Betrayal

 六月十五日午後一時四十八分。
 各人がそれぞれの思惑でクリフォトの頂上を目指している最中、若は気を失っているVを起こそうと何度も声をかけていた。
「何寝てるんだよ。……おい! 起きろって!」
 ユリゼンの元へ向かう途中、クリフォトの樹が地崩れを起こしたため一度はぐれてしまった二人。どうにか合流することが出来たかと思えば、横たわったまま動く気配を見せないVを見つけたのがつい先ほどだ。
 体を揺すっても耳元で大声を聞かせても死んだように動かないVを見ていると、本当に死んでしまっているんじゃないかと不安になる。実際のところは息があるので死んでいるわけではないようだが、こうも反応が返ってこないとお手上げとしか言えない。
 どうしたものかと悩んだ挙句、こんな所で時間を食っているわけにはいかないと判断した若は意識のないVを背負って先へ行くことを決める。
「ったく、どんだけ俺を足にすれば気が済むんだよ」
 悪態にも返事は無く、一人虚しくなった若は諦めたようにかぶりを振って歩き出した。
 若の目的は、ユリゼンが誰かに討たれてしまう前に頂上に着くこと。それだけである。だから自分が一番である必要はなく、気楽であると言えばその通りであったが、遅すぎるのは問題だ。
 そして頂上に着くにあたってVという存在が必要不可欠である以上、置いていくわけにはいかない。無論、V自身が必要なかったとしても、若は置いていくという選択をすることはなかった。
 己の半身に会わせてやること。これも若の目的の一つであると同時に、何をしても叶えてやりたいことであったから。
「……ここは」
 Vを見つけてから数十分。ようやく意識を取り戻したVは打ちどころが悪くて気を失っていたというよりは、夢から目覚めたような様子だった。事実、Vが意識を手放してしまった原因は落下ではなくマルファスによって見せられていた幻惑だから、若がそのように感じたのは間違いではない。
「静かにしててくれ」
 とはいえ、何ともタイミングの悪いお目覚めだと若は心の中で舌打ちする。何故なら今まさに、Vに幻惑を見せたマルファスがうろついているからだ。
 若一人であればなんとでもなる。Vが意識を失っていてくれれば、適当な場所に隠して後は狩るだけだ。勝手に動く心配もないから、気配を悟られることもない。だが残念ながら目を覚まされてしまった以上、どうにかして自分の力で隠れていてもらわないといけない。それだけのことが今のVに成しえられるのかと問われると、頷けなかった。
「やり過ごすぞ」
 我ながら、普段であれば絶対に取らない行動だと思った。非効率的だし、隠れているなど性に合わない。だとしても、必要であるというならやってやるという気持ちだった。Vのことももちろんだが、何よりも安否を確かめたい者たちがいる。その為に博打にまで手を出したんだ。こんな所で邪魔されるわけにはいかない。
 そっと、気取られないように身を潜めてゆっくりと後ろへ下がる。Vもすぐ近くにいるマルファスに、自分の実力では敵わないことをよく分かっているから、若に倣ってゆっくりと、慎重に、少しずつ後退していく。
 細心の注意を払っていた。少なくとも、Vの中では最大限の警戒だった。ただ、警戒を保つだけの体力があるかと言われたら、答えは否だ。
 小石が数個、乾いた音を立てて崩れ落ちていく。日常では気にも留めないような些細な音がこの瞬間だけは爆音のように鳴り響いているような錯覚を起こし、耳にこびりついた。
「どうやら、ネズミが紛れ込んだな」
 気付いてくれるなという思いも儚く散り、マルファスがこちらに近づいて来る。こうなった以上はやるしかないと覚悟を決めた若は、顔を強張らせて怯え切ったVを隠すようにエボニー&アイボリーを手にして立ち上がり、姿を晒した。
「スパーダの血族か? いや、しかし……」
「どうした? お望み通り、出てきてやったぜ」
 若を見たマルファスは当惑する。目の前にいる男から感じられる気配は確かにスパーダの血族である者が持つ独特なものだが、その血を継いでいる者はこの男ではないはず。しかし、事実として男はとても濃い気配を出していて、この者をスパーダの血族ではないと断言することは難しい。
 マルファスの考え事を中断させたのは背後からの銃弾だった。後頭部に衝撃を受けたマルファスが振り返るとブルーローズを構えたネロと、マルファスのことを視界に入れながらも若とVのことを気にかけている二代目の姿があった。
「人間だけの力しか持たぬ抜け殻が、よくも……!」
 怒り、体を反転させてネロの方を向いたマルファスの背後を今度は若が撃ち抜いた。そうしてVの元から離れ、ネロの近くに着地した若は獲物を狩る時に見せる好戦的な瞳を見せながら言った。
「二代目、わりいけどVのこと頼めるか? ずっとお守り続きだったから暴れてえんだ」
「この程度の悪魔になら遅れは取らんだろう。好きにすると良い」
 快く了承してくれた二代目はすぐにVの元へと駆けつけ、縦横無尽に暴れ回る若い連中の戦いに巻き込まれないよう、飛んでくる流れ弾やらの処理に徹した。
「悪魔が目の前にいるってのに、隠れるだの逃げるだのは性に合わねえ。やっぱ暴れてなんぼだってな!」
「あ、おい! 一人で突っ込むなって! ……話聞けよ」
 相変わらずの粗削りな戦い方に、本当にこれで自分よりも年上なのかと何度目か分からない疑問を抱きながらも、久しぶりの若との共闘に胸が熱くなっていることをネロは感じていた。

 六月十五日午後二時一分。
 マルファスを倒した四人は急いでクリフォトの頂上を目指すものの、Vの様態が芳しくないために進行速度は早いものとは言えなかった。だが、手を貸している若がVに付き添っている光景は見慣れたものだが、ネロと二代目も先に行くわけではなく二人に歩幅を合わせているのは意外と言う他ない。
「おっさんに先越されちまうぞ」
 誰でも分かることを若は口にする。見たところ、先を越されることに焦りを抱いているのはネロだけで、二代目はどちらでも良さそうな顔をしている。それがよく分からなかった。
「俺は、気付いてほしいだけだ。一人で全てを背負うことの愚かさを」
 黙って聞いているネロの視線の先を見てほんの少しだけ瞳を伏せた後、すぐに前を向いて歩く二代目の姿を昔に一度見たことがあることを思い出す。
 二代目の過去が露呈して、全てをさらけ出してくれた日である。
「とはいえ、俺とは違うからな」
 ここまで来て悩んだところで仕方のないことかもしれない。だが二代目自身は今、己の身の振り方を決めあぐねていた。
 一か月前におっさんからネロのことを託され、了承した。だがネロと若の闘志を買い、再びユリゼンと剣を交えることを許すだけでなく、自らも率先して戦いに赴いた。
 無論、半日ほど前に再開したVの正体についても、依頼を受けたことを耳にしたときからずっと考えていた。そしてVの使役する使い魔たちを見て、ある仮説を立てた。
 ネロが知らないのは当然として、残念ながら若も後数年の時を元の世界で過ごしていないと知ることの出来ない存在であるから、Vの正体についての目途が立てられる存在は自分とおっさん、そして初代の三人だけだろうという推測はあった。もっとも、初代については昏睡状態にあったネロの様子を見に行って以降、一度として姿を現していないので今回のことは露ほども知らないだろう。
 そして自分が気付いたことをおっさんが気付いていないと考えるのはいい加減だ。むしろ、これくらいのことは勘付いているはず。
 正体を理解した上で何もしないのはVを信用としているというより、単に危害がないと判断したからなのだろう。だから何も言わないのと同時に、出来るだけ関わり合いは持たないようにしたのだと二代目は考えていた。
 ──見落としている。
 マルファスを討ち取った辺りからこのように感じるのは長年の勘からか、或いは歳を重ねたが故の臆病さか。自分自身ですら出所は分からないが、漠然とした不安がずっと付きまとっているのも事実だった。
 ネロはユリゼンの正体も、Vの正体も知ることはないと踏んだからこそ、二代目は戦いに行くことを止めなかった。これはおっさんと共通の思いであり、先ほど再会を果たした時に怒りをにじませた表情で迫られたことの真意も理解している。
 しかし、二代目としてはおっさんのことも心配なのだ。今おっさんがしていることは、まさに過去の自分が犯した過ちそのものである。大切な者たちを真実から遠ざけ、全てのことを己が一人で抱え込もうとしている。
 確かに、知らないままの方が幸せなことなどこの世にはごまんとある。だがそれをたった一人で背負いこみ、墓場まで持っていくというというのは本当に苦しいものだ。悪魔として生きていくならともかく、人として生きていたいのであれば、絶対に止めた方が良い。
 おっさんにそのような苦しみを背負わせないためには、彼自身が何よりも大切にしているネロの存在が必要不可欠で、残念ながら自分では力不足だ。だからこそ、今までネロに自分が付き添うことを自分の中での条件として戦うことを許可していたのだが、今になってネロをユリゼンの元へ再び連れて行くことは間違っているのではないかと考えずにはいられなかった。

 六月十五日午後三時六分。
 四人がクリフォトの頂上に着いた時には既におっさんとユリゼンとの戦いは決着がついていた。肩で息をしながらもしっかりと魔剣ダンテを握って立っているおっさんと、胸に大きな風穴を開けられ、横たえているユリゼン。どちらが勝ったかなど、問うまでもなかった。
「遅かったな。もう終わるところだ」
 近づいて来る者たちに気付いたおっさんは軽く振り返り、言った。二代目とネロはおっさんのすぐ傍で足を止め、Vに肩を貸している若はそのままユリゼンへと近づいていく。
「……先を越されちまったか」
 体裁を保つためにそれらしいことをネロは呟いたが、この言葉にもはや意味など何もなかった。Vの歩幅に合わせていた時点でおっさんより先に辿り着けるわけなどなかったし、右腕を奪われたことは未だに許してはいないが、過ぎたことに変わりはない。
 何より、おっさんが無事に生きていてくれた。そのことがネロにとっては一番嬉しいことだったから、この事件に終止符が打たれるならもう何でもよかった。
「二人ともどけ! そろそろ、トドメを刺す!」
 最期の一撃を与えるべく前進を始めたおっさんに、Vは静止の言葉をかけた。最後くらいは自分自身の手で決着をつけたい、と。
 これを聞いたおっさんは渋い顔を晒すが、Vに思うところもあるのだろう。ただ頷き、武器を下げてくれた。
 ユリゼンのすぐ傍に着くと若は手を放して数歩下がる。Vは横たえているユリゼンの体によじ登り、最後の言葉をかけだした。
「無様だな。俺に抗えないようでは……お前に勝ち目はない」
「まだ……負けていない……」
 どこまでも往生際の悪いユリゼンは弱り切っているにも関わらず、求めた。
「力だ……! もっと力を……!」
 ユリゼンの口から絞り出されたものは力だった。対し、Vは否定することはなく、むしろ肯定してユリゼンの胸に杖を掲げた。
「汝が枝は我が枝と交わり──」
 ──見落としている。
 二代目の直感は正しかった。見落としていたものの正体にようやっと気付いた二代目は間に合ってくれと必死の思いでリベリオンを手に、Vとユリゼンめがけて突進した。
 予想だにしていなかった二代目の行動にネロはただ茫然とその場で立っていることしか出来なかったが、おっさんも異変にようやく気付いたようで、慌てて二代目の後に続いた。
「我らが根は──」
「やらせはせんぞ、V!」
「邪魔はさせねえ!」
「ひとつとなれり!」
 一瞬だった。二代目の突撃は若に阻まれ、出だしの遅かったおっさんはVの元に辿り着くことが出来なかった。そんな中、Vに掲げられた杖はユリゼンの胸を貫いた時に膨大な量の魔力は柱を作るように放たれ、傍にいた若と二代目は無論のこと、少し離れている場所に立っているネロすらも吹き飛ばした。
 クリフォトの果実が見せていた背景が、ガラスが割れたように崩れていく。そして魔力の柱が出来ていた場所に立っていたのは、Vでも、ユリゼンでもなかった。
「な、なんで……」
 ネロは初めてみる人物であるはずなのに、そこに立っている相手が誰であるのか、嫌というほどに見たことがあった。よく観察すれば差異があり、いつも自分が見ていた人物とは別人なのだろうことは、分からなくはない。だからこそ、いつも見ているあの人とは違うと分かってしまったからこそ、動揺を隠せなかった。
 あの人は……ダンテの兄は、自分の父は──バージルは死んだのではなかったのか?
 突如現れた男はこちらにはあまり興味なさげで、足元に落ちている本を手に取って懐にしまっている。このなんとも形容のしがたい、居心地の悪い沈黙を破ってくれたのは、衝撃的な言葉だった。
「ここまで長かったぜ……。おい、V! 俺との取引、忘れたとは言わせねえぞ!」
 一体、若は何を言っているのだろう? 取引とはなんだ? ここまで長かったとは、どういう意味だ?
「ついてこい」
 若の言葉に反応した男は閻魔刀を使って空間を裂き、どこかへと行ってしまう。続いていく若は一切の躊躇いがなく、二代目やおっさんには何も言わず、ただ一度だけ、ネロに視線を寄越した。
「何が、どうなってんだよ」
 男と同じように姿を消してしまった若に届くことはなく、同じく現状を把握しきれていないおっさんと二代目にしか聞いてもらえなかった。
「クリフォトの頂上に待ち受けている悪魔の正体はもちろん、Vの正体も知りながら、俺と二代目はここまでやってきた」
 おっさんは抑揚のない声で、自分の知っている限りのことを話してくれた。
 ユリゼンなんて悪魔はそもそもいないこと。あれはVがネロに正体を隠すためについた嘘で、本当はバージルの悪魔の部分。Vは、バージルのもう半分である人間の魂がどうにか形を留めていたに過ぎず、いつ消えてもおかしくないほどに脆い存在であったが、再び悪魔の部分と一つになることでバージル本来の姿を取り戻したということ。
「なんだよ、それ」
 自分だけ何も知らなかったことにも腹が立った。だがおっさんは、相手がバージルだと、自分の兄だと分かっていながら戦っていたんだと思うと、怒りで気が変になりそうだった。
「誤算だったのは……若がVにほだされ、あろうことかバージルの味方についたことだ」
 目を閉じながらそう口にしている二代目の様子は、異様だった。
 嫌な言葉が飛び出してくると、ネロの直感が告げている。事実、目の前にいる二人は何か良くないことを決意しているようで、だというのに二人はそれが当然のことだと態度で物語っていた。
「何があろうと、俺はバージルを討たなきゃならん。じゃないとここが魔界に飲まれちまう。そんでもって、若がバージルに加担するって言うなら、仕方ねえ」
 何が仕方ないのだ? 並行世界の人物であるとは言え、おっさんは同一人物である自分すらも手にかけようとでも言うのか?
「ネロ。すまないが、Vが真の姿を取り戻してしまった以上、もうお前を連れて行くわけにはいかない。そこに若まで加わったとなれば、余計にだ」
 ここまで連れてきておいて、今更になって帰れと二代目は言いたいのか? そんなのはあまりにも無責任だ。
「いい加減にしろよ。どんだけ俺のことを除け者にすれば気が済むんだ! 俺だって──」
 俺だってやれる。
 言葉には、出来なかった。
 やれるって、何をだ? 自分は何をする気なんだ? それが出来るということは、つまり自分の手で父と、家族のように暮らしてきた若を殺めるということだ。自分はそれを出来ると、言い切ってしまうのか?
 完全に勢いを失ったネロをその場に残し、おっさんと二代目はクリフォトの頂上を去った。一人佇むネロは少しした後、二人の後を追おうとして歩み始めたが、二人について行くということが何を意味しているのかが再び脳裏をよぎり、自分はどうすればいいのか分からなくなってしまった。