Opaque future

 五月十七日午前八時三十分。
 レッドグレイブ市の南端、まだクリフォトの影響が少ない丘の上から、ネロとVが崩れていく街を見下ろしていた。傍には座り込んでいる二代目と、同じく意識を取り戻して自力で座り、ぼんやりと空を眺めている若の姿もある。二人の傷は癒えておらず、見るだけで痛々しく、時折表情を曇らせる原因になっていた。
 クリフォトの樹は中央広場を基点として着々と成長を続けている。魔界へと通じる穴でもあるクリフォトの成長が意味するところは即ち、この世界の魔界化を示唆していた。
「今思えばよォ……」
 重苦しい沈黙に構わず口を開いたのは、Vの使い魔である鳥だった。
「事前にこの街から人を避難させときゃもうちょいマシな状況だったんじゃね?」
 鳥の意見は一理ある。クリフォトの樹が成長するために使っているのは人間の血だ。だから栄養源である人間がいなければ、ここまで早く成長することはなかっただろう。
「言っても仕方のないことだ。どうせ誰も信じなかっただろうからな」
 Vは鳥の言葉に、独り言のように呟き返した。
 一体、どこの誰に話せば今回のことを信じてくれたというのだろうか。突如現れた樹は魔界のもので、人間を餌に成長する危険な物だから街を離れろと言ったところで、とんでもない妄想癖のある奴か、はたまた薬でもキメて頭がおかしくなってしまった奴に見られるのが関の山だ。それでも構わずに訴え続ければ警察のお世話になる羽目になっただろう。
 ならばVは、最善を尽くしたはずだ。
 伝説の悪魔狩人であるダンテに依頼を出し、さらに戦える可能性を秘めたネロまで呼んだ。その結果が今の光景だというのであれば、人を追い払っていたとしても、遅かれ早かれこうなっていたことに変わりはない。
「終わるのか?」
 ずっと空を見上げて何も考えていなさそうだった若がそう口にした。ぎらつく闘志を宿した瞳をVに向け、言葉をつけたす。
「この世界は、終わっちまうのか?」
 思わずVは息を呑んだ。若と呼ばれている彼もダンテなのだと理解してはいるが、Vからすればはっきり言って、偽物とまでは言わずとも魔剣士スパーダの息子であるダンテだとは信じられないような、曖昧な存在という認識でしかない。だが今の瞳を見せられては、考えを改めざるを得なかった。
 若はダンテである。同じく二代目も、ダンテである。自分が最も良く知っている、時間稼ぎをするために最後まで魔王と戦い続けたダンテとは別人でありながら、同じ存在なのだと。
「猶予は長く見て一ヶ月だ。一ヶ月の間にヤツを……魔王ユリゼンを倒せるだけの力を手に入れられれば、勝機はある」
 ネロの右腕を奪い、ダンテを破った悪魔、ユリゼンを倒すために残された時間は一ヶ月。
 力を手に入れられるならば何をしても構わないとVは言うものの、元々が完成されている彼らにとって新たなる力を手にするというのは大変に難しい。一ヶ月など、あってないようなものだ。
「なら決まりだ。さっさと傷を癒して再戦と行こうぜ」
 それでも、もう一度ユリゼンと戦うことは当然であるといった態度で若は立ち上がり、レッドグレイブ市に背を向けた。傷のせいで歩くのにも不安定さが残っているが、迷いは感じられない力強さがあった。
「何かあてがあるのか?」
「そんなもんねえよ。でもやらなきゃ世界が滅ぶっていうなら、やらない理由がねえだろ」
 答えになっていないようでありながら、若らしい回答に二代目が頬を緩めた。ネロも若の言うとおりだと頷き、Vに伝える。
「俺たちはフォルトゥナに帰る。まずは傷を治して、それから……力が手に入るかは分からねえけど、一ヶ月後、またここに戻ってくる」
 事務所ではなくフォルトゥナを選んだのは、レッドグレイブ市との距離を考えてだ。今は少しでも時間の浪費を抑えたいから、全員でフォルトゥナに帰ることにした。
「俺はこの街に残ろう」
 Vの言葉に若は歩みを止め、振り返る。二代目はネロに肩を貸してもらいながら立ち上がり、じっと街を見つめ続けるVの横顔を軽く見て、フォルトゥナへ行くようにネロを促した。
「Vなりに考えがあってのことだろう。俺たちも急ぐぞ」
「じゃあ一ヶ月後だ。一か月後、この街で会おう」
 ネロの言葉にVは静かに頷くと、鳥の足に掴まってゆっくりと降下していった。それを見届けた三人も改めてフォルトゥナへと足を進めた。

 五月二十四日午前十時十六分。
 ネロの帰還は、キリエにとってこの上ない歓びであった。
 また数年ぶりに顔を合わせた若と二代目とのことも快く受け入れ、手当てを施してくれた。適切な処置もあってか、若以上に深手を負っていた二代目の傷もようやく塞がり、万全とは言えずともそこそこに動ける状態にまで回復した。
「本当にこんな調子でユリゼンの野郎をぶっ倒せんのか?」
 遮蔽物によってくぐもった声が二代目の耳に届く。声の主は若で、現在大型車のバンの下に潜り込んでいる。
「俺はまだ戦える体ではないからな。なんとも言えん」
 ボンネットを開けてエンジンを見ている二代目は慣れた手つきで工具を扱い、使えない部品を外したり配線などの確認をしている。
「調子はどうだ?」
 買い物袋を持ってガレージに入ってきたネロは作業の進み具合を聞き、それに合わせた部品をあれやこれやと取り出す。そして必要なものを二代目と若にそれぞれ渡した。
 彼らが今、何をしているのか。一言で表すなら廃車寸前の大型バンの修理だ。
 実を言うと、この車の修理はずっと前からネロが一人で行っていたものである。強大な悪魔の出没をきっかけに、フォルトゥナの街へ帰る回数を増やすようになった理由はこの車の修理も兼ねられてのことであった。
 ネロが車を調達しようと思い至ったのにはいくつかの経緯があり、それを実行しだしてから結構の月日が流れている。本来であれば中古車でいいから今すぐに動くものを購入すればこの話は終わっているのだが、そうなっていないのには訳があった。
 単純な話だが、金がない。これに尽きた。
 あちこちを回り、ネロがようやっと手に入れたのはまともに走ることすら出来ない廃車寸前のバンであった。このバンをどうにか修理、改修しようとかなり前から一人でいじくりまわしていたが、今は若と二代目を入れた三人で直そうとしている。
 本音を言えば一人で全部直して、フォルトゥナから事務所にこの車で帰って驚かせてやりたかった。どうして車なんかを、と問われた時の答えまで用意してあったほどだ。結局はその答えを披露する機会もなくなってしまったので、聞かれてはいないが若と二代目に聞かせてやった。
「車を事務所にしようと思ったんだ。つまり、移動式便利屋だな。これだけ大きけりゃ全員乗れるし、活動範囲を広げられるから収益が増えるだろ」
 万年金欠であるおっさんの生活水準の低さを許容出来るわけはなく、一緒になった当時からどうにかして改善しなくてはと考えていたネロは結果として、今回の解へと行き着いた。我ながら妙案だと思ったネロはすぐに行動を始め、今に至る。
 もちろん、新たな力を手に入れることを諦めてたわけでも、ましてや忘れているわけでもない。フォルトゥナに帰って来て二、三日の間は力のことで頭がいっぱいだったネロは一日中、意味もなく動き回り、忙しなかった。
 そんな状態のネロを宥めたのは意外にも若だった。達観している二代目ではなく、いつもであれば自分よりも数倍暴れ回っているはずの若に落ち着くよう言われたのは相応の効果を発揮したようで、次の日には嘘のように大人しくなった。
 車を直そうと提案したのもネロだ。当日、レッドグレイブ市へ向かうための足は必要だし、何より二代目の傷が完治しない以上、力を手に入れるための行動も起こせない。現時点では一番強い二代目に稽古をつけてもらうことぐらいしか案がないため、ただ傷が治るのを待つぐらいなら車を修理してしまおうという考えに行き着いた。
 部品を二人に渡し終えたネロも工具を持って作業に取り掛かる。右腕がないため、なくなる以前と同じように作業は出来ないが、それでもただ待っているよりはずっと良かった。
 右腕については二人とも、特に何も言って来なかった。若は、自分の体の一部ではないにしろ、母親の形見であるアミュレットを失っていることもあってか、細心の注意を払って接してくれていることが分かる。それは決して腫れ物に触れないようにするようなよそよそしいものではなく、今のネロが元々の姿であったといった感じの接し方であった。
 二代目の接し方も、若に近い感じだった。一つだけ違うとすれば右腕があった場所を時折見つめて、何か考えを巡らせているような仕草を取ること。まるでそこに腕があるように凝視してくることもあるため、流石にその時ばかりは居心地の悪さを感じた。

 五月二十四日午後零時四十一分。
 キリエに作ってもらった料理を平らげた三人はすぐにガレージの方へ戻ることはせず、少しの間ゆっくりとしていた。
「傷の具合はどうですか?」
「もう大丈夫だ。心配かけて悪かったな」
 子どもたちの世話をしながら若や二代目のことにまで気を遣ってくれるキリエには頭が上がらない。だから出来る限り心配をかけないようにと若が体を動かしてみせれば、それは良かったとキリエは安心した表情を見せてくれた。
 二代目も心配する必要はないと伝え、実際に動けている証拠として先ほどの作業の話をした。今のペースで行けば部品の入手次第にはなるが、一週間の内には車が動くようになるとも。
 しかし、明るい話題ばかりを選んでいても、先のことを考えられるだけの知能がある者たちが抱く漠然とした不安を消し去ることは叶わない。
 ユリゼンを倒すために必要な新しい力のこと。最後まで戦い抜いたおっさんのこと。そして……。
「あいつら、どこにいるんだよ」
 世界の存亡がかかっているというこれ以上ない事件が起きているというのに、一度として姿を現さない三人は今、どこで、何をしているのか。考えても答えは出ず、どうしてとか、なんでとかのような意味を成さない言葉しか思い浮かばなかった。
「どこかで、戦ってる」
 誰かに向けた問いではなかった。ネロはただ、行き場のない思いを吐き出したくて、そう考えた時には口を衝いていた。もちろん、若もネロの気持ちを分かっている。その上で言葉を返したのは、自分が言ったとおりであるという確信があったからだ。根拠などなくても、どこかであの三人は事態を好転させるために何かと戦っているのだと感じていた。
「戦ってる? ユリゼンと?」
「ユリゼンじゃない。ユリゼンに匹敵するほどの何かだ」
 突拍子のない話だった。ユリゼンと同等の悪魔が存在しているなんていうのは到底信じられない。しかも、三人が戦っていると断言出来る情報もなしにどうして言いきれるのか、ネロには一切理解出来なかった。
 確信している若とは真逆の反応を示したネロ。この二人を黙って見守っていた二代目は難しい顔をするばかりで、最後まで会話に入ってくることは無かった。
 二代目自身、半信半疑なのだ。どちらの言い分も正しいと考えている。だから何も言いだせない。
 若が確信をもっているのは、実際にその身で“感じている”からだろう。二代目も同じ何かを、上手くは言い表せないが確かに“感じている”から分かる。
 一方で、ネロが全くと言っていいほどに信じていない気持ちも分かる。先ほど若が口にした内容は文字通り、全てが突拍子のないものだ。挙句、若と自分がただ何かを感じているだけという、他の誰かに信じて貰うことは不可能に近い話であった。何故ならこれは、感覚の話でしかないからだ。
 どちらかに加担することだけは間違いだろうと結論付けた二代目は今回の話題を頭から追い出し、フォルトゥナに来てからずっと考えていることについて、更なる思考を重ねることにしたのだった。