五月四日、午前九時四十六分。
明らかに街の者ではない三人組が、大股で足早に歩いていく光景はちょっとした恐怖を生んだ。フォルトゥナは元々外部の人間との交流がほとんどない。故に外部の人間という存在自体に良い顔をする者はいなかった。
すれ違う人々に怪訝な顔をされていることに露ほどの興味も持たずに三人が向かった先はキリエが電話で教えてくれた、ネロが搬送された病院である。先頭を歩いている小柄な女は慣れた足つきで目的地への道を選び、それについて行く体格のいい赤と青のコートをそれぞれ纏った男たち。
理由を知らないものが見れば、恐いと思うのは自然なことだった。
「着いた」
ダイナが足を止めた。目の前には、立派とは言えないがそこそこに機能が整っていそうな病院がある。病棟は知らないが、受付で聞けばすぐに分かるだろう。フォルトゥナの街にネロという名の人物は一人しかいないはずだから。
病院へと入ってすぐに受付へと向かい、ネロがどの部屋にいるのか聞きだした後、三人はすぐにその場を離れた。当然ながら他の患者や付き添いの家族、現場で働く看護師など、あらゆる人々から訝し気な視線を向けられたが気に留めることは一切なく、ネロの元へ急いだ。
受付で聞いた通りの病棟に来た。当たり前のことだが周りは静かなもので、看護師と自分たちの廊下を歩く音がやけに大きく響いて聞こえる。目的の扉を控えめに叩いた音も辺りに響き、今から病室に入ることを強調した。
「検査で……あっ」
中から扉を開けてくれたのはキリエだった。どうやらネロの容態を見に来ていたようで、看護師が検査にやって来たのだと思った様子。扉を開けた時は硬い表情を浮かべていたが、頼れる人間の到着にようやっとキリエは表情を崩した。
「随分と待たせてしまった。もう、心配いらない」
ダイナがそのように声をかければ、忙しい中来てくれてありがとうと感謝された。
キリエは本当に強い人だと、改めて思う。誰だって、自分の大切な人が傷つけば狼狽え、戸惑う。自分には何も出来ることなどないと、呆けてしまうことだって多い。しかし、キリエは違う。
誰よりも不安でいっぱいの中、医者を呼んでネロに手当てを受けさせ、その後も病院と孤児院を往復して世話をしなくてはならない子どもたちのことまで気にかけている。極限の状態と言っても差し支えないほどであるというのに、助けに来た人間に感謝の言葉を口に出来る者がどれほどいるだろうか。
「ここに来るまでの道中、悪魔の気配は認められなかった」
初対面であるにもかかわらず、脈絡のないバージルの発言に最初は理解を示せなかったキリエだったが、不器用ながらも気を遣っての言葉だと初代にそっと耳打ちをされ、微笑んだ。
わざわざ悪魔だといったのは、ネロのことを襲ったのは悪魔だと三人は判断していたからだ。理由は簡単なことで、ネロほどの実力者に普通の人間が敵うはずがないというものだった。
「さて、眠り姫のごとくお目覚めにならないネロの容態は……」
ずっと一人で頑張ってきたキリエの心情へのケアもそこそこに、肝心のネロに視線を移し、そして誰もが言葉を失った。
──ない。
在るべきはずのものが、失われている。
ネロの右腕が。悪魔の力を宿していた、あの禍々しい右腕が肘から先が綺麗に抜け落ちたように消え失せていた。
昏睡状態に陥っていると聞いた時から重体であることは分かっていた。だが、それの意味することが右腕を失うほどの傷だと想像出来た者はいるはずもなかった。ただ、これこそネロが生かされた手がかりでもあると考えられた。
キリエの連絡を受けてから、ずっと疑問だったことがある。ネロを重体にまで追い込むほどの力を有した悪魔の目的は何なのか、見当がつかなかったのだ。
多くの悪魔は狡猾だ。そして、人間をただの食料か、或いは路傍の石ほどにしか思っていない。だから最悪の場合、フォルトゥナは滅んでいたかもしれない。それほどの危険に晒されていてもおかしくなかったのだ。この街でネロ以上に悪魔を狩ることに長けた人物はおらず、ネロが敗れたとなれば当然、その悪魔を止められる者など街にはいないから。
だが、今回ネロを襲った悪魔は力を見せつけることが目的ではなかったらしい。事実、街には何一つとして被害は出ておらず、失われたのはネロの右腕だけ。
一見すると不自然極まりない行為だが、ある事実を知っていれば、合点がいく。
どのような理屈なのかは当人ですら分かっていなかったが、ネロの右腕には“閻魔刀”が収納されていた。つまり、今回ネロを襲った敵の目的は閻魔刀を求めていた可能性が高い。この過程が当たっていれば、ネロの生死に興味がなく、街を襲うこともなくこの地を去った説明もつく。
「今回の敵は、考えていた以上に厄介そうだ」
どうやって閻魔刀の存在を嗅ぎ付けたのか。そして閻魔刀を手にした悪魔は何をするつもりなのか。増える謎と同じだけ厄介事が増えていく現実を、初代は嘆かずにいられなかった。
五月四日、午前十一時二十二分。
珍しいことはとことん続くもので、一週間も経っていないというのに事務所の電話が存在を主張した。
「Devil May Cry」
受話器を取って、まずは様式美となった事務所の名前を伝えるおっさんだが、内心では面倒だと考えていた。Ｖと名乗った男からの依頼を受けている手前、新たな悪魔絡みの依頼が入るというのは正直に言って勘弁してほしかった。
告げられた悪魔の名を持つ者が本当に現れたというのなら、万全を期して臨まなくてはならない。だから人員を別の場所に割くことを避けたかった。
「俺だ。フォルトゥナに着いて、ネロの様子を見てきたから報告しておこうと思ってな」
電話をかけてきたのはどうやら初代のようだ。新たな仕事ではないことに安堵するとともに、こちらからも連絡したいことがあったので、好都合であった。
「丁度いい。デカイ仕事が入ったところでな。こっちからかけるつもりだった」
まさかのとんぼ返りをさせられると悟った初代はあからさまに嫌そうな声で抗議する。
「若がいるだろ。それでも足りねえってのか？」
詳細を知らない以上、デカイ仕事だと言われても行く気は起きない。若とおっさんがいれば十分事足りるだろうし、今は依頼のことよりネロの方が心配だ。電話をかけたのが自分でなかったとしても、今のネロの状態を見た仲間であれば、誰であったとしてもこの場から離れようとは思わないだろう。
ふと、初代は自分がイラついていることを感じ、何故こんなにも腹を立てているのか考えた。……この苛立ちは、おっさんが直々にネロの元へ行ってやらなかったことに対するものかも知れないと思い至り、心を静めた。
フォルトゥナ行きへ選ばれた誰もが思っていたはずだ。何故おっさんがネロの元へ行ってやらないのか、と。疑問には思ったが、その問いを口にする者はいなかった。
答えなど分かりきっていた。人一倍、頭が回る為に何でも自分で抱え込んで、加えて不器用で……。人のことは言えないので、これ以上は考えることを止した。
「坊やのことは感謝してる。だが、今回ばかりは連れて行けないんだ。眠っててもらった方が好都合なんだよ」
おっさんはネロの容態を知らない。悪魔の右腕がなくなったことを、知らない。だから平気で仕事には連れて行けないなどと言えるのだ。
「俺たちはおっさんの気持ちを汲んで、フォルトゥナ行きを快諾した。だが本当はおっさんが行くべきだったと……」
「みなまで言うな。それぐらい分かってる」
分かっているなら、いの一番に飛び出して行くべきだったのではないか？ 実際にされたら怒りはするだろうが、何を放り出してもネロの元へ駆けつけるべきだったのでは？
先ほど沈めた怒りが、再び湧き出てきた。
「じゃあ何だって言うんだ？ 俺たちはともかく、ネロはおっさんにとって唯一の家族だろ！」
病院に置かれている公衆電話からかけているということを忘れ、声を荒げる。近場の廊下を歩いていた他の利用者たちは驚いて初代を見たり、足早にその場を去っていったりした。
「おい。次同じこと言ったら怒るぞ」
受話器越しに聞こえてきたのは初代のように声を荒げはしないものの、声色を変えたおっさんの真剣な言葉だった。
「いいか。確かにネロは正真正銘、俺の家族だ。だが、ネロとお前たちの間に優劣を付けた覚えはない。……いいから聞け。聞けば、俺の言葉の意味が理解出来る」
有無を言わさぬ気迫が電話越しでも嫌というほど伝わってくるので、この時ばかりは正面切って話していないことに感謝するばかりだった。そして、話を聞き終えた後はおっさんへ怒りを向けたことへの申し訳なさが渦巻いた。
最初に言われたとおり、これはデカイ仕事だ。絶対にネロだけは巻き込んではいけない。
はっきり言えば、今回の討伐対象についてはあまり信じていない。依頼人がおっさんの興味を引くためのでまかせだったのだろうとすら考えている。しかし、興味を引くにしてもその名を知っている者がいるのか……。答えが出ない以上、指定された場所に赴き、己の目で確かめるしかない。
出来ればダイナとバージルも巻き込みたくないところだが、大声を出してしまった以上、何があったんだと無言の圧力をかけられるのは目に見えている。観念して伝える他ない。
……。本当に、ヤツが復活するなんてことがあり得るのだろうか。だとしたら、Ｖと名乗ったらしい依頼人はどうやってそのことを知り得た？
ネロを襲った悪魔のことといい、Ｖと名乗った男のことといい、頭の痛くなる問題ばかりが増えていく現状にため息ばかり出る。だが、どれだけ面倒ごとが増えたとしても、することは変わらない。
悪魔から大切な者たちを守る。初代の胸中にあるのはそれだけだ。
五月十六日、午後一時五十三分。
レッドグレイブ。
これが、おっさんが受けた依頼先、つまり都市の名前である。
現地集合を言い渡された初代は数日の間、どこまでをダイナとバージルに伝えるべきか悩んでいたが、結局のところは嘘が下手なことが災いし、聞いたことをすべて話すはめになった。
反応は至って普通だった。信じていないからこそ冷静だったのだろうと初代は考えているが、実際のところは分からない。
三人がフォルトゥナを発つまでに、ネロが目を覚ますことはなかった。
本人の口からどんな悪魔に襲われたかを聞けなかったのは痛手だ。しかし、それを差し引いたとしても、今回はネロと話す機会がなくて安堵しているのも事実である。
レッドグレイブ市にはヤツがいるかもしれないなんて、言えるわけがない。たとえ依頼人の勘違いだったとしても、それだけは言えるわけがなかった。
集合場所として指定されているのは中央広場。話によると、ここで依頼人が待っているらしい。遅れたあかつきには放っていくと言われたので、幾分か早めにフォルトゥナを発った。おかげで遅刻はしなさそうだ。
指定場所に近づくにつれ、遠目からでも存在自体は確認できていた異様な物体の形状が明らかになった。
それは巨大な樹木のようだった。天頂とおもしき部分は大きな球体になっていて、渦を巻いたような丸い模様が十個ほど見受けられる。
「これはこれは……随分と大層なもので」
何気ない一言だった。というより、初代は初めて見るのだから深い意味なんてなかった。
突然、何か大きな音が後ろから聞こえた。風もないというのに変だと思って振り返ると、音の原因はダイナが手に持っているケースを落とした音だと分かった。
ダイナは立ち止まり、呆然と樹木を見上げていた。かと思えば両手で自身の肩を抱き、震えてその場に縮こまってしまった。
「どうした？ 怖じけついたのか？」
発破をかけても反応がない。一体なんなんだとダイナに近寄ろうとして、同じように樹木を見て固まっているバージルが視界に入った。
「おいおい。バージルまでおかしくなっちまったとか言わないでくれよ」
確かに禍々しい様相をしているが、今更あの程度のものを見て怖いなどと思う連中ではない。だから余計、二人が樹木に対して何があるのか、さっぱり分からなかった。
「──っ。おい、集合場所は中央広場といったな。そこにあの木の根元があるのか」
初代が声をかけたことでバージルは我に返ったらしい。先ほどは反応しなかったくせに、自分の質問には答えろという態度なのだから困ったものだ。
「さあな。そこまでは聞いてない。それより、呆けて見つめてたがあの樹のこと、知ってんのか？」
次は俺の問いに答えろといった態度で返せばバージルは口を開きかけ、閉じた。そして黙ったまま視線をダイナに移し、今までに一度として向けたことのない、心配そうな瞳を晒した。
「……ダイナ、お前は帰れ」
一瞬、誰の声か分からなかった。相手を労わるような優しい声色があのバージルから発せられたなど、自分の耳で聞いたにもかかわらず、初代には信じられなかったのだ。
声をかけられた本人はというと、帰れという言葉に過敏に反応していた。大きくかぶりを振り、落としたケースを持って立ち上がる。震えあがってしまった身体を自ら咎め、何かを振り払い、抗うように話しだした。
「帰るのは、二人の方。……ここから先へは、行かせられない」
震えていたのが嘘だったように堂々と立ち、二人の数歩先で両腕を大きく広げ、子どもがするような通せんぼをした。
ここまで来て、今更何を馬鹿なことを言いだすんだと思った。明らかに人間界に存在しないものを目視しておいて帰るわけがないことぐらい、ダイナなら分かるはず。なので冗談半分で初代は聞いた。
「帰れ、ね。残ったダイナはどうするつもりなんだ？」
「おっさんたちと合流後、全員事務所に帰還させる。……依頼は私一人で遂行する」
本気であることを瞳が語っていた。ダイナはいま口にしたことを本気で達成しようとしている。さっきまで震えあがっていたというのに、よくそんなことが豪語出来るものだとつい鼻で笑ってしまった。
「ヤツと俺らを合わせたくないっていう粋な計らいか？ だったら……」
「違う！ あそこにいるのはっ……！」
ダイナは叫ぶ。天にそびえる球体部分を指さして何かを口にしようとした時、地面が大きく揺れた。どうやら巨大な樹木は今も着々と成長を進めているようで、肥大化を続けているらしい。今の揺れはその余波だったようだ。
「これ以上の成長はまずい。……俺はあの木の根元を目指す。お前たちは好きにしろ」
言うが早いか、バージルは中央広場へ向かう道から逸れて樹木が根を下ろしているであろう場所へと進路を変えた。当然、ダイナはバージルを止めようと後を追いかけ始める。
「おい！ 勝手な行動は……。ったく、何か知ってるなら説明しろよ！」
好き勝手行動する二人に業を煮やしながら、初代もバージルたちを追いかける。おっさんたちと合流したいのは山々だが、今はこの二人を見失う方が厄介なことになりそうだという直感があった。
「“クリフォトの樹”は魔界の植物だ。根元が魔界に繋がっているから、魔界側から斬るしかない。その上で閻魔刀を使って人間界と魔界を繋いでいる“門”を閉じる」
走りながら淡々と説明するバージルは、どうやらクリフォトの樹なるあの巨大植物が今回の根幹だと考えている様子。門というのは人間界と魔界を繋いでいる入口のようなもののことだ。この大元を絶ってしまえば依頼人の言っていた悪魔も消滅するのではないかということだろうか。
「魔界になんて、行かせられない」
「だから代わりに行くとでも？ お前一人が行っても、閻魔刀がなければ門を閉じられんだろう」
バージルの言い分はもっともだ。門を閉じるとなれば、ダイナがどんなに奮闘しても無駄だ。あればかりは人と魔を別つ力を有する閻魔刀がなければどうしようもない。
「魔界と繋がってるって、帰る算段はあるのか？」
「人間界側で閉じられる門を閻魔刀で作る。当然悪魔共も何匹か付いて来るだろうが……片してしまえば問題あるまい」
かなりの荒療治だが、提案としては悪くない。気になるのはバージルがこの樹木についてやけに詳しいことだが、普段から読み漁っている怪しげな書物の知識なのだろうか。他に不安があるとすれば、まだ隠していることがあるように見えることと、何なら今の一連の行動は全てバージルの独断だ。どうにも、クリフォトの樹を絶てば悪魔がいなくなるというのに信ぴょう性がない。
とはいえ、ここで自分だけ集合場所に向かおうなどとも思わない。一番は今からでも中央広場に行くことだが言っても聞かない奴らだし、ダイナがあそこまでクリフォトの樹の天頂を目指すことを拒んだ理由も気になる。
彼女が無茶を言うときは決まって仲間たちに危険がある時だ。昔より大分と融通を利かせられるようになったはずだが、先ほどはまるでこの世界に来た当初に戻ったと思わせるほどの必死さだった。とてもじゃないが、説き伏せられそうにない。
「おっさんにどやされるな……」
毎度ながら、ダイナかバージルのどちらかが絡むと碌なことにならない。今はその二人を抱えているので、望みなどあるわけがなかった。
いつも尻拭いをさせられている自分や二代目の身にもなってみろと、一度言ってやりたいものだ。