Goddess

 六月十五日午後三時三十三分。
 クリフォトの中層部に、奴はいた。一か月前と何も変わらない、眼前に立つ者すべてを狩り取る悪魔が何を見るわけでもなく、ただそこに在った。
 出来うる限りのことは試したものの、何一つとして成果を得られなかった三人に彼の者を討ち取れるだけの力は、ないに等しい。それでも挑まない選択などあり得なかったし、どの道手をこまねいていてもいつかは相手の方からやって来るだろう。準備も出来ていないままに奇襲を受けるぐらいなら、こちらから出向いた方がまだマシというものだ。
 二度目の対峙というのは、想像以上にいろんな感情が沸いてくるものだと初代は感じていた。悪魔なんていうのは出会ったその場で殺るか殺られるかの関係でしかないから、こうして同じ悪魔と顔をつき合わせること自体が珍しい経験だ。
 勝てるかどうかなんていう下らない思考を頭から追い出す。やれる限りのことをやる。そうしたら、最後に結果がついてくる。今はそれで十分だ。
 初代が魔剣スパーダを構えると、同じくバージルは閻魔刀を、ダイナはレヴェヨンを手にして唇をきつく結んでいた。
 生死を分けた戦いの火蓋を切って落としたのは三人の誰でもない、悪魔だった。
 この間と変わらない、視覚で追うには到底不可能な速さで相当に離れていたはずの距離を一瞬で詰め、手に握っている大剣を三人めがけて振り落としている。
 唯一反応できたのはバージルだけで、八本の幻影剣で大剣の軌道を数ミリずらす。お陰で間一髪避けることの出来た初代はそのまま悪魔の懐に飛び込み、一気に魔剣スパーダを突き立てた。同じく避けたダイナは跳躍し、レヴェヨンの持ち手をばらして背後から悪魔の体を拘束せんと操った。
 斬撃を外した悪魔は初代の攻撃からも、ダイナの拘束からも逃れようとはせず、自分の身体に突き立てられた魔剣スパーダのことも、身体中に絡みついたレヴェヨンも度外視して大剣を握っていない方の手を伸ばして初代の首を掴み、持ち上げ始めた。
「こい、つ……!」
 信じられないほどの力だった。魔剣スパーダが突き刺さっている部分は決して浅い傷ではないし、ダイナのレヴェヨンだって間違いなく身体の自由を奪っているはず。それをもろともせず首を絞め上げてくるのだから、たまったものではない。
 初代を助けようと悪魔の後ろに着地したダイナはさらにレヴェヨンを操って先端部分を相手の胸に突き刺す。バージルも更なる幻影剣を生成し、それらは初代を掴んでいる腕に全て刺しこんだ。極め付けに、閻魔刀で魔剣スパーダの刺さっている部分をさらに抉っていく。
 これだけしても、悪魔は動じなかった。まさに痛みを感じない不死身のような強靭さで初代を離すことなく、首をへし折ろうとしていた。
 喉を押さえつけられているために息を吐くことも、もちろん吸うことも許されず、当然声を出すなんて出来るわけがない。朦朧としていく意識を必死に繋ぎ止め、何とか脱出せんと悪魔の腕を叩き、体を蹴った。
「──っ、ぁ……」
 首の肉に悪魔の指が突き刺さる感覚が嫌というほどに伝わってくる。喉に溜まっていく血を吐き出すことも飲みこむことも出来ず、首の骨を折られる恐怖と窒息の苦痛に身悶えた。
 閻魔刀で斬っても、レヴェヨンで刺しても悪魔の動きは止まらない。自身が使える全てを持ってしてもどうにもならない現実を何とか変えたくて、ダイナはある物に手を伸ばした。
 悪魔自身が使っている大剣。これなら初代の首が折られる前に、悪魔の首を斬り落とせるかもしれない。そんな考えに至った時には既に行動していて、ダイナは悪魔が握っている大剣を奪い取ろうとした。だが残念ながらそれは叶わず、近付いた時に柄の部分で強く殴打され、後方へと蹴飛ばされていた。
「ダイナッ!」
 バージルの気が散漫になる瞬間を悪魔は見落とさなかった。しかし、本来の力を発揮できなかったのか斬撃は先ほどよりも遅く、また初代を掴んでいる方の手の力も緩まった。これを好機と見たバージルは自分に振り下ろされた大剣をいなし、初代を掴んでいる腕を怯ませて奪還に成功する。
 咳き込む初代を抱えて後方へと飛ばされたダイナの元にバージルは急ぐ。しかし悪魔の方が圧倒的に早く、次の標的に捉えられたのはダイナであった。
 柄で殴打された頬は切れ、蹴られた拍子にあばら骨が折れたせいで体を起こすのがやっとなダイナの眼前には、悪魔の顔があった。
 何も映していない虚のような右目と、鮮血で染めたような赤い左目。嘲笑うこともなければ怒りなどで歪むこともない一文字に結ばれた口。これが真の悪魔なのだと思わせるには十分過ぎる迫力があって、死を悟らせるには強烈すぎる存在感だった。
 大量の血が舞う。腹部に深々と刺さった大剣が抜かれる衝撃に耐えられず、体が引きずられる。あまりの痛みに嗚咽すると口の中が鉄の味でいっぱいになった。
 悪魔の後ろから幻影剣が飛んでくるがそれらは簡単に大剣で弾き落とされてしまう。悪魔は自身の胸に刺さっている魔剣スパーダを引き抜くとダイナの傍に投げ捨て、バージルに迫った。
 足手まといになるといけないとして初代はバージルの手から離れていたが、悪魔にとってはどちらであっても大差がないような実力でバージルを圧倒した後、また初代を狙った。
 魔剣スパーダを取りに行っている暇などない。初代はリベリオンを呼び、悪魔に応戦する。しかし、先ほどの一撃だって相手が避けなかったから当たっただけで、自分の実力で当てたわけじゃない。そのため、どれだけ剣を振るっても、鍔迫り合いになるどころか掠る場面すら訪れることはなかった。それは魔人化しても同じことで、二人がかりになって挑んでも、無情にも変わらなかった。
 力も、技量も、何もかもが圧倒的に違う。疲弊していくこちらと違って息一つ荒げることのない悪魔は、まさに魔王であった。
 どうすればこの悪魔に勝てるのか、何も思い浮かばない。地に伏せて息も絶え絶えのダイナと、魔人化しても歯が立たない初代とバージル。全員が満身創痍だった。
 実を言えば、バージルは全く策を用意していなかったわけではない。無論、それは無残にも打ち砕かれてしまった後だが、少なくとも悪魔に挑み始めた数分間は一縷の望みを持っていた。
 一月前に対峙した時、悪魔は……魔王ダンテは、ダイナの姿を覚えているかは分からないまでも、名前だけは覚えているということが分かった。あの日も何とか死なずに済んだのは、悪魔がダイナの名に反応し、剣先を鈍らせたり躊躇う素振りを見せてくれたお陰である。
 とは言え、こうして再び剣を交えて発覚したことといえば、名前は覚えていてもダイナその人の姿を認識出来ていないということだった。だから悪魔は躊躇うことなくダイナに剣を突き立てた。
 何を以ってしても打ち勝つことが出来ない。万事休すだった。
 それでも諦めずに初代とともに剣を悪魔に向けるが虚しく空を切るばかりで、気付けば二人して首を掴みあげられ、先ほどの二の舞だった。
 暴れ、もがく。魔人化を保っていられないほどに弱っていても、抵抗せずに死ぬなんて御免だった。初代も同じ思いのようで、先ほどよりも強く暴れ、もがいていた。
 宙に浮いた身体は悪魔が歩く度に揺れる。どこに向かっているのかも分からず、消えかかっていく意識の中で見えるものは黒だけだった。
 ──力を。
 誰かの呟く声が聞こえた気がしたが、誰のものであったのかを判断することはバージルにも、初代にもできなかった。もはや聞こえてきたと思ったものもただの石ころが転がった音でしかなく、声ではなかったのかもしれない。
 ──もっと力を!
 刹那、背後から爆風が撒き上がったかと思えば首の肉に食いこんでいた異物が取り除かれる感覚があった。朦朧としていた意識が今でははっきりとしていて、本当に自分たちが先ほどまで死にかけていたのかと錯覚するほどだった。
 尻餅をついている初代の肩にはオペラグローブのはめられた見たことのない手が添えられていて、それはバージルの肩にもあった。
「ダイナ、お前……」
 力なく呟かれた初代の言葉に反応して、バージルも顔を上げてダイナの姿を見る。
 自分たちのすぐ隣に立っていたのは、女性型の悪魔を背に纏い、頭部の右側に白の薔薇を模した髪飾りをつけ、腰にまで伸びた黒髪をなびかせているダイナだった。手には見たこともない鎌を持っていて、妙に馴染んでいるように見える。
 二人の肩に置かれている手はダイナが纏っている悪魔の手で、ドレスに隠されているようにも見える下半身はなく、幽霊のように浮いている。
 この状態をうまく表現するとするなら、半魔人化と言ったところか。今だ完全な悪魔にはなれないものの、そのすぐ近くにまで迫っている姿。ネロも覚醒すると同じような形態を取っていたから、原理は同じだろう。
「もう、傷つけさせない」
 どこか大人びた声が反響する。声自体はダイナのものであるが、悪魔になった時特有のくぐもった感じが大人のような声に聞こえさせた。
 突然起きたダイナの覚醒。自分たちが、或いはダイナ自身が死の淵にまで追いやられたからこそのものかとも考えたが、それにしては妙だ。ダイナの前で死にかけたことなんていうのは今までにも何度かあったし、逆にダイナ自身が死にかけたことだって何度かある。
 では何故、今になって?
「あの髪飾りは、墓場にあった……」
 数刻前に見た初代は忘れていなかった。ダイナが手の平に乗せると淡い光を放ってすぐに消えてしまった髪飾りこそが、今まさにダイナの頭部についているものだと。
 もう一度、ダイナの背後に現れた悪魔を観察する。仮面を被っているために素顔は分からないままだが、何よりも特徴的なのは背中に生えている翼だ。骨格は大樹の枝で出来ていて、右側は葉が一枚もついておらず、その枝をむき出しにしている。一方で左側には所狭しと葉がついており、空へ飛びたてそうだった。
 後は長く伸ばされた薄緑色の髪に、先ほどまで二人の肩に置かれていたオペラグローブのつけられた両手。悪魔でありながら、どこまでも品性の高さが垣間見えるような存在に、初代はふと心の声を漏らしていた。
「女神みたいだ」
 どれだけ見目麗しくても悪魔に変わりはないというのに、こんな感想を抱いたのは初めてだった。挙句、先ほどまで絶体絶命だったというのに、今では不思議な包容力のお陰で平静を保てている。だから初代は、ダイナが纏っている悪魔を女神のようだと思った。
「そうか……そういうことだったのか」
 女神という言葉を聞いて、バージルは納得する。そしてダイナの纏っている悪魔が彼女の母、エイルであると確信した。
 バージルはかつて、悪魔でありながら女神という異名を持った悪魔がいたという話を父、スパーダから聞いたことがある。当時は幼いながらに矛盾しているような話を信じられるわけもなく、父なりの下手くそなジョークか何かなんだと思っていた。一緒に聞いていたダンテもよく分からないけどそれはおかしいと言い切っていたから、地味ながら記憶に残っている。
 だが、父の話は嘘じゃなかった。自分の息子たちを楽しませるためのジョークでも、でまかせで言ったわけでも、ましてや作り話でもない。
 父は自分の配下であるダイナの母、エイルのことを言っていたのだ。悪魔でありながら更生したものには女神と見紛う優しさで慈悲を与え、心無き者はエイルが得意とする茨の鞭のように扱われる多節槍レヴェヨンでその身を引き裂かれたという。
 エイルのことを知っているバージルとしては、本当に一児の母なのかと疑ってしまうほどに天真爛漫な人で、危なっかしいおばさんという印象が強い。それでも皆で悪魔たちから逃げるために森の中を駆け抜けている時はその場にいる誰よりも強く、頼もしいと感じたのも本当だった。
 何より、この悪魔がエイルであるという証拠は今まさに起きた事象が物語っている。バージルと初代の傷を瞬時に癒し、疲労すらも取り除いでしまう絶大の効果を誇る治癒能力。当然身に纏っているダイナの腹部も綺麗に塞がっており、傷など見当たらない。
 それに、ダイナにこうして力を貸す者はそう多くない。疑う余地などなかった。
「バージル、行けるか?」
「無論だ。今までで一番、調子がいい」
 エイルの加護を受けた二人は立ち上がり、武器を構えなおす。己の内に秘められた悪魔の力を全開にし、二度目の魔人化を行い、ダイナを挟むように二人が並ぶ。
「次で、決着をつける」
 自身の身長を優に超える鎌を振りあげ、ダイナは闘志を燃やす。この魔具であれば──母の名を冠した魔具、魔鎌エイルであれば、悪魔が扱う大剣にも引けを取らないはず。大振りであるが故に小回りは利かないものの、今回は相手も同じような得物を使っているから問題ない。
 何が起きたのか把握をするために距離を取っていた悪魔が動き出した。相変わらず視覚不可能な速度についていくことは出来ないものの、エイルを纏っているダイナには関係ない。
 全方位に展開される茨の壁はたとえ目で追えない相手だろうと、捉えられる。ただし、消耗が激しいことな難点であるため、短期決戦で勝利をもぎ取る必要があった。
 背後から迫っていた悪魔の斬撃を茨の壁が受け止めたことを察知したダイナは魔鎌エイルを大きく横に振る。これなら逃げ道を限定出来るから、二人が急襲をかけやすい。
 悪魔はダイナの攻撃を避けるために跳躍した。そこにめがけて初代とバージルはそれぞれリベリオンと閻魔刀で斬りかかる。これに対し、異様なまでの反応速度で対応した悪魔は大剣を振るい、自身が傷を受ける事を必要なものと割り切って二人に斬撃を浴びせようとした。
「先ほど言った。もう、傷つけさせないと」
 二人に迫る大剣に、エイルの手から伸びた何重にも結ばれた茨が束となって悪魔の大剣を拘束する。そしてそのまま悪魔の腕を伝い、身体中を引き裂きながら自由を奪っていく。
「決めるぞ、バージル!」
「合わせろ、初代!」
 三位一体となって与えた一撃は悪魔の体を消滅させるに十分な力を放った。斬られた悪魔は地面に倒れ込み、ゆっくりと灰へ還っていく。
「ようやくだ。……ようやく、お前に休息を与えられる」
 消えゆく悪魔にバージルが話しかけ始めたことがダイナには理解出来ず、どうしたのだと訝しんだ。一方で初代は何も言わず、ただ黙って見守っている。
「今よりも力をつけておけ。……俺ももっと強くなって、いつかお前の元へ逝こう」
 言葉を紡ぎ終えると一瞬だけ、青い瞳がバージルを捉えた気がした。
「えっ──」
 ダイナは大きく目を見開き、息をすることも忘れてゆっくりと消えていく悪魔を凝視せざるを得なかった。何故なら鎧のような外殻が剥がれていき、中から姿を現したのはあの日から過ぎた時間分しっかりと成長を重ねた、もっとも自身が求めたダンテが出てきたからだ。
 この時になってようやっと悪魔の正体が誰であったのかを知ったダイナは狼狽し、気が遠くなった。
 ──ダンテを、殺した?
 身体中から力が抜けていく。立っていることも出来なくて、情けなく尻餅をつきそうになった身体を初代が支えてくれたおかげでどうにか崩れ落ちずに済んだ。
「ダンテはもう……とうの昔に死んでいる」
 目の前にいるのはかつて魔界を支配していた悪魔によって望んでもいない肉体へと改造され、意味もなく動き続けている傀儡に過ぎない。その素材として用いられたのがダンテの亡骸だったというだけで、残念ながらダンテが生き返っているわけではない、と。
 バージルの言いたいことが分からないわけじゃない。自分だってダンテの死は確認していて、それが間違いであってほしいと数え切れないほどに願った。生き返らせることが出来るなら、なんだってしただろう。だがそれは、こういうことじゃない。
 亡骸をいじくって悪魔へと変貌させ、生きとし生けるもの全てを狩りつくす、死神のような存在として生きていてほしいわけじゃない。
 ──解放してくれ。
 話しかけられた、気がした。ただ、朽ちていく目の前の悪魔が、ダンテが、そう願っていると感じた。
「……ダンテ」
 家族の名を口にすれば、初代が力強く抱きしめてくれた後、背中を押してくれた。
 ダイナは鎌を強く握り直し、二人の胸の中から出て自分の足で立ち、歩き、悪魔の前で魔鎌エイルを大きく振りかぶる。
「おやすみなさい」
 魔鎌エイルが最期に引き裂いたものは骸となった悪魔とダンテの魂、そして自身の瞳から零れ落ちた一滴の涙だった。

 ──ありがとうな。