異界の主になってから明日で一週間が経とうとしている。こんなにも一週間が早いと感じるのは実に久しぶりだ。
「本日が今週のうちで最後の行動指針を決める日になりそうですね。……では、どのように」
この間受け持った依頼内容はどれも急ぎのものではない。強いてあげるなら『EXCEED DEFENSE!』が来週の始めに予定として入っていることになるが、こちらに関しては日程指定されている分、指定時間に遅れなければまず問題ない。
もう一つに関しても、よほど後回しにさえしなければ依頼達成出来るだろう。
「今週の最後も異界踏破を。取りあえず、第三層へ続く扉があるのかどうかを確認したい」
「かしこまりました。気を引き締めて参りましょう」
現段階なら、まだ余裕がある。だから、今のうちに進めるだけ進んでおくのが得策だろう。返すのはいつでも良いとご厚意を頂いているが、いつまでも甘えているのは申し訳ない。せめて、次回顔出しするまでに最下層がどれぐらいなのか、検討はつけておきたい。
相応に準備を整え第二層へ足を踏み入れれば、前回巡った部分に関して変化は見受けられない。異界が変容した原因はこの間中断させた召喚術の暴走の結果と見て間違いないだろう。
変容してしまったこと自体は芳しいことではないし、そもそもとして自分がこうして巻き込まれている以上、最悪の結果だと言って差し支えはないが、それでも時間単位で変容しないという事実だけは非常にありがたい。
「ダイナ様、こちらへ」
マリアが何かを見つけたようだ。呼ばれた方へ足を向ければ、そこには扉があった。
第一層から降りてきた時には扉なんてなくて、ただ次の階層に続く階段があっただけなのだけど、今回は扉があって、挙句にえらく雰囲気のあるのも気になるところだ。
「仰々しい。それに、これは……」
「割符の残り半分でございますね。恐らく、この間拾ったものと合わせれば扉が開く仕組みかと」
妥当な見解に、私は一つ頷いて見せた。
いったい、扉の先がどうなっているのか皆目見当もつかない。個人的にあり得たら嬉しいことといえば、扉の先が異界の最終地点であることだけど、あまりにも楽観的過ぎるか。
現実的に考えるなら、この異界に居座る強力な悪魔が頓挫しているぐらいの心持ちの方がまだ何か起こっても落胆は少ない。
「一度引き返すことも視野に。如何なさいますか」
「このまま前進する。幸い距離も短かったから余力も十分。警戒は怠らず」
「かしこまりました。では」
慎重に、マリアがこの間拾った半分の割符を扉に近づけるとぴったりあてはまると同時に扉は重々しく開かれた。
私たちを招いているとすら錯覚させるほどに荘厳さ溢れる、今までの通路とは比べ物にならない広さを誇る部屋からは何故かヴァイオリンの音が聞こえてくる。
「このような所を潜ろうとは相も変わらず、人の好奇心を侮ることなかれと言わんばかりです」
部屋の中心で奏でていた人物はバイオリンを引く手を止め、私たちに背を向けたままそう言った。
風貌は奇抜な衣装とそれに合わせて被っているベレー帽が特徴的。ただ、体つきの小ささから小学生ぐらいにしか見えないのだけど。
「異界の主になった手前、致し方なく」
「ここを異界と呼ぶとは。何も知らずに潜りこんだ狂乱者でありましたか」
若干小馬鹿にされた気もしますが、別に腹を立てるほどのことではないでしょう。何も知らないのは事実ですから。
それよりも含みの混じった言い方をする少年……？ と言っていいのかも微妙ですが、こんな所にいること自体が異常ですし、人ではないのでしょう。
まったく、私の淡い期待すらもすぐに打ち砕いてくる辺り、この異界にはもう期待なんてしませんよ。
それより、相手が何者であるのかを早々に見極めないとまずいですね。あり得ないほどの威圧をひしひしと感じる。
「わけあって最下層に向かわねばならない身になってしまったので。よければ、ここがどういった場所であるのか、教えていただけると助かります」
「なるほど。人の子は怠慢な者が多いが、少なくとも貴女は違うみたいですね。足りない知識を補おうとする姿勢は嫌いではありません」
そう言って振り返った者の顔は──骸骨。
「ダイナ様！ この者は──ッ！」
「私は≪魔人≫デイビット。死の恐怖、その調べを奏でる者です」
「≪魔人≫──ッ！？」
血の気が引くとは、まさにこのことだ。
魔人。
それ自体は悪魔の一種族の名称でしかない。だが、その存在は“万人に等しく凶事と死を撒き散らすもの”として、悪魔たちの中でも一線を画した強さをその内に秘めている。
「ここは“東狂”と呼ばれています。全四十六層から成り、私たち≪魔人≫の在り処」
「東狂……？ それの意味するところは」
異界と呼ばないということは、この場所は“東狂”というのが正しい名称なのだろう。
地下へ伸びていく構造は異界と変わらないが、地形の不気味さからさらりと言い放たれた階層の深さまで、流石に規模が違い過ぎる。
何より≪魔人≫が存在できる場所などいくつもあるわけがない。名称云々も意味があるものなのかもしれないけれど、最も恐ろしい事実は今まさに私の目の前にいる悪魔の存在のほうだ。
「東狂の主となられたのであれば、いずれ知ることであろう。もっとも、それは私を倒すことが出来ればの話ですが」
「そう、なりますか」
出会ってしまったが最後。戦わずして生還することは叶わない。それに、どれだけ恐れようとも最下層を目指す以上は避けられぬ道。
≪魔人≫デイビット。人ならざる魔性のヴァイオリン弾きであり、それを狂おしく奏でて人々を惑乱と陶酔に誘い、死の舞踏を舞わせたという。
「東狂に彷徨う旅人の、狂える心は魔性の調べに。死の恐怖はあらゆる姿に形を変え、人間の前に現れる……」
これが、合図──。
「そう。この私のように！」
「ダイナ様、来ます！」
「前線を維持しながら魔法展開！ 私が先攻する！」
即座に構えたというのに相手はそれよりも素早くて、自分が距離を詰める前に手に持つヴァイオリンを奏で始めていた。
広い部屋だというのに旋律は瞬く間に広がり、始めに聞こえた音色とは対極な、聞く者全てを惑わせる音色が耳に届いて来る。
「音に気を取られてはいけません！」
「聴覚に訴える魔力──だったら……っ！」
残念ながら、私に魔力適正はほとんどない。対策として魔力に長けたマリアを使役しているわけだが、そんな彼女でもデイビットの膨大な魔力量には敵わない。
それなら、することはたった一つ。
「ただの一突きで大地を穿ちますか。ですが、その程度出来ねばここに辿り着くことすら出来ません」
「私の一撃を避けるほどの速度、見事です」
今のを見る限り、速さは完全に五分。ただ、私の打撃を避けたということは他に隠している武器などは特にないのに加え、純粋な力比べで行けばこちらに分があるということ。
こうなれば、私が力で捻じ伏せるのが先か、相手の惑乱に舞わされ堕ちるのが先か……。
闇雲に距離を詰めたところで確実なダメージを与える一打を当てることが出来ない。何かしらの隙を生み出す必要があるが、それを簡単に許してくれるような存在であったならどれだけ良かったことか。
「まず、その腕力を奪いましょうか」
「なっ……に……？ 力が、抜けっ……」
「これはっ……我々の力を吸い取っています……！」
ここにきてそんな隠し種があったというの？
まずい、これ以上力を奪わせては。ならば長期戦にしてはダメ！ 速攻で落とすしか勝ち目はないっ……！ 勝ち目はないと分かっているから本気で殺りにいっているというのに、一撃すら与えられない！
「……申し訳ございません。そろそろ、タイムリミットです」
ここにきてっ……。いや、攻防を繰り広げてもう五分は経つ。魔法を使いながら集中力を欠くことの出来ない戦いを一分以上続けるだけでも相当の負担がかかることだ。無理もない。
私がこのラプソディの中でもデイビットに狙いを済ませられているのには仕組みがある。
マリアが自身の魔力を使い、旋律に乗って流し込まれる魔力を私へ干渉しないように抵抗してくれているのだ。これがなければ魔力への抵抗力がない私なんて、ものの数秒も持たずに惑乱し、仲魔を討っているか、操られて僕にでも成り下がっているか……自決でもしているかもしれない。
ただ、魔力量の差というのは根性などで覆せるような代物ではない。だからマリアの方が先に倒れるのは必然。
次の一手で決められなければ……私たちの最期だ。
「そちらの天使は虫の息のようですね。せめて、最期に相応しい舞踏を舞わせて差し上げましょう」
最期の仕上げと言わんばかりに、一層強くなった旋律は私とマリアの心を惑わす。
頭が割れるように痛み、まるで視力が落ちたかのように焦点が定まらない。今自分が視界に捉えている人物がデイビットであるのか──分からない。
「我が主よ！ 臆することなく、己が信ずるものに従い穿ち下さい！」
私が信じていること。それは──。
「……まさか…………私が敗れるとは……」
「私の仲魔は、本当に優秀です」
「そのよう、ですね。私が……≪魔人≫が負ける、か」
私が信じていること。
どんな絶望的な状況だったとしてもそこにかすかな光があるのなら、歩みを止める必要なんてない。光に辿り着けるよう、一歩を踏み出せばいい。
背後からは崩れ落ちるデイビットの気配がある。……なんとか、私の放った背後への一撃は彼の者を打ち倒すだけの一撃を出せたようだ。
何故デイビットが後ろに回っていると分かったのかと問われれば、勘だったとしか答えようがない。運が良かったのだと、言う他ない。
「辛勝ではあったけど……私たちの勝利です」
この勝利を掴むことが出来たのは間違いなくマリアのおかげだ。先の言葉がなければ、私は眼前に捉えているマリアをデイビットと錯覚したまま、マリアに矛を向けていた。
「死の上に勝利を重ね、行きつく先には何があるのか……。人の身でありながら≪魔人≫に勝った貴女なら、答えを見つけられるかもしれません」
「出来ることなら、その答えを得ずに済む未来へ進みたいですね」
「好きにすると良い。それが勝利した者の特権です。……これを受け取るのです」
「これは……？」
ほとんど霧散し、今言葉を発せていることすら不思議な状態であるデイビットの身体から何か球体の物が溢れ出てきた。
大きさから見た目まで、まさにウズラの卵といった具合ですけど……傍にいるだけで感じられるほどの高濃度なエネルギーを有したものである、ということは嫌というほどに伝わってきますね。
「その物質の、名は【宇宙卵】と……呼ばれる……」
「【宇宙卵】？ 何ですか、それは。このエネルギー体を何故私に渡すのです？」
「≪魔人≫に勝った証だからです……──もう、身体が消える。……知りたいなら…………下の階層に……」
「待って！ まだ答えてほしいことは山ほど……！」
「ダイナ様。もう、霧散しました」
この東狂と呼ばれるものが何故出来たのか。この東狂には何故≪魔人≫がいたのか。その≪魔人≫が何故【宇宙卵】と呼ばれるものを有し、そして私に渡すのか……。
調べなくてはいけないことがたった二層下っただけで山のように出てくるなんて……。控えめに言って厄ネタの宝庫過ぎます。
「マリア。この【宇宙卵】が何であるのか、心当たりなどは？」
「恐らく、ですが。かつて世界を創造するために【在りて在るお方】がお創りになられ、使用した後に残ったものの一部、かと。或いは残骸でしかないのかも、しれませんが……」
「──待って下さい。……いえ、私のような魔力に疎い者でもこの卵には高濃度のエネルギーが凝縮されていることぐらいは分かります。分かってしまうほどに強大な力を有していることは、理解しました。それはつまり……つまりですよ？ この【宇宙卵】は、今の【世界を変えてしまうほどの力】があるという、ことですか？」
「流石に一つや二つではそこまでのことは起こせないでしょう。後は扱い手を選ぶ代物でもありますから、今すぐに何かが起こることはないと思われます」
「そ、う……。でも、何故このような……」
「残念ながら、そこまでは。先の魔人の言葉を信じるのであれば、さらに下へ足を運べば自ずと答えが見つかるのかもしれませんが、それは……」
「階層を降りれば間違いなく、別の≪魔人≫と一線を交えることになる。……それについてはこの階層の全容を伝えられた時点で、ある程度覚悟していたから問題はありません」
全四十六層もある中で、ここはまだ第二層。そんな浅い階層ですら≪魔人≫が守っていたのなら、さらに下の階層でも幾つかこうした広い部屋があり、そこには何かしらの≪魔人≫か、あるいはそれ以上の格を持った悪魔がいるとみて間違いない。
「ひとまず、拠点に帰りましょう。ここで考え込んでも仕方のないことです」
「うん。とにかく帰って、それから【宇宙卵】をどうするかも、考えないと……」
東狂の主になって明日で一週間。
ここまで次から次へと厄ネタが転がっているなんて、当初は思いもよらなかった。それでも、こうなってしまった以上は一つずつ、焦らずに問題を解決していかなくては……。