First town

 フォルトゥナの街に仲間の様子を見に来たと思ったら、面倒ごとに直面することとなった二人。特にダイナにとってはフォルトゥナに訪れたことすら今回が初めてのことであり、右も左も分からない状態で知りもしない人物探しへと駆り出されるのだから、何とも不憫なものだ。幸運だったことと言えば、同行者が二代目だったことだろうか。流石に二代目も当時の街並みを完璧に把握していることはないだろうが、それでもダイナと同じくこの街へ来たことのない若や初代、バージルと比べれば確実に頼れる存在だ。
 だから悪魔の存在に細心の注意が払えると、街の中を歩き回るまでダイナはそのように考えていた。実際のところは現実は甘くない、というのを痛感するだけでは済まず、今までに抱いたことのない不安が胸の内に渦巻くこととなる。
 まず、例の一件で街自体が大きな損傷を受け、商業や流通などといった生活の基盤を支えていた物事の機能が落ちたのは言うまでもない。被害はそれだけに留まらず、密集している住宅街にまで及んだ。
 ここで目を向けなくてはいけないのは、密集した住宅街があること。幾ら住宅街にも大きな被害が出たとはいえ、居住区全てが消えたわけではない。そこには今も変わらずにたくさんの人が住み、日々を乗り切っている。……だから困るのだ。居住区に身を潜められると。
 ダイナは依頼をこなすとき、起こりうる事態の中で最悪のパターンを一番最初に考える。最悪と言える可能性が乗り越えられるものであるなら、他のどんな事態が起きたとしても対処が可能だからかと言われると、そういうわけでもない。例えるなら、一種の暗示のようなものであった。
 依頼をこなすのは絶対条件であり、こなすだけでは不十分だ。起きうる被害を最小限、贅沢を言うなら皆無にして依頼を全うすることこそが好ましい。好ましいが、残念ながらそういった状態で依頼をこなせたことは今までに一度あったかどうか……。だから暗示をかけ、被害は出てしまうものだと自身に認識させている。
 打撃を受ける以前は家が立ち並んでいたと思しき場所は瓦礫に埋もれていたり、雑ながらに撤去された、決して安全でもなく綺麗でもない所に最低限の雨風が凌げる、家屋と呼ぶには些か不安の残る建物が現在の街並みを作っている。統制の無くなった家の並びはどこもかしこも似たような景色を生み出し、幾つかの階段を上り下りし、幾つかの角を意識せず曲がっていると自分が今どの辺に居るのかが分からなくなるほどで、先ほど見た場所が新規であったかさえも定かではなくなるほどだった。
「二代目。……二代目?」
 少女を捜すことを念頭に置き過ぎていたためにおざなりになっていた周囲への気配りを今更になってしてみれば、居住区へ足を踏み入れた時には確かに後ろに居たはずの二代目が見当たらない。まさかと思い、先ほど曲がったばかりの角を覗くが見慣れた姿はどこにもなく、はぐれてしまったのだと理解する。
 信じられなかった。いくらお互いが悪魔への警戒を第一にしていたとはいえ、二代目が自分と同じように周囲への気配りをおざなりにしているなんて、おかしいと思った。前にこなした館での依頼は悪魔に分断されたためにはぐれてしまったが、今回は違う。
 自分に非がないと言いたいわけではない。純粋に、二代目らしくないと感じた。だが、起きてしまったことを引きずっても仕方がない。とにかく今は合流を急ぐことにした。
 迷子になった時に避けたい行動は、やみくもに探し回ること。慣れていない場所だから迷子になっているというのに、あてもなく歩き回っても徒労に終わるだけだ。出来ることと言えばその場に留まり続けるか、元来た場所へ戻るか。
 はぐれて間もないのであれば、その場に留まるのも良い手立てだろう。戻った先に目印になるようなものがあったなら、動く価値も出てくる。どこか目的地があるのならば、そこへ向かうのが最良かも知れない。取れる行動はいくつかあるが、ダイナにとっての最良は存在しなかった。何故なら、戻った先に目印は無く、はぐれて間もないのかも分からず、目的地があるわけでもなかったからだ。
 唯一、強いてあげられる目的の場所があるとすれば黒男爵の元か、少女アリスの元ということになる。戦いが始まれば、少なくとも探し回ったり待っているよりも見つけてもらえる確率は上がるだろう。危険な行為ではあるものの、どの道見つけなくてはいけないのだから価値もある。
 ただ、今回の目的地と定められる場所は、面白いところがある。
「ねえ、お姉ちゃん。一人なの?」
 ──目的地の方からやって来てくれることだ。
 ダイナに声をかけてきたのは明らかに少女の声だった。自ら捜していたというのに、今だけは聞きたくない声質に心の中で悪態をつく。
 聞こえなかったことにしてしまいたがったが無視を決め込むわけにもいかないので、刺激しないようにゆっくりと振り向けば、まず目についたのは膝下までの青いドレスだった。次に、肩より少し長い綺麗なブロンドヘアが映る。手には赤いスーツを着せてもらったおじさんの人形を握りしめている。無垢な笑顔はどこまでも透き通っていて、悪意や暗さなんてものを感じさせない。
 あまりにも屈託のない笑顔を向けてくるのだから、生きた屍なんて表現されるのにも納得がいく。矛盾しているはずの言葉をすんなりと受け入れさせるほどの存在だった。
「お姉ちゃんってば、聞いてるの? 無視するなんてひどいんだ!」
「聞いている。先の問いには、イエスと答えておく」
 アリスを捜しているのは自分一人ではないが、現在アリスと対面しているのは自分だけなので、はいと答えておくことにした。嘘をつこうが真実を言おうが、アリスはどこまでも純粋で、そうであるが故に自分の思い通りに物事が動かないと癇癪を起こす人物である以上、大した意味を持つことはない。
 何をアリスが望んだとしても、ダイナはそれを阻止するためにいるのだから。
 振り向いたのは、捜している人物で間違いないことを確認するため。名前を聞いたわけではないが、事前情報と合致している部分が多い。アリスと見て間違いないだろう。同時に、少女に刃を向けることへの迷いは一切無くなった。ケースを握っている右手に自然と力が入る。
「お姉ちゃん、一人なんだ。私も一人なんだ。一人って、寂しいよね……」
 俯いてしまった少女の顔は前髪で隠れてしまい、今何を思っているのか推し量ることが出来ない。持っている赤おじさんの人形を両手で包み込み、胸に抱き寄せている。かと思えば何事も無かったように先ほどと変わらない無邪気さでダイナの左手を掴み、付いてきてほしいと引っ張り出した。
「何をするの」
 突然手を握られたため、抗議の声を上げながら慌てて振り払うと少女は驚き、次に頬を膨れさせた。もう一度ダイナに手を伸ばすが二度目は掴むどころか指先が触れることすら許されず、少女の手は空を切るに終わった。
「ひどいよ……。アリス、トモダチが欲しいだけなのに……」
 何度も拒絶され、とうとう泣き出してしまったアリスはその場に崩れるように座り込んでしまう。叫んだり、喚いたりはしないようだが、アリスの泣き顔は知らない者が見れば同情を誘うものだった。質の良いドレスが汚れることなど意に介せず、泣きじゃくるアリスは溢れる涙を手の甲で何度もこすりあげる。
 間近で見ていたダイナの目は確かにアリスを捉えているというのに、興味も、関心も宿してはいなかった。同情することも、擁護することもなく、ケースを開くための無機質な音が二度ほど鳴った。
 中から折りたたまれていた得物が取り出される。ダイナが慣れた手つきで持ち手の部分を軽く上に振るえば手品のように鎖は消え、折りたたまれていた部分が繋がり、レヴェヨンは従来の槍へと姿を変える。
 必要以上の音をたてないように慎重に、かつ手早くケースを床へ置き、利き手である右手で槍を持ちなおした。泣いて、こちらを見ていないアリスに矛先を向け、狙いをつける。
 これだけの至近距離であれば外すことは無い。油断はせず、慢心も抱かず、見下ろしていたアリスへ突きを放つ。
 武器を通して伝わってきたのは柔らかいものへ食い込む感触でも、そこそこの強度を持ったものを砕く感触でもなく、硬いものを穿った時に感じる独特なものだった。討ち取るべき相手に傷を負わせられなかったと理解したダイナは矛先を地面から引き抜き、ケースを持って後退した。
「いじめてくるお姉ちゃんなんか大っ嫌い! アリス、怒ったんだから!」
 アリスが座り込んでいた場所には一筋のひびが出来ただけで、他には何も残っていなかった。ひびの入った地面より少し後ろに、アリスは無傷で立っていた。
 ダイナよりも遥かに小さな身体でありながら圧倒的な存在感と、少女とは思わせない迫力が今のアリスにはある。持っていた赤おじさんの人形を地面に投げ捨てると人形は地面に着く前に制止し、何かに操られるようにアリスの周りを漂い出す。人形が浮くのと同時にアリスの足が地面から離れ、髪の毛が舞い上がる。
 完全に戦闘態勢へと移行したアリスを見るや否や、ダイナは走り出す。
 目的地への道は分からないので、でたらめに曲がったりした。相手がきちんと追いかけてきてくれているか、時折後ろも確認した。怒りで我を忘れているアリスは執拗なほどにダイナを追いかけまわしてくれたので、誘導には手間取らなかった。でたらめに選んだ道だったから行き止まりだった時は壁を飛び越え、無理やり道を作った。目的地も漠然としていて、人気のない開けた場所へ出れるならどこでも良かった。
 背後から迫る魔弾を避けながらの鬼ごっこはたったの数分と、短い時間で終わりを迎える。全力で走っていたためか、常人では不可能に近い距離を駆け抜けていた。多少の息切れはあったが、お陰で目指していた場所へ出ることが出来た。
 ようやく反撃に出られるとダイナは振り向く。追いかけられてからずっと自分を狙って来ていた魔弾をレヴェヨンで弾き落とし、向かってきているであろうアリスへ突きを繰り出すための構えを取った時、己の目を疑った。
 アリスの姿は、どこにもなかった。
「ねぇ」
 背後から声をかけられ、下腹部に小さな両腕が回されているのが分かった。背中に人型のものが引っ付いているのは分かるが体温を感じられず、まるで氷を腰に下げているようであった。
 視界端に見えたアリスの顔は笑顔で、残虐だった。
「──死んでくれる?」
 全身が粟立つ。急速に体温が落ち、地に足がつけられているのかが分からない。レヴェヨンを握っている感覚が失われ、アリスを冷たいと感じなくなった。
 息が止まる。水中深くに潜っているような、何かに胸を圧迫される感覚。高所から落下して背中を打ち付け、肺の空気が出てしまった感じだった。
 視界が霞む。送られなければならない器官への酸素供給が止まったから、意識を保てなくなってきていた。呪いめいた力が働き、光を奪われていく感覚だった。
 自分は今、何をしなくてはいけないのか。どうすればこの状況を打破できるのか。考えようとしても思い浮かばず、頭の中で恐怖が膨れ上がった。全身が冷たくなっていく恐怖。息が吸えない恐怖。光が失われていく恐怖。あらゆる恐怖は心身を強張らせ、絶望を己の内へ仕舞い込ませた。
 目の前が真っ黒な墨で塗りつぶされていく。これが死ぬということであると、なんとなく分かった。
 消えていく光に、ぼんやりと銀色が混じった気がした。それもすぐに黒へと塗り替えられ、分からなくなった。そんな、全てが失われていく中、たった一つだけ入り込んできたものがあった。
 音。
 ずっと遠くから聞こえてくるようで、とても聞き取りにくいものだった。叫んでいるのか、囁いているのか分からない。怒っているのか、泣いているのか分からない。
 恐怖が、何も分からないという更なる恐怖を運び込んできた時、鮮明な銀が黒を塗り替えた。
「ダイナッ!」
 音の正体が誰かの声であると分かった。些細なことだったが、分かることがあるという事実がダイナの内に巣食った絶望に穴をあけた。声は自分の名前を何度も呼んでくれていた。応えようと口を開けば、肺に酸素が流れ込んでいくのが分かった。
 一つずつ、今まで当たり前のように出来ていたことを取り戻せていく感覚に、感動した。手に何かを握りしめていることを感じ取れた。ぎこちなく首を動かそうとして、自分の目が銀色しかはっきりと捉えられないことに気付く。抱きとめてくれている相手の体温を分けてもらい、身体に温かさが戻ってきているのだと理解しきるのに、少し時間を有した。
 名前を呼び続けてくれている声は、聞き覚えのあるものだった。視覚から認識出来るものは銀色しかなかったが、聴覚と触覚は思ったより支障をきたしていなかったので、相手を特定するための時間を短縮できた。
「に、だい……めっ……」
 喉を通ったものは声というより空気に近かった。けれでも自分が発した音に違いは無く、ようやっとアリスに抱きつかれるよりも前の自分に戻ったのだと実感できた。同時に、銀色以外のものも識別できるようになった。
 真っ先に飛び込んできたのは、普段表情を変えない二代目が心配そうに覗きこんでいる顔だった。次に視線へと入れたのは自分の右手と、手の中にしっかりと納まっているレヴェヨン。視線を動かした時にぼんやりと見えた足は宙に浮いているようだった。どうなっているのか確認するため下を見ようとした時、身体が揺れた。
 事態を把握しきれていないダイナは慌てた。よく分からなくて二代目の胸にしがみつけば、背中に回されていた二代目の腕が力強く支えてくれた。同じように膝裏からも強く支えられる力を感じて、自分の足が浮いている理由が横抱きされているからなのだとようやっと把握した。
 ダイナが生死を彷徨っている僅かの間に二代目はアリスを発見し、その手からダイナを奪還した。命を手放させないように何度も声をかけ、意識を取り戻すようにと自身の魔力を分けていたのが、ダイナが意識を浮上させるまでの出来事だった。
「おじさん……アリスのジャマをするんだ……」
 そして今、おもちゃを奪われたアリスは魔弾を飛ばすが、難なく避けられたことに怒りを覚えた。
「なら……」
 アリスは、ダイナに抱きついた時に見せた、残虐さを秘めた笑顔を再び顔に刻んだ。
 身体中に悪寒が走った。身を持って受けた謎の術。対抗策は分からず、どうすれば避けられるのか、避ける術があるのかも分からないものを再びその身で受け切れる自信は無かった。無かったが、得体のしれない術を二代目が受けることの方がもっと恐ろしかった。
 きちんと地面に立てるのか不安はあったが、とにかく二代目の胸の中から出て庇う態勢に入ろうとした。だが二代目は腕に込めた力を弱めてくれず、離してくれなかった。
「死んじゃえ!」
 吐き出された呪詛は針よりも細く、鋭く、尖っていた。洞察力がいくらあろうとも、肉眼で捉えられるようなものではない。感じ取れるのは気配に近しい何か。それは邪気をはらんでいて、害意に満ちていて、重苦を含んでいた。
 気配に近しいものを感じ取れたのはアリスとの距離が離れていたお陰だった。先ほどのダイナはアリスとの距離なんてものはなく、直に呪詛を浴びた。離れていれば威力が落ちるような代物ではないだろうが、猶予が生まれるのは呪詛を受けなくするための要因を見出すのに大きな働きをした。
 死の怨嗟が二人を包む。ダイナには成す術がなく、離してもらえないことも相まって、情けなくも二代目に身を寄せることしかできなかった。体温が失われ、呼吸が出来なくなり、光が奪われていく恐怖に身体が硬直していく。
 もうダメだと目を閉じる刹那、二代目が変容した。手のひらで感じていた布の柔らかさという感触は消え、硬質さを感じた。一度だけ、よく似た姿を見たことがあった。
 初代が魔人化した姿を思い出す。じっくりと見せてもらったわけではなかったから、細部までは覚えていない。二代目も呪詛を自身の魔力で弾き返すために引鉄を引いただけで、すぐにいつもの姿へと戻った。それでも一瞬の気配の変わりようを感じ取れないはずはなかった。
 気付くと、怨嗟は消えていた。
「辛いようなら、下がっているか?」
 会話らしい言葉をかけられ、初めて自分の置かれている状況と、成すべきことを思い出す。二代目が優しい声色が気を遣い、労わってくれているということが伝わってくるものだった。
 自分がこの場に居るのはネビロスとアリスを撃滅するため。もちろん一人で行うのではなく、二代目と共にだ。醜態を晒し、自分はもう戦えないのかと思ったとき、死の間際でもレヴェヨンを手放さなかったのは何故かという問いが脳裏をかすめた。
 考えようとしたところで、あまりにも簡単な答えしか出てこなかったからすぐにやめた。
 間違いなく、自分の中には闘志が残っている。大事なものを失っていなかったことに安堵した。これなら、二代目と肩を並べて戦いの場に立てると思った。
「ありがとう。同じ失態は、繰り返さないから」
 声は元に戻っていた。虚勢を張っているわけでもないことを察した二代目は頷き、ダイナをゆっくりと降ろした後、エボニー&アイボリーを手に収める。
「少女を相手にしなくてはならないと知った時、手元が狂うかもしれないと不安を抱いた」
 語る二代目の言葉に耳を向け、レヴェヨンを構えて腰を落とす。矛をかざした先にはアリスがいる。
 刃を向けられている当人はというと、おもちゃで遊ぶのも飽きたというような仕草をしており、事実目の前の二人に興味も関心もなくなっていた。だからアリスは極ごく自然に、背を向けて立ち去ろうとした。
「だが、心配には及ばなかった。何故なら」
 二代目は言葉を切り、息を吐く。迷いのない瞳で背を見せるアリスをうつし、躊躇いなく引き金を引いた。
「自分が、どうにかなってしまうのではないかと感じるほどの怒りを抑えきれないからだ」
 その目にはぎらついた怒りが奥深くにまで刻み込まれ、決して消えることのない激を有していた。
 撃ち出された銃弾はアリスの身体を抉ることは無かったものの、アリスの注意を再度こちらへ向けさせるには十分だった。面倒くさそうにしながらも振り返るアリスの喉元を、レヴェヨンの切っ先が貫かんと迫る。銃声を聞くと同時に距離を詰めていたダイナに気付かなかったアリスは反応できず、迫り来る刃を凝視するばかりだった。
 今度こそ貫けるかといった矢先、念のようなものが横から飛んでくることに気付く。それはダイナをアリスから遠ざけるように動いていた。好機を逃すか苦渋したが、先ほどの銃弾を弾いた目に見えない壁のことを念頭に入れると、ここでの深追いは得策ではないと思った。
 アリスから距離を取ると念はダイナを追うことを止め、次は二代目を執拗に追いかけ始めた。当たるなんて失態を犯すことはないものの、二代目が攻撃に集中しきれないためにダイナたちは決定打を失った。
「アリス! 無事でしたか?」
「あ、黒おじさん! あのね、あの人たち、アリスをいじめるの!」
 ネビロスがアリスと合流した。アリスの話を聞いたネビロスはもう大丈夫だと笑いかけ、今もなお念を操りながら二人に言葉を投げかけた。
「アリスを傷つけるものは絶対に許しません。貴方たちも屍となり、アリスのおもちゃになりなさい」
 ネビロスもまた、自身の愛する者を傷つけられそうになった怒りを持っていた。一切の容赦はなく、また確実な勝利を掴むために危険度の高い二代目へ、攻撃の手を緩めなかった。
 二代目が思うように動けないならとダイナがアリスとの距離を詰めようとすると、これもネビロスは近づかせまいと魔弾をアリスと一緒に撃ちだしてくる。とてもじゃないが、一人では突破しきれない。何か手立てはないかと攻撃を打ち払いながら考えを巡らせる。
 アリスの呪詛は二代目に効かなかった。そのことを理解しているからなのか、はたまた息切れを起こしたのか、呪詛を使ってこなくなった。ネビロスは先ほど到着したばかりで余力を残しているため、他にどんな隠し玉を持っているのかは分からない。だが、二代目であれば……。
 万全な状態を作り上げることが出来ればアリスの纏っている壁などもろともせず、ネビロスの攻撃に反応できないわけもない。だから、今二代目を追い回している念の塊をどうにかすることが出来れば、勝機を見出せるとダイナは考えた。
 二代目が念から逃げ回っている理由は分かっている。明らかに他の攻撃たちとは違って一つしかなく、あれがネロを苦しめた能力であると目途が立っていた。だから必要以上に、慎重に行動しているのだとも。
「二代目、こっちに」
 守りを固めて動かない敵陣への攻めを止め、ダイナはネビロスの念を避けながら巧みに二丁拳銃を扱っている二代目を呼ぶ。この状況を打開する妙案が浮かんだのだろうと踏んだ二代目は呼ばれたとおり、ダイナの元へ駆け寄る。
「どうにか出来そうか」
「チャンスは一度。タイミングも一瞬。だけど、二代目なら出来ると信じてる」
 何をするのかは一切語らず、とにかくシビアであることだけを淡々と伝えてきた。ダイナの考えている案に乗りかかれば、間違いなく叱らなくてはならないことをしでかす気なのだと直感する。
「覚悟のうえ、なんだな」
「念を押されると、意志が揺らぎそうになる」
 悪いことをする自覚はあるようで、今からすることよりも後にされるであろう二代目からのお叱りの方が怖いと思うのだから、重症だ。何度止めろと言っても聞かない頑固さにはほとほと困ったものだが、現状ではダイナに甘える他ない。全ての危険を取り除ける実力があるなどと自惚れたことはないにしろ、仲間に危険なことを託すしかないのは、自分も未熟であると思い知らされる。とはいえ、事が事だけに喜んでばかりもいられないが、頼りにされるのはまんざらでもなかった。
「期待に応えるとしよう」
 話をしている最中も敵の攻撃が止んでいるわけではない。意見を固めた後は素早く位置を変え、念や魔弾を避ける。二代目がリベリオンに武器を変えたことを確認したダイナは空いている左手でブランをホルスターから引き抜き、真正面から突っ込む。
「愚かな」
 嘲り笑うネビロスは魔弾だけでなく、念も自身の傍へと戻してダイナを追撃する態勢を取る。自分が使っている術の正体を見破られていることを逆手に取った戦法。相手は念を避けようとすると読んでの対策だった。
 相手が痛みというものに恐怖する生物であったなら、間違っていない判断だったと思う。いや、恐怖を抱かないような狂った奴だったとしても、痛覚を持っている相手なのだから戦術として成り立っている。痛みは必ず動作を鈍らせる。動きが鈍れば隙が出来る。勝利への一歩を踏み出せる戦法であった。
 避けようが避けまいが結果は変わらない。ダイナがやみくもに突進してきたことで勝機を見出したネビロスは笑いが止まらなかった。
 悪あがきのようにブランから撃ち出される銃弾を、アリスはつまらないものを見るようにはじく。レヴェヨンの持ち手がいくつのも関節を作り、鎖のようになって再びアリスを狙うが届かない。
 身を守るため、アリスは魔弾を作れなかった。代わりにネビロスが攻撃してきた直後の隙を狙って魔弾を撃ちこむ。それはダイナの身を抉る事なく、二代目のリベリオンによって掃われた。もちろん、二代目が前線に出てきた好機をネビロスは見落とさない。即座に念を操り、二代目に差し向ける。奴の動きが鈍れば勝利は確実なものになると確信があったからだ。
「ありがとう」
 魔弾をはらったために避ける動作に移りきれない二代目に、ダイナはあろうことか感謝の言葉を口にした。ネビロスは自分が悪魔でありながら、この女は狂っていると思った。明らかに不利な状況に陥ろうとしているというのに、あろうことか助けてもらったことへの感謝をこの状況下で伝えるなど、まともな思考を持った者がする行為ではない。
「思い通りに動いてくれて」
 付け足された言葉の意味を理解させるのに十分な出来事が目の前で起きた。
 ダイナが二代目を庇い、念を受けたのだ。激痛に足をもつれさせたが膝は折らず、あろうことか痛みに耐えて地に足をつけている。これを見て、先ほどのダイナの感謝が二代目だけでなく、自身にも向けられたものだったのだと思い知らされた。
 二代目は自分の意志で動いていた。その動きはダイナが望んだとおりのものであった。だから心からの感謝を贈った。
 一方でネビロスもまた、思い通りに動かされていた。二代目が前線に出てくれば必ず念を差し向けると読んだ上で、ダイナはそれを自分で受ける覚悟までをも決めていたのだ。だから計画通りに事を運べたのはお前のお陰でもあると、皮肉を込めての感謝だった。
 ネビロスはもう一度、この女は狂っていると思った。
 一体どんな生活をしていれば自ら望んで敵の攻撃に突っ込もうという発想に至るのか、全くもって理解出来なかった。
「チェックメイトだ」
 ダイナが念を受けた時、攻撃の間隔が空いた。二代目とネビロス、そしてアリスとの距離は一メートルもない。リベリオンはアリスの右肩から左腰を大きく抉った。
「あ、あ……」
「アリスッ!」
 斬られた勢いのまま、アリスは背中から地面に崩れ落ちていく。次にはネビロスの腹部へ一文字を入れ、アリスの後を追わせた。
 リベリオンについた二匹分の悪魔の血を振り落とす。たった一振りだというのに一滴も残っておらず、再び鋭さを宿した。
 ネビロスが力を失ったことを教えるように、ダイナの身体から痛みが抜けた。体に異変が残っていないか調べ、ブランをホルスターにしまい、レヴェヨンを背負った。戦いは終わったと一息つくと、誰かがやってきた。
「一足遅かったか」
 おっさんだった。ネロもいた。二つの大きな気配を感じ、孤児院の方は大丈夫だろうと踏んでこちらへと援護に来てくれたようだが、結果としては一歩間に合わない形になってしまった。
「頼まれごとは終わったぞ」
 赤紫がかったドレスを来た少女と黒男爵が地面に横たわっているのを見て、おっさんは小さく頷いた。ネロは黒男爵に一発入れたいと考えていたので、少し不服そうだった。死体の確認をするのは柄ではなかったが、黒男爵が捜していたアリスというのがどんな人物だったのか気になって、ネロはゆっくりと近づいた。二代目は自分で斬り確実に息の根を止めたことも確認していたが、相手は生きた屍と呼ばれた少女だ。何が起きても対応できるようにとネロの後に続いた。
「怪我はないか?」
 ネロのことは二代目に任せ、おっさんはダイナに声をかける。見た感じ傷は見受けられないが、ダイナの能力を知っていれば見かけなど何の判断材料にもならないことは分かっている。
 では、聞いたら本当のことを話すのかと言えば、言わないのも目に見えた結果だ。どうせ嘘はつかれるだろうが、普段から人を欺くことをしていないから、嘘をつくのが下手だということも知っている。僅かな動揺や言葉詰まりこそが怪我をしましたという言質になるから、結局ダイナはお仕置きを受ける羽目になるのだろう。
「傷は無い。ネビロスの苦痛を与える能力を受けたけど、問題も無かった。後は……何も」
 ダイナは生死を彷徨ったことを言えなかった。心配をかけたくないのもあったが、思い出すことが何より怖かった。言葉にしてしまえば、忘れられなくなると思った。
 ダイナの身体をざっと見て、珍しく嘘をついていないと分かったおっさんは、言い淀まれた内容を気にする素振りを見せた。すると、視線をそらされた。それと、震えていることにも気づいた。詳しいことは二代目から聞けばいいと切り替え、二代目に聞けないことを探ることにした。
「何か気になることはなかったか? 戦った敵のことでも、街を捜索していた時のことでも」
 問われる内容が変わって、ダイナは肩の力を抜いた。聞かれたことを頭の中で反復し、答えようとして、つまった。
 戦いのことや敵について気にかけることへはすぐに理解を示せたが、街のことまで気にかけるのはどうしてかと不思議に思ったからだ。
 ダイナがなかなか口を開かないので探っていることがバレたのかと、おっさんの内心は揺れていた。言葉を足すべきか、このままダイナが口を開くまで待つか思案する。こういった時、表情を変えない者の相手をするのは心臓に悪い。らしくないことをするのは性に合わないと心底痛感した。
 おっさんの視線は自分でも気づかない内にネロの方へ向いていた。二代目と軽く話しながら、少女と黒男爵を注意深く観察しているようだ。この時、偶然ではあったがネロを視界に入れる行為はダイナの疑問を解くのに一役買った。
 ネロを見る視線に気づいたダイナは、おっさんはネロのことを案じているから、ネロの生まれた故郷であるフォルトゥナの街を気にかけているのだと解釈した。もちろん、素直に言うような人でないことも知っているから、わざわざ確認は取らなかった。
 そういうことなら力になりたいと、街の様子を思い返す。どこもまだ綺麗とは言えない様相に違いは無かったが、生きる気力すら失っている人は見かけなかった。気力を失った時点でこの世を去ってしまっている可能性については、考えなかったことにした。
「そういえば」
 街の様子を思い返していた時、二代目とはぐれた時に感じたことを何気なしに語った。
 自分の不注意もあったから思い過ごしかもしれないが、二代目が周りへの気配りをおそろかにするのは不自然だったように思ったこと。合流を果たせたのも敵との戦いが始まり、気配を追ってきたように感じたこと。
 ダイナ自身の中では二代目だってミスをすることぐらいあるとして、片付けていた。本人も言っていたように、慢心や驕りを抱いたことがないわけではないと、確かに聞いたこともあったからだ。
 はぐれた時のことを聞いて、まさかそんなことがとおっさんも思った。ダイナの行き着いた答えには一応の理解を持ったが、不自然さをぬぐいきれない。同時に、時々二代目に感じていた不自然さと合致した。これこそが自分と二代目を分ける、決定的な差だと確信する。
 ネロを見て、二代目を見る。いつもと変わらなく見えた。あれが、二人で朝食を作っている時の距離感。
「まさか……」
 声が漏れた。違和感の正体を掴んだ気がした。不思議がるダイナに、返す言葉は何も出てこなかった。
 知らない方が今までと変わらずに二代目と話せた。適当な酒を飲んで、若い奴らの元気さにはほとほと困ると愚痴をこぼせた。
 ずっと知りたいとは思っていた。自分との違いを掴んだら話のネタにして、二代目の完璧さを崩せるなんて楽観視していた。
 それが、こんな──。
 行き着いた答えがこれでは、あまりにも惨い。
「二代目」
 呼びかけた声がうわずった。違ってくれと願って、考えすぎだと言ってもらえると思って二代目を呼んだ。行きついた答えにひどく狼狽えていることに、おっさんは自分でも驚いた。
 二代目がネロから視線を外し、おっさんを見る。いつも通りだ。何も変わらない。そのことが更なる異常さを引き立てた。
 何故、平然としていられる? どうして何も思わない?
 こちらの世界に来た時、一番最初に抱いた疑問のはずだ。なのに、何事も無かったかのように。自分と同じになるように“ネロを知っているダンテを演じてきた”というのか?
 意を決して口を開きかけた時、突風が吹いた。間の悪い風に苛立ちながら、風が吹き抜けていく方へ目を向けると、前に何度か見たことのある亜空間が広がっていた。
 一度目は鏡の中にあり、皆で世界樹の頂きを目指すことになった。二度目はダイナと二人でとある大陸の滅びゆく定めを打ち破った。今回もきっと同じように、どこか知らない世界に繋がっている亜空間。
 強まっていく風はおっさんたちを亜空間へと誘うようで、体が引き込まれ始める。これに吸い込まれないようにとそれぞれが腰を落としたり、武器を地面に刺して抗う。
「奥の手というものは、最期まで取っておくものだ」
 不気味な声が響く。声の主は死んでいた黒男爵のものだった。息を吹き返したのかと、二代目が突風の中黒男爵にリベリオンを向け、手を止めた。
 死んでいる。蘇ってなどいない。
「……! 自分に呪いをかけたのか」
 常軌を逸した光景を二代目はすぐさま分析し、解明した。ネビロスは死ぬ間際、自分自身に死体を操る術を施していたのだ。降霊術を得意とするネビロスだからこそ成し得た技。しかし、今動いているのは残留思念のようなもので、時期に動かなくなると分かるものでもあった。
「身体が……っ!」
 ネロが呻いた。一人だけ確実に、亜空間へと近づいていく。
「少しの辛抱だ!」
 二代目が手を伸ばす。ネロも必死に掴もうとするが、全身が痛くて腕が上がらない。
 覚えのある痛みに顔を歪める。これはネビロスの、望んだ相手に苦痛を与える能力だ。ネビロスの奥の手とは自分を操ることではなく、苦痛を与え、ネロだけでも異界へ飛ばすことだった。
 踏ん張っていたが、とうとうこらえきれなくなったネロの身体が宙に浮く。吸い込まれると覚悟を決めた時、胴体に何かが巻き付く感じがした。
「ネロッ!」
 ダイナが叫ぶ。レヴェヨンでネロを引き寄せようとしていた。しかし、体重の差でダイナの方が引きずられていく。
「無理すんなっ……!」
 自分にはどうしようもなくて、ただダイナの身を案じることしか出来ないのが情けない。二代目やおっさんもネロやダイナに手を伸ばしているが、少しでも気を抜けば自身も吸い込まれてしまうため、下手に動けなかった。
 おっさんの近くで鈍い音が聞こえた。一際目立つ瓦礫がダイナの後頭部に当たった音だった。レヴェヨンを手放し、一切の抵抗をしなくなったダイナの身体は簡単に宙へ浮き、亜空間へと吸い込まれて消えてしまう。時を同じくしてネロの胴体に巻き付いていた鎖も緩み、レヴェヨンと一緒に亜空間の中へと姿を消した。
 二人が吸い込まれる瞬間、おっさんと二代目も亜空間に飛び込んでいた。しかし、後一歩が届かなかった。二人を吸い込み終わった亜空間は何物も受け付けないと口を閉ざし、そこには何も無かったように静寂が訪れる。
 何もしてやれなかったと呆けるおっさんには目もくれず、二代目は黒男爵に警戒の色を浮かべ、見据える。人の形をしていたものが徐々に崩れ、灰へと還っていく。少女も然りだ。
「してやられたな」
 声をかけられ、おっさんも慌てて状況を把握する。強力な悪魔は討ち取れたものの、ネロとダイナを異界に連れ去られてしまった。今までの経験でいけば、どこの世界に行ったかは予想をつけられない。ただ、二人が向かった世界の問題を解決できればきっと帰って来れるはずだ。心配はあるが、無事を祈って待つしかない。
 二人のことは気がかりだが、今は……。
「二代目」
 亜空間が出来上がる前と同じように呼ぶ。声はうわずらなかった。相手は何も言わず、言葉の続きを待っていた。
「この街は……“初めて”来た、フォルトゥナの街はどうだった」
 二代目が動揺した。瞳孔を開き、絶句していた。そんな二代目の様子を見て、落胆した。行き着いた答えが正しいものであったと言われたことに他ならなかった。
「隠すつもりは……」
 二代目が口ごもり、止めた。痛いほどの沈黙が二人を包み込む。目を合わせようとしない二代目を、穴が開くほど見続けた。とうとう耐えきれなくなった二代目が一言、すまないと謝った。
「謝罪の言葉が聞きたいんじゃない。何故、ネロを知らないのに、さも知っているように振る舞ってきたんだって聞いてるんだ!」
 激情して、二代目の胸倉を掴みあげていた。抵抗も、言い訳もされなかった。それが更に現実を突きつけられたようで苦しかった。
「二代目は、俺の未来の姿じゃないんだろ」
 自分が二代目のようになれないことはどうでも良かった。ネロを騙し続けていたことが許せなくて、そのことを否定してくれない二代目が腹立たしくて堪らなかった。
 誰にだって言いたくないことや隠しておきたいことがあるのは分かる。それでも限度がある。辛い過去を言わないのとはわけが違う。
 二代目がしていたことは、ネロへの裏切りだ。ネロは二代目を、自分の知っているダンテの未来の姿だと信じて接していた。疑っている部分もあったようだが、態度や口には出していなかった。相手は自分のことを知っているのに、自分は二代目のことを全然知らないと気にもかけていた。それらを全部、二代目は利用していたんだと思うと殴りたくなった。
「お前のようになりたかった」
 初めて、二代目が自分の思いを口にした。最年長であるが故に皆を見守り、決して自分のことを語らない二代目の心が零れた。
「俺がこの世界に来て、ネロと出会った時。自分がお前と同一人物ではなく、並行世界の住人であるのだと理解した」
 元居た世界でフォルトゥナという街には一度も行ったことがない二代目は、当然ネロとも出会ったことがない。バージルの息子が……自分に甥がいるなどとは考えたことも無かったと同時に、自分に足りなかったものが何なのかを理解した二代目は、おっさんを羨ましく思った。
 元の世界でネロと出会えていれば、あのような人生を送らなかったのではないか、と。
「二代目の、人生」
「語るほどのものではない。……とにかく、今までのことも含めて、どんな処罰も受ける覚悟はある」
 話し終えた時にはいつも通りの二代目が居た。この切り替えの早さも、達観した態度も、元居た世界で求めて身につけたものではなく、身につけざるを得なかったものなのかと思うと、怒りに任せて殴り掛かろうとしていた自分がちっぽけに見えた。
 胸倉から手を放して服を正してやれば、困った顔を向けられた。処罰を受けると言っていたから、下手に優しくされると調子が狂うのかもしれない。
「怒って悪かったな。……どうも、坊やのことになると俺は大人げなくなっちまうようだ」
「かけがえのない存在なのだから当然だ。それで、どうしたらいい。事務所から立ち去った方がいいか?」
 どうせそんなことを考えているのだろうと思っていたおっさんは予感が的中したと鼻で笑った後、かぶりを振った。
「あの事務所は確かに俺のものだ。だが今は、家族のものでもあるんでね。俺の一存じゃ決められない」
「……他の奴らにも、このことを話せと?」
「それは二代目の自由だ。好きにしてくれ。俺は暴いたから知るきっかけを得て、たまたまドンピシャだったってだけだ。ただ……」
 ネロにだけは、きちんと打ち明けてほしい。視線を合わせれば分かってくれたようで、頷いてくれた。
「坊やに出て行けって言われたらどうするよ」
 今の二代目にとっては意地の悪い質問だっただろう。それでも、これぐらいは許されると思った。こんな時ぐらいしか、内に秘めているものを出してくれないから。
「どう、しようか。一番あり得る線だからな、考えておかないといけない」
 言われたとおりに行動したくないと顔に書いてあった。自分では平気そうな顔をして口にしたくせに、実際に誰かから拒絶されることを恐れているのが伝わってくる。
 恐れを抱くということは、それだけみんなとの生活を大切だと感じてくれているからだ。普段の言葉さえも偽りだったらどうしようかとも思ったが、杞憂に終わって胸を撫で下ろした。
「一緒に考えてやるから、心配すんなって。もう少しだけ、この街で坊やとダイナの帰りを待たないといけなくなったんでね」
 ぎこちないながらも笑ってみせれば、少しだけではあったが二代目の暗い顔が晴れた気がした。ひどく年老いて見えたが、ようやく重りを外すことが出来たような表情だった。
「俺が一番、幼いことをしていたようだ」
 自虐的なことを言う姿は確かに幼いようにも見えたが今まで生活を共にしてきて、たった一つの隠し事が露見しただけで二代目の評価が落ちるなんてことは少なくともおっさんの中ではあり得なかった。二代目が築き上げてきたものは、偉大なものばかりだったから。
「二代目が幼いんだとしたら、俺たちは赤ん坊に戻っちまうことになる。ご勘弁願いたいな」
「……そうか。なら、今のは無かったことにしよう」
 陽は沈み切り、夜空には星が見え始めても良い時間帯だったが厚い雲に覆われ、星の光が地上に届くことはなかった。分厚い雲の上から鈍い光を差し込ませる月もおぼろげで、満月なのか三日月なのか定かではない。
 空の光を飲み込んでしまっている雲たちではあったが、何とか雨を降らせないようにと堪えてくれていた。