第9話

異界の主となってしまってから早四日。
一応の生活基盤が出来上がっているだけ、一から異界経営を始めている人たちより随分と恵まれていると言えるでしょう。……異界自体の規模と異常さに目を向けなければ。

「ダイナ様。今宵は月が昇っております」

「月齢は悪魔の凶暴性、また悪魔合体の事故率に大きく関わる重要事項。また、体内時計の修正にも一役買ってくれている。ありがたいことです」

階層としては地下一階に当たる部分に生活空間を設けたが、ほとんど地表と言って差し支えない高さにあってくれたおかげで、こうして月を眺めることが出来ている。
それにしても、マリアとこうしてゆっくり話すのが久しぶりに感じてしまうのは、やはり私に余裕がなかったからだろうか。妖精郷から受けた依頼をこなしてからというもの、しなくてはならないことに追われた数日だった。

「ダイナ様」

「ん……、何?」

「私の元主でありダイナ様の母君であるエイル様と、同じくダイナ様の父君である黒咲隼様の想いを大切にしていらっしゃることは存じております」

「突然どうしたの」

「誰かの想いを受け継ぐというのは、大変素敵なことにございます。しかし、ダイナ様自身が己で答えを導き出し、ご自身の意思と呼べるものを持っていなくては意味を成しません」

「……ええ、マリアの言うとおり。己の確固たる意志で受け継がなくては、それはただの被り物ですから」

父と母を失った当時の私はまだ幼子と呼ばれる年齢だった。
野良悪魔の暴走事件鎮圧のため、両親と共に戦い、そしてどうにか生きて帰ってきた仲間たちから聞かされた両親の訃報に衝撃を受けたことは今もなお、鮮明に覚えている。
あの時はただ、ただその現実が苦しくて、考えなくてよくなるようにと己を追い込み、無心で鍛錬に励んでいた。
順当に力をつけ、十二歳になる頃には両親と同じ聖堂騎士となったが、今までと変わらないどころかさらに己への訓練を厳しくしていった。
こうして出来上がったのが若干十五歳にして聖堂騎士隊長を務める、歴代最年少の裁きの鉄槌者。罪を犯した者に対して冷酷無慈悲な裁きを下す女傑と呼ばれるようになった。
もちろん、こんな私を評価しない者は多くいた。
過激なまでの制裁に関しては賛否両論でどこまでも平行線だったと聞くが、同い年の子と比べても明らかなまでの精神の幼さについては誰もが不安を覚え、危険であると口を揃えていたらしい。
そして今の私が当時の自分を見れば、周りの者たちが言っていたことと全く同じことを口にするであろうぐらいには……ええ、ひどかった。
そんな私がこうして今、自分というものを持ち、両親が大切にしていた想いを同じように心の底から大切に出来るようにまでなったのはマリアとゲイリーさん、そしてある女性のおかげだ。
本来、悪魔召喚師と契約を結んでいる悪魔は、契約者が死んだ時点で自由となる。つまり、この地上を好きに歩き回れるようになるということだ。
ただし、契約が切れたということは存在を維持するために供給されていたマグネタイトもなくなるということ。そのため、悪魔は人を狩ってマグネタイトを集めるようになる。中には召喚師を思ってそのまま元の世界へ還るために霧散していく悪魔もいるにはいるが、稀だと言って差し支えない。
マリアだってその例に漏れるはずはなく、母が死んだ時点で契約は破棄されていた。
だというのに、母が亡くなった時、マリアはあろうことか母の形見である多節槍レヴェヨンとCOMP、さらには亡骸までをもメシア教内に持ち帰ってくれた。
ただ、すぐに私の元へと帰ってくることは聖堂騎士の仲間たちに引き留められたらしい。
理由としては二つ。
一つは、母の亡骸の状態はとても人に見せられるような状態ではなかったそうだ。間違いなくトラウマになるだろうと配慮され、手渡されたのは火葬後の遺骨であった。
もう一つは、私がマリアに襲い掛からないと言い切れなかったことにあると、後にかつて両親と共に戦った聖堂騎士の仲間から聞かされた。
まだ幼かったとはいえ、両親に倣って聖堂騎士の実地訓練などに参加して鍛錬を始めていた私が、母を守れずに戻って帰ってきた悪魔に──たとえ種族として天使であったとしても──攻撃しないとも限らない。
周りにいるのは大人が多かった。子どもの私がマリアに手を出す心理を理解できる人は多い環境であっただろう。しかし、神の愛と救済を奉ずるメシア教団という立場上、神の使いとされる天使に、私念で斬りかかる行為を許容は出来ない。そうなったら追い出されるのはマリアではなく、私の方だ。
こういった理由があり、マリアはメシア教に帰還した後はメシア教の当時司祭の地位についていた現アデプト、ゲイリーさんと契約を結び、多大な被害を受けた人への施しやメシア教団内への者たちに力を貸していたと聞いている。

「同じ敷地内にいながら一度として顔を合わせることもなく。そして約十年振りもお会い出来た時には両親の意志を継いでいるというよりはただ力をつけただけの子どもで、控えめに言って、荒んでおりました」

「契約が交わされていない悪魔は全て屠る。無論、人であっても悪に手を染めた者には一切の容赦はしない。言葉にするだけでしたら痛快かもしれませんが、それを文字どおりに実行していたのです。ドン引きされたって、何も言い返せませんよ」

「時には必要な判断でしょう。しかし常日頃からそれでは、いずれ人は離れ、誰もついて来なくなる」

「まったくです。事実、隊長となった私はもう孤立していました。周りの者たちも部下という立場があるから無理くりついてきていたに過ぎません」

この状況を良しとしなかったというより、ゲイリーさんは見かねたのでしょう。
本人の口からも、真っ当に育っていればマリアに会わせるつもりは無かったとはっきり聞かされましたし、それがゲイリーさんなりの優しさであることは理解しています。
……両親の死に、縛られてほしくなかったのでしょう。だから母の形見は自室に丁寧に保管して下さっていたし、マリアという存在も極力、というか、完璧に私の前で見せることはなかった。
結果としてそれはうまくいかず、私はいつまでも子供のような思想のまま、力だけをつけてしまった。
十五歳なんてまだまだ子どもだと言ってしまえばそれまでですが、相応の権力を与えられている立場に立っている以上は人格者であることを求められるのも当然のことですから。

「随分と時が経った後での再会は、私としても戸惑いました。それでもダイナ様の中にはまだ人を想う気持ちがあると感じたのです。ですから私は少しだけ、事件が起きた日の御二方の行動を話しました」

「罪なき者に救済を。生まれてきてくれた命に感謝を。自分の命が尽きる瞬間まで、救われるべき人々の盾となり矛となった、でしたね。……残された私としては寂しさを覚えますが」

「命を投げ出すことは尊き行為ではありません。ですが、己の信念を曲げて生きて行くこともまた、生きているとは言いづらい。……エイル様は、信念を貫くことを選んだのです」

「分かっています。母が己の命を守ることを選んでいたら、今も生きているかもしれません。でも、守られるべきたくさんの命が失われていたでしょう。そうしたらきっと、母は生涯苦悩し続けていた」

「どこまでも他者の為に心をすり減らす方でしたから、恐らくは。……そういった意味で、ゲイリー様は私をダイナ様に会わせたくなかったのでしょう」

ゲイリーさんが……?
──ああ、そういう意味だったのか。

「ゲイリーさんの懸念どおり、見事に両親の想いを受け継ぎましたからね。……そっか、私が同じ運命を辿ることを嫌ったのか」

「当然でしょう。親友でありライバルでもあった隼様と、その妻であったエイル様を失われ、傷心を負ったのはゲイリー様も同じだったはず。その一人娘であるダイナ様を大切になさるのもまた、自然な流れであったかと」

「……あんなことがあってゲイリーさんとは袂を分かち、流れるままにメシア教を抜けたとはいえ、マリアが持ち帰ってかなりの月日が経っているはずのレヴェヨンが新品同様の状態で残っていて、それを餞別に下さるぐらいには想われていたのだと感じます」

「あれには私も驚きました。形見の扱いに関しては全てお任せしていましたから」

マリアが持ち帰ってくれたとはいえ、元は聖堂騎士の物だから彼女の一存でどうこう出来るものではない。だから身分の高い者たちがその処遇を決めるのは自然な流れだ。
だからゲイリーさんはわざわざ自分で引き取って、毎日手入れしてくれていたのだろう。

「話を戻しますが、当時の私をみて、何故マリアは私の中にある人を想う気持ちというものがまだ残っていると感じたのです? 私の荒れようはマリアも認めている事実だったのでしょう?」

「簡単なことです。弱き者の為に戦っているのに、一向に世界が良い方へと向かわないことへの苛立ちからダイナ様は荒れておられました。それは何よりも他者を想っているが故の苛立ち。即ち、他者を想う気持ちが強すぎるが為です」

「改めて言われるとむず痒いですね」

「事実ですから。この頃にゲイリーさんの推薦で極秘施設へ異動。事実上の隊長降板ですね。……彼女のことだけは残念でなりませんが、ダイナ様にとっては最も大切な経験でもあったと私は考えております」

「そう、ですね。彼女との出会いなしに、今の私はあり得ません。それはマリアとの契約についても同じです。私が異動することを条件にゲイリーさんからマリアとの契約を譲って頂いたわけですし」

「私自身、エイル様と交わした約束でもありますから。ダイナ様が私と契約を結べる程度に強くなったら契約してあげてほしいと」

「言っていましたね。母との最期の約束だと。……湿っぽい話をしてしまいました。とにかく、マリアから見れば私はまだまだ未熟でしょうけど、私自身がこうでありたいと思って行動しているのは紛れもなく私の意志です。だからそう心配しないで」

そのきっかけをくれたのはマリアだ。
野良悪魔の暴動事件が起きたあの日。母は自分の命が尽きるその最期まで事件に巻き込まれてしまった一般人たちを保護していたと、ただその一言だけを語ってくれたマリアの言葉に私はどれだけ救われただろうか。
現実を受け止められなかった私を憐れむわけでもなく、突き放すわけでもなく、ただ見守り、そしてマリア自身が見たものを伝えてくれ、そして私の元へときてくれた。
それからしばらくして、私がマリアから与えられたものの偉大さを知り、恩返ししたいと考えるようにもなった。ただそれは、少なくとも言葉で返せる程度ではないから、今もこうして努力を重ね、出来る限りマリアの傍にいるに相応しく在れるよう頑張ってはいるけど。

「そうですか。そうであるのなら、何も言うことはありません。……ダイナ様は本当に、立派になられました」

「私はまだ……。母はおろか、父になんて遠く及ばない」

「確かに。隼様と比べてしまうと今一歩でしょうが、十分にエイル様とは肩を並べられています。ダイナ様はそれほどに力をつけられたのですよ」

…………。
きっと、マリアは本心からそう言っているのだろう。幼い日の思い出しかない私の中の両親は、どうしても美化されたものでしかない。私個人としてそれを悪いとは思っていないけど、母に仕えていた身であるマリアの視点はまた別のものなんだと感じる。だからきっと、マリアの言い分の方が正しいのだとも、分かっている。
ただ、何故こんな話を……?

「ダイナ様。私はいずれ、貴女の成長に追いつけなくなります。悪魔とは基本的に完成度の高い存在故、人間ほどの豊かな可変性を有しません」

「今後の異界踏破が苦しくなったら、合体に使えとでも? 確かにこの異界はいつの日か、妖精郷に返す義務がある。だけど、それをするためにマリアを合体に使うようなことは……」

「それではいけないのです、我が主。悪魔召喚師としての道を進むならば、それではいけないのですよ」

マリアの言わんとすることが分からないわけじゃない。しかし、急にそう言われてもすぐに呑み込めないし、私とマリア二人で乗り越えられないほどの異界では……。
いや、この業界にいる以上、いつの日かマリアのことも悪魔合体させ、さらに上の悪魔へと変えていかなくてはならないというのは、頭では分かっている。分かってはいるが……。
元は母に仕え、今ではアデプトにまで上りつめたゲイリーさんとも一時的に契約を交わしていたマリアを手放すなど、私には。

「心配には及びません。私はしょせん分霊の身。他の悪魔との融合儀式に供されようと、恐怖や嫌悪はありません。“その時”が来たらどうか、躊躇わぬよう。それが私の、最後のご奉仕でしょうから」

残ってほしいと思うのは私のわがままだ。そしてそれを実現できる権限を私は持っている。だが、それをしてしまえばたくさんのものを失う日が、いつかやってくるのだろう。
何より、マリアはそんなことをする私を望んてはいない。

「……マリアの、言うとおりです。今言えるのは、どうかその時までよろしく、としか」

「そのお言葉だけで十分です。ダイナ様は十分過ぎるほど、幼き頃からたゆまぬ努力を続けてきております。ですから、たまには肩の荷を下ろすのも良いことですよ」

いつもこうして気遣ってくれて……本当に、感謝している。
だから“その時”が来るまでは、どうか私の傍で、ともに歩んでほしい……。