六月十五日午前五時三十二分。
小雨が降り出した。
「車で行けるのはここまでだな」
CAUTIONの文字が書かれた黄色いテープの手前で車を止めた二代目は、雨が降っていることにも構わず最初に車から降りた。
地面の状態はひどい有様だった。地割れによってコンクリートは陥没し、割れている。人が通るのだってやっとの細道や、もっと言ってしまえば生き物が通るべき道とは思えないほどに崩れていて、この先へ進みたがる者などいないほどだ。
そんな中、電気だけは切れていないようで、ブティックだったであろう店の外に付けられている外灯や、普段であれば街をきれいに彩っていた飾りなどが今も煌々と辺りを照らしている。
「この先でVが待ってるんだろ? 行こうぜ」
二代目に続いて車から降りた若は阻むものなど何もないといった様子で、辛うじて残っている道を足早に進んでいく。後に続く二人も何も言わず、Vとの合流を急ぐべくして足場の悪い道を進んだ。
街中は道とはまた違った惨状だった。崩れて瓦礫の山となった家や店、移動販売でこの街に来ていたと思しき風船のつけられた車などが乗り捨てられている。そして配られたであろう風船は、小さな人の形をした中身のない、まるで枯れ木のような何かに紐が引っ掛かり、今もなお風に揺られていた。
一際大きな電光掲示板にはクリフォトの蔓が巻き付いており、所々破損している。ただ電力を送る電線は生きているようで、まだ陽の昇りきらない時間なのにここ一帯だけは刺激の強い光で満たされていた。
「なんでこんな街に悪魔が……何かあるのか?」
本体のクリフォトの樹と比べると小さいが、見上げないと全体像を視界に捉えられない程度に成長している、クリフォトの樹に類似したものが増えているを見てネロは呟いた。
先へ進んで悪魔を片している若にまで呟いた声が届くわけはなかったものの、傍を歩いている二代目は敢えて聞こえないふりをした。問いかけられたものではなかったことはもちろんのこと、たとえ何かあったとしても、最早些細なことでしかなかった。
事が起きたから、解決するために赴く。今回のことも今までの依頼となんら変わりはない。そのように二代目は割り切っていたから、何も答えることはなかった。
ペガサスを模った像が置かれた奥にある建物はどうやらホテルだったようだが、今は見る影もない。ロビーだった場所はクリフォトの根が張り巡らされていて、中には養分を抜かれた人間の殻がいくつか見受けられる。二階に続く階段は何とか形を保っているといった様子で、いつ崩れ出してもおかしくない。
しかし、建物自体はそれなりの強度を持って作られていたのか、皮肉にも根によって支えられているのかは定かではないが、根の這っていない部分は当時の様相を保っており、家具なども若干の汚れはあれど使えそうなものもあった。
ホテル内を進んだ先はさらにクリフォトの蔓の侵攻が進んでおり、元は中央廊下であった場所は綺麗に吹き抜けに変えられていて、一部分の壁は跡形もなく消えていた。
「俺たちの方が速そうだぜ」
若が指さすは消え去った壁の先。見れば、Vが悪魔たちと戦っている様子だった。道が繋がっていないためこの場で合流することは不可能だが、もう少し進めばいずれ会えるだろう。
わざわざ声を張り上げるなどといったことはせず、三人はホテルの中をぐるりと回って反対側の方へと出る。どちらがこのホテルの正面だったのかは分からないが、形状から見るとどちらからも入れる仕組みになっているから、恐らく正面という概念はないと思われた。
ホテルの上層にあるバルコニーから見えるのは先ほども見た、新たに成長しているクリフォトの樹。あんなものがいくつも出来上がっているのかと考えるとやる気が削がれてしまいそうだ。
「つくづく、クソみてぇな樹だ」
なんて言いながら目指すのはそのクソみたいな樹のたもと。通れる道がそこへ向かう場所しかないというのも事実だし、放っておく気がないのも事実。他の二人もそれで良しとしているから黙々と歩を進めている。
辿り着いたのは高さだけはホテルほどもある建物。白を基調とした外壁と厳かな柱で建てられたここは教会のようだ。もっとも、屋根の上も道とは言えないのだが完全に八方塞がりになってしまったと思っていた矢先、上から黄色い車が勢いよく降ってきた。
若と二代目は左右に躱したがネロは正面から車に当たった──ように見えた。何回も横転した車は綺麗にタイヤが地面に着き、側面についている扉が吹き飛ばされる。中からは平然とした顔でネロがひどい臭いだと言いながら出てきた。
「人間……まだ生き残りがいたか!」
くぐもった声が空から聞こえてきたかと思えば大きな影が舞い、先ほどネロが飛び出した車の上に落ちた。
「生きてて悪かったな。それより、杖をついた男と待ち合わせ中でね。まさか、食ってねえよな?」
車を踏みつぶす巨体を相手にネロは声をかける。車と同じように潰される前に建物の上へと飛んで避難していたようだ。
「食うものか。人間の血は何よりも大切な贄だ。全ての血を捧げ、俺は魔界の王となるのだ!」
咆えた相手はネロの立っている建物ごと両腕で薙ぎ払うが、これもネロは軽やかに躱して別の建物に腰を下ろす。そして先ほど聞かされた発言に言葉を返した。
「王? お前が? 確かにデカイけど……それだけじゃな。特技もねえし頭も空っぽだろ? ガラじゃないぜ」
「人間め! 思い知らせてやる! このゴリアテ様の恐ろしさをな!」
巨体を持った悪魔──ゴリアテ──も馬鹿にされていると流石に分かったらしい。再びネロに蹴りを入れ、さらに拳で建物をただの瓦礫へと一瞬にして変えた。それすらも躱してゴリアテの背後に着地したネロに、ゴリアテは辺りに落ちている大きな建物の残骸を掴み取り、腹と思われる部分についている溶岩を溜めこんでいるような口の中へと入れ込んだ。
「おいおい、俺らのことは無視かよ」
ネロ以外のことを一切視野に入れようとしないゴリアテに対し、痺れを切らした若はわざわざネロの傍に降りてくる。二代目も特に何かあるわけではないまま、若と同じようにネロの傍に降り立った。
瞬間、ゴリアテの腹についている口の中から溶岩のようなものを纏った弾がものすごい勢いで発射された。何も警戒していなかった若は反応に遅れ、真正面から受けてしまうと思われた時、何かが視界を横切ってその塊を砕いていた。
「特技は手品と言ったところか」
バルログを装着した二代目が冗談を口にしながら若の前に立っており、これには若もネロも顔を背けて笑いを堪えるのに必死だった。そうしてひとしきり笑った後、若は言い放った。
「面接と行こうか。本当にお前が魔界の王に相応しいのか、俺たちが審査してやるよ」
若は閃光装具ベオウルフを呼び出し、ゴリアテの懐へ一気に詰め寄る。これが合図となり、二代目とネロも各々の武器を構えてゴリアテと対峙した。
怪力を誇る大型の悪魔ゴリアテは、自身の墓場となる教会にその巨体を倒れ込ませた。
「こんな所で死んでたまるか! あの果実は俺の物だ! ヤツより先に俺が……」
完全に弱りきっていても戦意は失っていないのか、よろめく体を立ち上がらせて腕を左右に振る。これに対してネロは鼻で笑ってブルーローズの照準を定めると、視界の中を青い何かが横切った。
「我は嘆き、そして悲しみ、自らの星を呪う。我が愛しき人を高め、卑しめたあの星を……」
それはVの使い魔だった。本を手に、詩を読みながら悠々と現れたVは杖をの持ち手部分をゴリアテに向ける。すると身体に描かれている奇怪なタトゥーが消えていき、杖から鳥とは別の、猫型の使い魔が飛び出し、鋭利な刃物へと変形してゴリアテを襲った。流石に立っているだけでもやっとのゴリアテに攻撃を避けられるはずはなく、真っ白になりながら前方へ倒れ込んだ。
「何故だ! お前は……!」
Vを見たゴリアテは驚愕と疑惑をはらんだ声色で何かを語ろうとするも、それすらも体力の限界で許されなかった。
「迷い子よ……家へと帰れ」
そう言い切ったVは杖の先端部分をゴリアテの眉間に突き立てる。奥まで差し込んでから引き抜くとゴリアテは完全に死んだことを意味する灰へと還っていった。
「食われちまったと思ってたぜ。腹の口でな」
ようやっと姿を見せたVに小言を言うネロ。対してVは悪びれることなく淡々と述べた。
「遅れてすまない。本を読んでいた」
取り出されたのは先ほど読み上げられた詩が書かれているであろう、表紙に大きくVの文字だけが入っている本。これを見せられたネロは面白そうと一切思っていない口調で言った。むしろ、この本を見て興味を示したのは若だった。別に見せてほしいとか、読ませてほしいなんてことを言ったわけではないが、どこかで見たことのあるような懐かしい感覚を思い出していた。
「で? おっさんはあの中か?」
ゴリアテを倒したことによって近くにあった、雲の遥か上にそびえ立つもっとも巨大な樹の次に大きかった樹が枯れていくのを確認したネロは、一番大きな樹を見上げながらVに問う。
「ユリゼンに敗れたとすれば、奴の体はとっくに“クリフォト”の養分だな」
「……何の養分?」
「クリフォト。魔界に生えるあの大樹の名だ」
聞けば、人の血を養分とする魔界の植物で、人間界と魔界との境界線がなくなったことによりクリフォトの樹が現出したのだという。血を吸われた人間は道中でも見かけた人の形をした枯れ木のようになる。だから、おっさんがユリゼンにやられてしまったのだとすると、クリフォト内部で敗れたおっさんも当然、クリフォトの養分にされているだろう。
「では、先ほど枯れたものは何だ?」
クリフォトの樹と呼ばれる本体が、雲を突き破った上にそびえ立っているものであるということは分かった。ではその子供のような大きさまで成長していたものは何だったのかと二代目が問うと、それについてもVは答えを返してくれた。
「あれはクリフォトの根だ。この先へ進むにはどの道、街への侵略拠点として築かれた魔界樹の根を駆除するほかない」
おっさんを助けたいという逸る気持ちに水を差すようなことを言われてネロは苛立った顔を晒すが、根を枯らさなくては大元に辿り着くことが出来ないのなら、やるしかない。
「なら二手に別れようぜ。俺はVと行く、いいだろ?」
若が提案したとおり、手分けした方が早いのは間違いない。しかし、なんだって急にVと共に行動することを自分から言いだしたのだろうか。Vも別段嫌がってはいなさそうだが、まさか自分が選ばれるとはといった様子で不思議がっている。
気になったネロが若に声をかけようとすると、二代目が横から割って入り、ネロの肩を叩いた。
「行こうか」
有無を言わさぬ迫力に気圧されて口を噤んでしまったが最後、Vに先導されて歩いていく若に声をかける機会は失われてしまった。それでも今はすべきことがあって、いつまでも話し込んでいるわけにもいかないと気持ちを切り替えたネロは二代目とともに、Vとは真逆の方向へと歩き出す。
「どこかで道が重なるか、クリフォトの下で落ち合おう」
最後に、背後から聞こえてきたのはVからの連絡事項だった。