第9話

 異界の主となってしまってから早四日。
 一応の生活基盤が出来上がっているだけ、本当に一から異界経営を始めている人たちより、随分と恵まれている。……異界自体の規模と異常さに目を向けなければ。

「ダイナ様。今宵は月が昇っております」

「月齢は悪魔の凶暴性、また悪魔合体の事故率に大きく関わる重要事項。また、体内時計の修正にも一役買ってくれている」

 階層としては地下一階に当たる部分に生活空間を設けたが、ほとんど地表と言って差し支えない高さにあってくれたおかげで、こうして月を眺めることが出来ている。
 ……マリアと、こうしてゆっくり話すのが久しぶりに感じてしまうのは、やはり私に余裕がなかったからだろうか。

「ダイナ様」

「ん……、何?」

「私の元主でありダイナ様の母君エイル様と、父君の隼様の想いを大切にしていらっしゃることは存じております」

「突然、どうしたの」

「誰かの想いを受け継ぐというのは、大変素敵なことにございます。しかし、ダイナ様自身が己で答えを導き出し、ご自身の正義と呼べるものを持っていなくては、意味を成しません」

「…………うん。マリアの言うとおり、文面だけでは意味がない。己の確固たる意志で受け継がなくては、それはただの被り物」

 確かに、父と母を失った当時はただ、ただその現実が苦しくて、考えなくてよくなるようにと己を追い込み、無心で鍛錬に励んでいた。しかし、それはただの逃げでしかなく、結果として戦闘技術は身についたが心は何一つとして成長することはなく、高校生になろうかという歳であるにもかかわらず、考えは中学生にも満たないほどに幼いものだったと、今になって思う。
 そんな私がこうして今、自分というものを持ち、心の底から父と母が大切にしていた想いを同じように大切にしているのは、マリアのおかげだ。
 ただ生まれてきただけの命に罪はない。
 母はその言葉を体現し、信念を貫いた。本当に誇り高き人だった。そして父も。父の事柄に関しては一切が謎に包まれているが、私は信じて疑っていない。
 鉄の意志と鋼の強さを忘れない限り、出来ないことはない。
 きっと、父もこの言葉に恥じない活動をしていたんだと、私はそう信じている。そんな両親の生き様を眩しいと、憧れだと感じたあの日から、私は両親の想いを受け継ぎ、体現できるようにと日々努力している。

「マリア、心配はいらない。確かにマリアから見れば、私はまだまだ未熟。それでも二人の意志を継ごうと、継ぎたいと思ったのは、紛れもなく私の意志」

 そのきっかけをくれたのはマリアだ。
 野良悪魔の暴動事件が起きたあの日、母は自分の命が尽きるその最期まで、事件に巻き込まれてしまった一般人たちを保護していたと、ただその一言だけを語ってくれたマリアの言葉に、私はどれだけ救われただろうか。
 現実を受け止められなかった私を憐れむわけでもなく、突き放すわけでもなく、ただ見守り、そしてマリア自身が見たものを伝えてくれ、そして私の元へときてくれた。
 一体、どれだけ救われただろうか。少なくとも言葉で返せる程度ではないから、今もこうして努力を重ね、出来る限りマリアの傍にいるに相応しく在れるよう頑張ってはいるけど。

「そうですか。そうであるのなら、何も言うことはありません。……ダイナ様は本当に、立派になられました」

「私はまだ……。母はおろか、父になんて遠く及ばない」

「確かに、隼様と比べてしまうと今一歩でしょうが、十分にエイル様とは肩を並べられています。ダイナ様はそれほどに、力をつけられたのですよ」

 …………。
 きっと、マリアは本心からそう言っているのだろう。幼い日の思い出しかない私の中の両親は、どうしても美化されたものでしかない。私個人としてそれを悪いとは思っていないけど、母に仕えていた身であるマリアの視点はまた別のものなんだと感じる。だからきっと、マリアの言い分の方が正しいのだとも、分かっている。
 ただ、何故そんな話を……?

「ダイナ様。私はいずれ、貴女の成長に追いつけなくなります。悪魔とは基本的に完成度の高い存在故、人間ほどの豊かな可変性を有しません」

「今後の異界踏破が苦しくなったら、合体に使えとでも? 確かにこの異界はいつの日か、妖精郷に返す義務がある。だけど、それをするためにマリアを合体に使うようなことは……」

「それではいけないのです、我が主。悪魔召喚師としての道を進むならば、それではいけないのですよ」

 マリアの言わんとすることが分からないわけじゃない。しかし、急にそう言われてもすぐに呑み込めないし、私とマリア二人で乗り越えられないほどの異界では……。
 いや、この業界にいる以上、いつの日かマリアのことも悪魔合体させ、さらに上の悪魔へと変えていかなくてはならないというのは、頭では分かっている。分かってはいるが……もう何年、共に過ごしてきたか。両親といた時間よりマリアといた時間の方が、はるかに多いほどだ。そんな貴女を手放すなど、私には……。

「心配には及びません。私はしょせん分霊の身。他の悪魔との融合儀式に供されようと、恐怖や嫌悪はありません。“その時”が来たらどうか、躊躇わぬよう。それが私の、最後のご奉仕でしょうから」

 残ってほしいと思うのは、私のわがまま。そしてそれを実現できる権限を、私は持っている。だが、それをしてしまえばたくさんのものを失う日が、いつかやってくるのだろう。
 何より、マリアはそんなことをする私を望んてはいない。

「……マリアの、言うとおり。今言えるのは、どうかその時までよろしく、としか」

「そのお言葉だけで十分です。ダイナ様は十分過ぎるほど、幼き頃からたゆまぬ努力を続けてきております。ですから、たまには肩の荷を下ろすのも良いことですよ」

 いつもこうして気遣ってくれて……本当に、感謝している。
 だから“その時”が来るまでは、どうか私の傍で、ともに歩んでほしい……。