだったから、答えること自体に抵抗はなかった。
「お前たちはともかく、俺に見られるのを坊やは嫌がるだろ。それに……」
 確証はない。ただ、今は事務所を離れるべきではないという予感があっただけ。この予感に従う理由なんてものはなかったが、胸騒ぎに近い感覚を無視することがおっさんには出来なかった。
「三人も向かわせたんだ。むしろ敵に同情するね」
 適当なごまかしと半分の本心を混ぜたことを言えば、若はそれ以上何も言わなかった。
 初代とバージルの二人に使命が入った時点で、自分の出番がないということは察していたのだろう。ダイナがついていけたのは戦うためというよりは動けないネロの護衛か、何なら一般人であるキリエを守らせるため。……もっと言ってしまえば、安心させるためだけの付き添いだ。
 言い方は悪いが、そんな役に回されるなら行かない方がよっぽどましだ。勘違いしないでほしいのは、別にキリエに対して何かあるわけではなく、単にお守りなんてものはごめんだということ。
 だから選んでもらえなかったこと自体には気を悪くしたものの、人選に文句があるわけではなかった。無論、口にした疑問通りのことを考えていたわけだがおっさんの言い分で納得した以上、もはやこれ以上の言葉は不要だった。
「二代目がいれば、もっと単純だったさ」
 若は追加された言葉を聞いて、確かにと思った。
 おっさん以上の実力があり、フォルトゥナの街に行ったことがあって、キリエにも気を回せる。さらにはネロが目を覚ました時、二代目にならなんで来たんだなどの文句も言わないだろう。
 しかし、今回に限ってはたらればと言う他ない。ことは単純なもので、今この場に二代目がいないから頼むことが出来ないのだ。
 あれは今から一週間ほど前だったか。詳細などは一切明かさず、少し遠出をするとだけ言い残して二代目はどこかへ出かけていった。そのため、呼び戻すことはおろか、いつ帰ってくるのかさえ分からない状態だった。
「帰って来ないわけじゃなさそうだったし、二代目がいなくたって今回の敵もブチ殺せるだろ」
 ネロがやられたというのだから一筋縄ではいかないと理解はしている。しかし、フォルトゥナに向かった三人が負ける姿を思い描けないのも本音だった。おっさんも同じように考えているようで、事の重大さに気付いてはいなかった。

 四月二十八日、午後三時三十九分。
 この島に来たのは実に何年ぶりか。二代目は以前訪れた時期がいつ頃であったかすら思い出せなかった。もっとも、この世界にあるデュマーリ島に訪れるのは初めてであり、付け加えれば自分のいた世界とはまるで様子が違うため、ここをデュマーリ島と呼んでいいのかも微妙なものだった。
 護り手と呼ばれるものの存在もなく、何か良からぬことが企てられた痕跡もない。何なら、フォルトゥナの街のように悪魔が出没しやすい土地ですらなくなっていた。
 ──自分が歩んできた道をおっさんに歩かせるわけにはいかない。
 そう強く思うようになったのは自身の隠しておきたかった過去を暴かれ、ネロに赦されてからなのは間違いない。だからここに来た。
 自分の辿った人生の中で、おっさんがまだ相対していない悪魔がいるとするならここしかなく、この島で起きた出来事は何一つとしておっさんには必要の無い出来事だと二代目は結論付けた。
 今回の行動は仲間を、特におっさんとネロのことを想っての行動である。しかし、行き先を教えるわけにはいかず、何ならまた昔と同じように一人で問題を解決しようとしている今の状況を思わずにはいられなかった。
 それでも──。
 たとえ仲間たちに非難されたとしても、これだけは……この島の不安要素を取り除くのだけは自分の手で解決しなくてはならない。それが自分に残った最後の贖罪であり、解決できて初めて憂いのなくなった顔を向けることが出来るのだ。だから護り手の存在が確認できなくても、自分が依頼を受けた時のような悪意が蔓延っていなくても、悪魔が出没しやすい土地でなくなっていたとしても。
 デュマーリ島と呼ばれる島の存在を誰にも知られないようにするために、必要な条件があった。
「待っていたぞ。俺を狩るために、力を有した者が来るこの日を……」
 この地には一匹たりとも悪魔の存在を許してはならない。許せばいつの日か、仲間たちがここにいる悪魔を狩りに来てしまうから。そうなってはデュマーリ島のことを知られてしまうことになる。
「何をどうやってここに出現したのかは知らないが……消えてもらうぞ」
 二代目はリベリオンの柄に手をかけ、対峙する。この時二代目は、ある気配を感じていた。──自分に近しい存在の気配を。
「来い、人間! 俺を愉しませて見せろッ!」
 炎を身に纏った悪魔──バルログが咆えながら右腕を振りあげる。拳には煌めく何かがあり、この煌めく何かが先ほどから二代目が感じている、自分に近しい存在の気配であると確信した。
「一連の事件で閻魔刀の詳細を髭から聞きはしたが、破片が残っているというなら破壊し尽すまでだ」
 言い終わるのが先か、二代目はバルログに向かって跳躍していた。これを迎え撃たんとするバルログの体を包む炎が一際大きくなる。そしてリベリオンと拳が激突した刹那、凄まじい熱風が辺りへと広がり、周囲に生えている枯れた雑草すらも焼き払った。

 五月三日、午後八時八分。
 キリエから不穏な電話を受けて三日が経った。そろそろフォルトゥナに向かった面々がネロの元へついている頃だろうか、なんて緊張感のないことを考えながら、おっさんは適当な雑誌を顔に乗せ、事務所のデスクに足を投げ出している。
 一方、若は起きて来るつもりすらないのか、姿が見えない。二代目も帰って来ておらず、家のことが出来る人物がいないとこうもだらしない光景に変わってしまうという典型例のようだった。
 どうせ食事も作れないので一人で暮らしている時によく利用していた店にオリーブ抜きのピザでも頼もうかと考えていると、ノックもなしに扉を開く者がいた。
「おいおい、せっかちさんだな。ノックぐらいしろよ」
 礼儀のなっていない男は、おっさんの軽口にも反応を示さなかった。そして悪びれることもないまま、扉の横の壁に背を預けた。手には本と杖をそれぞれ持っていて、一見すると足の悪い詩人のような持ち物だったが、その考えはすぐに改める必要があった。
 男は壁にもたれてから今も黙ったままで、視線を本に落として杖を小脇に抱えた。杖の支えなしに平然と立っているのを見せられては、足が悪いと言いきるには微妙なところだ。
 妙な男がやってきたものだとおっさんは心の中で呟きながら、さらに言葉をかけた。
「それとも迷子だったか? 悪いがここは交番じゃないんだ。付け加えるなら街の案内所でもねえ。用がないなら帰りな」
 帰れと口にすると、男はほんの少しだけ視線を上げた。どうやら、それは困るらしい。
「……仕事を頼みたい」
 短い沈黙の後、男は言った。つまり、依頼人というわけだ。
 男は懐に手を入れたかと思うと何かを取りだし、おっさんに向かって投げて寄越した。
「何だこれ、前金か?」
「一応、集められるだけはかき集めた」
 投げられた金に目をやると、何枚かの紙幣には血痕と思しき染みがついている。乾いているようではあったが、かなり新しい。
「額が不満なら……もう少し集めてこよう」
 一体どのような手段を用いて手に入れたのか、詮索すべきではなさそうだ。そしてこの金額で満足してやらないと、哀れな子羊がまた一匹、道端に転がるはめになるだろう。
「いや、十分だ。こんだけあれば、財布のひもを閉めてる奴に文句を言われずにすみそうだしな」
 男がこの金を手に入れた経路はさておき、事実として金額はなかなかのものであった。
 お金のやりくりをしてくれているダイナは決して小言を言ったりしないが、いつも頭を悩ませているのは知っている。彼女が来た当初は体裁を保つために従業員という扱いだったから支払われていた給料も、家族同然の生活をするようになってからいつしか支払われなくなっていた。
 それにも文句を言うことのなかったダイナに──元々お金に頓着がないとしても──申し訳ないと思わなくもない。これだけの金額が手に入ったとなれば、しばらくは苦労させずにすみそうだ。
「まず……名前でも聞こうか」
 おっさんが依頼を受けることを前向きに検討する腹積もりで名前を聞けば、男はようやくカウンターの方に近付いてきたが、視線は本に向けたままこう言った。
「I have no name(僕には名前がない)」
 これには眉を顰めずにはいられなかった。
「I am but two days old(生まれてまだ二日目だもの)」
 続けてそう口にした後、男は本を閉じて立ち止まる。そして薄い笑みと共に、ようやくおっさんんと目を合わせた。
「……冗談だ。V(ブイ)と呼んでくれ」
 偽名であることなど、いちいち確認をとるまでもない。便利屋なんて場所を頼る人間など、表立っては活動できないような“何か”がある連中ばかりだ。そうした人間が本名を名乗り出ることの方が稀有というものだ。
「V、ね。それで? 依頼ってのは何だ?」
 おっさんは尋ねながらもVという男を観察していた。
 黒い髪は毛先が巻き毛のようになっていて、長さはダイナと大して変わらないぐらいだ。それでもストレートにしている彼女と比べると、また別の印象を受ける。右分けしている関係で片目が髪で見えづらくなっているのも嫌がりそうだ。
 他に特徴的なのは青白い肌か。袖のないコートから見える腕には奇怪な文様のタトゥーが所狭しと入っている。近づいて来る時にはきちんと杖を突いていて足をかばっているような歩き方もしていたが、これは演技かもしれない。
 いずれにせよ、Vがまともな人間ではないことは明らかだ。
「強大な悪魔が復活しようとしている……力を貸してくれ、ダンテ」
 おっさんの予想通り、まともな人間ではなかったようだ。悪魔絡みの仕事を頼んでくるなど、世間から見れば十分におかしな奴だろう。つい鼻で笑ってしまった。
 ただしこれは、見事に予感が当たったことに対しての笑いではない。強大な悪魔という陳腐な表現に対して、おっさんは鼻で笑ったのだ。
「その手の話にゃウンザリだ。最強の悪魔だか最悪の暴魔だか知らないが、どいつも肩透かしばっかでな。くだらねえ肩書きを持ってる悪魔より、同居人の奴らのが何倍も恐ろしいね。そいつらが悪魔側に寝返ったって言うなら話は別だが……そんなことは万に一つもありはしねえ」
 おっさんにとって、悪魔を狩ることは使命である。たとえ報酬がなかったとしても、悪魔の存在が認められればその場に赴き、狩る。これは共に暮らすことになった並行世界のダンテたちはもちろんのこと、あのバージルですら変わらない。
 自分の本当の兄も並行世界のバージルと同じ考えであったならば、どれだけ良かったか……。最近では悪魔絡みの依頼が来るたびにそんなことを考えてしまい、たらればを考える自分に辟易としていた。
 Vの発言に嫌味のような口を利いてしまったのも、若干の八つ当たりが含まれている背景があった。
「今回は……違う」
 それでもVは真剣な面持ちで、先ほどの発言に偽りはないと主張した。
「違う? どこが? 何か根拠でもあんのか?」
「Your reason(お前の理由)」
 一拍置いて、Vは続ける。
「その悪魔は、お前が戦う理由そのものだからだ」
 瞬時に理解するには情報の少ない言葉なため、意図する事柄へとすぐには辿り着けなかった。それでもおっさんはVの口ぶりが、まるで自分のことを知っていると言いたげに感じ、改めてVを見ていた。
 この男は、悪魔ではない。
 直感ではあったものの確信に近いものがあった。一方で、男が悪魔ではないとしたら、何故そのようなことが言えるのか。
「……悪魔の名は?」
 直接的なことをおっさんが聞くのは大変に珍しいことであった。それも悪魔の名となればなおさらだ。理由は単純なもので、悪魔の名など普段から聞いた瞬間には忘れてしまうほどに関心を持っておらず、聞くだけ無駄だといつも考えているからだ。
 しかし、今回は“戦う理由”だとVに言われた。もしこれが本当なのだとすれば、おっさんは既にその悪魔の名前を知っているはずだ。それも、おっさんが覚えている程の強大な──。
 Vは薄っすらと微笑み、ゆっくりと悪魔の名を告げた。