世界で唯一の図書館アーヴェンヘイムでは毎年一度、司書試験が行われる。これに合格した者だけが図書館で働くことの許される司書になれる、まさに人々が憧れる試験だ。
しかし、この試験に受かろうと思うなら並大抵の努力では成しえられないことを覚悟しなくてはならない。
試験難度は世界で開かれている様々なものの中でトップであり、毎年の合格者数がゼロであることは何も珍しいことではない。
難しくなっている要因はいくつかあるが、もっともな原因は純粋な能力が大量に求められることにある。
物事を効率よく処理する計算力。文字を読み、正しく判断する読解力。仕事を円滑に進めるためのコミュニケーション能力。最低でもこの三つが高い水準にないと、試験を受けることすら許されない超難関試験。そして試験を受けられたとしても、この後に待っている更なる難題に人々は躓き、司書試験で不合格を言い渡されるのが常である。
それでも、司書試験を受けたことがあるという事実は世間では大きな評価に値する。だから一度受けて落ちた者でも、他の企業などからすれば喉から手が出るほど欲しい逸材だ。それぐらいに司書試験とは難しいものなのである。
もう一つ、大きく試験を難しくしている要因は世界に学校がないことが挙げられる。
世界で話される言語は一つしかないため、人々の間で会話は成り立っている。しかし、話すことが出来るものは多くいても、文字を読み書き出来る者は話せる者に比べて圧倒的に少なくなる。
理由は単純で、話すことは両親や兄弟、あるいは近所の人たちの言葉を聞いて自然と覚えていくからだ。しかし、読み書きは自分で実際に本を読んだり、文字を書かなければ覚えられない。
だが現実として、それらを満たしてくれる本は全てアーヴェンヘイムによって保護、管理される。そのため、これらの知識と知恵を得ることが出来るのは山の手に住み、自分から学びたいという意欲を持ったお金持ちだけであるのが大きな要因だと言えるだろう。
そんな大難関試験に今年、久方振りの合格者が出た。
新米司書の名はアンジュ。
今年の司書試験を受けた者の中でたった一人の合格者。二十歳という若さでこの試験に合格したアンジュは今まさに、司書としての第一歩を踏み出そうとしていた。
「ああ、緊張するなあ……」
アンジュが足踏みしている場所は図書館前。
図書館には司書試験に合格するため、毎日のように足を運んで来た。
小さい頃に両親に連れられ、初めて図書館に来て目の当たりにした膨大な本に圧倒された。どんな本を手に取ればいいのか分からないまま、ただ近くにあった本を手に取って開いてみると見たことのない文字がたくさん並んでいて、読めなかった。
そんな時、たまたま通りかかった司書が、この本に書かれている文字は全て私たちが話している言葉と同じことが書かれているんだよと教えてもらった時、とても興味が沸いた。
お母さんが、お父さんが、自分が、そして司書が話している言葉が、この本に書かれている。
以来、毎日のように図書館に足繁く通い、ありとあらゆる本を読み漁った。
初めは文字の読み方や書き方について記されている本を。次は小説。その次は算数。そしてその次は歴史……。
そうして知識と知恵を得ることが楽しくなったアンジュはどんどん学んでいくうちに、図書館で働く司書たちに憧れるようになった。
いつの日か、あの人たちと同じように本を扱うことが出来たなら、それはどれだけ素晴らしいことか?
幼い頃からの夢がようやく叶い、アンジュは今、図書館の前にいる。いつもの利用客の一人ではなく、司書として。
「……よし!」
気合を入れなおし、図書館の入口扉を開く。
はっきり言って緊張している。それのせいで足は震えているし、口から心臓が飛び出しそうなほどだ。それでも初日から遅刻なんてもってのほか。
まずは指定されたとおり、3階にある関係者以外立ち入り禁止の札が掛けられている部屋の前までやってきた。一度息を吸って、吐く。もう一度吸って、吐いて。
「失礼します!」
中に入ると、簡素なデスクが一つ置かれているのにどことなく生活感溢れる部屋だった。デスクを挟んだ先には椅子に座って手をひらひらと振ってこちらへ来るよう促している、一人の男性が待っていた。
「やあ、いらっしゃい。……あ、いらっしゃいはおかしいか」
言葉を間違えたと困ったように頭をかきながら照れている男性の仕草はなんというか、子どもっぽい。見た目は黒髪に少し白髪が混じりだしていて、優しい感じのおじさんといった具合だ。だが先ほどの照れた顔を思い出すと、茶目っ気のある人のように感じた。
「デスクの前まで来てくれるかな? もう一度、きちんと挨拶してみせるから」
「あっ、はい!」
言われるがままにデスクに近付くと、男性は優しく微笑んだ。そして一つ咳払いをして、改めて挨拶を始めた。
「深遠なる知識の館の名を与えられし図書館、アーヴェンヘイムへようこそ。今日から貴女は我々と共に本を管理する、司書になった」
穏やかに掛けられた言葉であったというのに、司書という言葉の重みにアンジュの口は自然と固く閉ざされていた。何か返事をするべきなのか、このまま黙っていた方が良いのか決めあぐねていると、相手は表情を崩し、笑いを堪えながら続けた。
「固い挨拶はこれで終わり。緊張させてごめんね。久しぶりの新人さんだったから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
「あっ、えっと……」
「私はレダ。この図書館ではロードと呼ばれる爵位に、と言ってもいきなりは伝わらないな、簡単に言えば最高責任者だ。……なんて、あまり自分の権力を振り回すのは好きじゃないんだけど」
必要に迫られない限りはいつも穏やかでいたいとレダは微笑み、アンジュに同意を求めた。
「そうだ。今日はまず、司書になったことを正式にするための書類準備と、世界で唯一の図書館アーヴェンヘイムについての勉強にしよう。どうかな?」
「はい、私はそれで大丈夫です。でもその、いいんですか?」
「ん? 何か気になることがあったかな?」
「今日から業務に携わって、一日でも早く司書としての仕事を覚えなくて良いのかな、と」
これを聞いたレダは目を点にした後、声を押し殺しながら笑いだした。
「す、すみません! 出過ぎたことを……!」
世界で一番権力のある職は司書である。
そしてレダはここの最高責任者だと言った。それはつまり、彼が世界でもっとも権力を持っている人物であるということだ。そのような大物相手にアンジュはいつもの真面目さで返答してしまったことを後悔し、何度も頭を下げた。
「いやいや、いいんだよ。真面目だからこそだって分かってるから。それに、やる気があって私としては嬉しい限り」
だからそんなに頭を下げなくていいよと言われたのでアンジュはそっと頭を上げたが、身体中から冷や汗が噴き出していることが嫌でも分かった。
「そんなに緊張しなくていいんだよ? 私、みんなとは結構フランクに接してるからさ」
「は、はいっ……」
なんて言われても目上の人に気さくに接するなんて、アンジュには出来ない。
「その反応も新米さんって感じだなあ。懐かしいよ。初めの頃はみんなすごく私に気を遣ってくれるから……。もちろん、慕ってくれることはやぶさかじゃないんだけど」
とは言え、自分の存在そのものが高圧的でありたいわけでもないんだけどと、顎に手をあてて唸りだしたレダはチラッとアンジュを見て、聞いた。
「じゃあ、まずはそうだな。先輩たちの話、興味ある?」
「それは、はい。あります」
自分も同じく司書として働くのだ。先輩たちにはこれからたくさん世話になるだろう。興味がないわけがなかった。
「まず先輩たちはね、仕事の時以外は実に愉快な子たちが多いんだ」
「そう……なんですか?」
「意外だったかい? みんな仕事は完璧だけど、だから休憩時間の気の抜けようったら面白いんだよ」
イタズラ好きな先輩の話に、生真面目すぎる先輩、同僚と毎日のように痴話喧嘩をする先輩たちなど、それはもう面白い話ばかりをレダは語った。
最初は先輩たちの仕事ぶりを聞けると思っていたアンジュはポカンとしていたが、次々に出てくる面白話についには堪えきれなくなり、アンジュは口元に手をあててくすくすと笑いながらレダの話を聞き続けた。
「――とまあ、先輩司書たちはこんな具合だ」
「面白い方々ばかりなんですね」
「そうだね。みんなそれぞれ個性があって、私はみんなのことを大切だと思ってる。もちろん、貴女も今日からその一人だ」
「嬉しいです。私、精一杯頑張ります」
やっと笑ってくれたとレダに言われ、アンジュは少し照れて顔を背けた。そんなアンジュにレダは微笑んだ後、いくつかの書類と、一本の小瓶をデスクの上に取りだした。
「よおし。それじゃあ、自己紹介をしてもらおうかな。一応貰った書類に目は通してあるけど、間違いがないかの確認をとりたいから」
「はい、分かりました」
名前、年齢、性別、出身地や家族構成など、ごくごく普通のことをアンジュは答えていく。レダは手元の資料の項目を確認しながら不備がないことの確認を終えると書類をめくり、次の質問に移った。
「次は合格通知をにも書いてあったことだと思うけど、住宅に関してだ」
司書として採用されたという旨の書かれた合格通知にはいくつかの注意事項も一緒に書かれていた。
指定日に図書館に来なかった場合は合格が取り消されることや、捏造された書類が図書館側に渡されていたことが発覚した場合に対しての処罰。その他にも細かい規約が書かれていたが、もちろんアンジュはそれら全てに同意した上でこの場にいるわけだから、特に不安はなかった。
それは今から話される住宅に関してのことも同じで、通知にも書いてあったとおり、司書になった人には図書館内にある部屋を一つ貸し与えられるらしい。そして今後は住みこみで働くことになるとも書かれていた。恐らくはそのことについて、詳しく説明してくれるのだろう。
「本当は新米さんにこんなことを言って不安にさせるのは嫌なんだけど、司書としての仕事は正直言って、過酷だ。大きな原因としては人手不足が挙げられるんだけど、それは……うん。私の方としてもどうにかして対処したい問題として受け止めている」
しかし実情として、司書の仕事は過酷であるとレダは念を押す。毎日のように届けられる世界中の本の選定から、選定された本を分類別に本棚へ並べるだけでも相当な労力だ。それに加えて利用客への対応、後は本の持ち主であった人物への査定結果を知らせる資料作りなどもこなさなければならない。
そしてもっとも厳しいのは、ミスが許されないこと。
一度選定された本の価値は二度と変わらない。再選定する余裕はないし、一度こうであると決めたことを後になって変更することは許されないからだ。だからこそ、ミスは絶対に許されない。
「この世の本は全てここに集められる。そして我々はこの世で最も価値のあるものとされている本を取り扱うことが唯一許された人間だ。だからこそ、我々にミスがあってはならない」
「はい。肝に銘じています」
「うん。それで、本当に司書としての職務を全うしたいと願う者には住みこみで働けるよう、図書館内にある部屋を一つ選んでもらっている」
「自分で選べるんですか?」
「空き部屋ならどこでもいいよ。選んだ場所は好きに使ってもらっていい。これからアンジュの家になるわけだから、好きなように飾ってもらって構わないし、特例でその部屋であれば図書館内に陳列された本を持ちこんでもらっても構わない」
「本を持ち出していいんですか!?」
これにはアンジュも驚き、つい声を張り上げてしまった。そしてハッとしたアンジュは口元を抑え、すみませんと何度目か分からない謝罪を述べた。
「極一部の本を除いて、図書館内の自室にならいいよ。実家に持って帰るのはダメだけどね。後は読み終えたら必ず返すことと、大事に扱うこと……なんて、こんなことは司書になる子に聞かせるような注意点じゃなかったか」
アーヴェンヘイムに保管されている本は如何なる理由があっても外部への持ち出しが禁じられている。当然、貸出制度なんてものはなく、本が読みたい時はここにやってきて、図書館内に設けられている椅子に座って読んでいくしかない。
それほどにまで大切に扱われている本を、自室という落ち着いた空間で読むことが出来るというのはあまりにもすごい話だ。特に本が大好きなアンジュにとっては最高だ。
「嬉しいです! 憧れの司書になれるだけじゃなくて、そんなにも良くしてもらえるなんて……」
「そんなに喜んでもらえたのは初めてだなあ。アンジュが本を好きだってことが良く伝わってくるよ。じゃあ、部屋については後で案内しよう。その時にはアーヴェンヘイムについての勉強会をしていることだと思うから」
「分かりました。まだ他にも書類で確認することが?」
「次で最後。これは部屋を貰うことを同意して、正式に司書になったと認められた人にのみ話す大事なことだから」
そう言ってレダが手に取ったのは書類を出した時に一緒に並べられた小瓶。アンジュとしても、その小瓶に入っている液体が何であるのか興味があった。
「これは極秘。話していいのは同じ司書たちにだけ。友達はもちろんのこと、ご両親への手紙にも書いてはいけない」
念を押されたアンジュが一つ頷いて見せるとレダは微笑み、話し始めた。
「この世界に住んでいる我々人間は知識と知恵を与えてくれる本のお陰で、大いなる発展を遂げてきた。人の生活を劇的に変えた食糧の普及、エネルギーの安定生産、交通の利便性。これらは行き着くことまで成長した」
人々はアーヴェンヘイムに保管されている膨大な本から知識と知恵を得、文明を発展させてきた。それらは留まることを知らず、今もなお新たな技術が発明、開発されている。その集大成と呼ばれる技術の中には人の記憶を操作するものや、指定された場所へ一瞬にして移動する方法などが確立されている。
「世界の定めとして、図書館の脅威となり得るものでさえなければどのようなものを作りだしてもらっても構わないからね」
この図書館における不可思議な現象についてだけはいまだ原理すら解明されていないが、それでも十分すぎるほどの技術で、一部の人間たちの生活は豊かになった。
「そしてこれは、私が開発した薬。製造方法を知っているのは私のみで、効果は――」
不老長寿。
これを聞いた時、アンジュは無意識の内に生唾を飲みこんでいた。
そう。もっとも大量の知識と知恵を蓄えられるのは司書たちだ。だから彼ら、あるいは彼女らが本によって得た知識と知恵を用いて何かしらの技術を確立することだって、何も不思議なことじゃない。
「あ……その……」
「これを飲むかは強制じゃないから、安心して。作った理由もその、恥ずかしいことなんだけど。ほら、最初に言ったけど、図書館は万年人手不足でね。だけど司書は毎年増えてくれるわけじゃない」
だからといって能力不足の人物を雇うわけにもいかない。結果、レダの出した答えは不老長寿の薬を作り、これから先、何百年であっても司書として仕事を続けたいと志願してくれるものにこの薬を与え、共に図書館を成り立たせてきたという。
「薬を飲むことなく、人の寿命が続く限り司書としての業務に携わって亡くなり、本になった人もたくさんいる。だからアンジュが飲まない選択をしても、誰も気にしない」
「……これを飲んだ方は、いるんですか?」
人の生死に対してここまでダイレクトに効果をもたらすものが存在しているという事実に狼狽えるアンジュは恐れながらも質問を口にすると、レダは優しく教えてくれた。
「まずは私。作った自分が飲まないなんておかしな話だからね。そうだ、私のことは何歳ぐらいに見える?」
ちょっとしたポーズを取って、レダはアンジュに歳を当ててみてと聞く。アンジュはさっとレダの顔を見直し、素直に答えた。
「四十代、後半くらい?」
「ふふっ、そうか。そんなに若く見えるか。嬉しいね。こう見えて私は、優に百は超えているよ。実を言うと、それ以降は数えていなくてね。でも……そうだな、まだ千年は超えてないと思う」
途方もない数に眩暈を覚えたアンジュは開いた口が塞がらず、何も言えなかった。
目の前にいる五十手前にしか見えない男性が、実はもう百年以上をこの外観で生き続けているというのだから、わけも分からなくなる。
「もちろん、これはあくまでも長寿の薬であって、不死の薬ではない。事故はもちろん、病気でも亡くなる。それにどれだけ寿命を伸ばしたって、いつかは肉体が終わりを迎える時が来る」
司書の中でもこの薬を飲み、寿命で何人かは亡くなって本になったとレダは言う。人が持つ元々の寿命も全く違うため、薬を飲んだからといって全員が一律の寿命を得るわけではない。
「司書になった人は全員この話を聞いている。そして最初はみんな……ああいや、一人だけ違ったけど、保留を選んだよ。司書として続けられるかもまだ分からないのに、薬を飲みますなんて子はそういないから」
みんなしっかりしていて私は嬉しいとレダは笑い、そっと小瓶を懐に仕舞った。
「これから司書として頑張ってね。それでもし、ずっと続けられそうだと思う日が来たらまた私に声をかけて。その時に改めて、この薬を渡すから」
「分かり、ました」
「それじゃ、司書としての手続きはこれで終わり。さあ、今からはアーヴェンヘイムについての勉強会だ。アンジュの部屋選びをしながらね」
そういってレダは立ち上がり、アンジュが入ってきた扉を開いて言った。
「実はこの部屋ね、私の家なんだ。みんながここに報告書を持ってくるようになってから、事務所みたいになっちゃって。ははっ、まったく困ったものだよ。私のプライベートが全部筒抜けだ」
だからこの部屋に入った時に生活感を感じたのだとアンジュはようやっと理解したのだった。