月と星々が夜闇を照らせど、明るさは感じられない。今の時刻で外を望んで練り歩くものはおらず、悪魔たちの時間になったと錯覚するような暗い日であった。
例に漏れることはなく、半魔たちも自室のベッドに身体を横にして疲れを癒している。良質な睡眠を取れるようにときっちり布団を身体にかけている者や、明日の朝になったら風邪を引きそうな格好の者など、寝方は様々であった。
眠っている者たちの中に、浅瀬にいるような感覚に囚われている者がいた。
本来であれば海底深くへ潜っていくように、深淵に包まれるように意識が浮上していないことこそが望ましいのだが、人間は時たま眠っている時にこういった現象に苛まれる。
また夢を見ているのだと、ダイナはうっすら理解する。
夢とはとても不思議な現象である。全く現実味のない内容のものを見たり、逆に現実よりも生々しい内容であったりする。
これらの面白い所は、起きるとほとんど思い出せなくなっていくということ。夢を見たという事実は確かに覚えていても、時が経つと加速的に記憶が薄れ、最後にはどんな内容であったのかすら思い出すことが困難になる。
それでも極たまに、鮮明に覚え続けている夢というのもまた、存在する。覚えている夢の内容が現実的であったかどうかは関係なく、その内容が役に立つものかということも関係なく、ただなんとなく、潜在的に記憶として残り続ける夢が確かに存在する。
ダイナにとって、夢は良いものではなかった。彼女の見ているものは映画のワンシーンを切り取って、その場面だけを何度も繰り返し見せられるというものであったからだ。
意識が浅く浮上し、夢を見ているのだとぼんやり理解出来る状態になるといつも現れる光景。まるであの日を繰り返すが如く、決まって同じ場面を見る。
何かから逃げるように、大人と子どもが入り乱れて森の中を走っている。一番耳につく音は銃声音で、次は金属がこすれる音。後は薄汚い笑い声や甲高い叫び。もっとも聞きたい声は小さく、身体が酸素を求める時の空気を吸い込む音だけで、もはや言葉ですらなかった。
説明を受けなくてもこれがどういった場面であるのか、ダイナは嫌というほどに知っている。これはダイナが全てを失った日の出来事だ。つまり、元居た世界の人間界が悪魔によって滅ぼされた日の記憶。
まず最初に、先ほどまで聞こえていた音の中で一番存在感のあった銃声音が消える。ダイナの父、隼が囮となって自分たちと共に走ることをやめ、森の中に留まったためだ。
これが最期になるというのに父と言葉を交わすことすら叶わないまま、幼き日のダイナは他の者たちと森の中を駆けた。だが少なくとも、この時は父と会えなくなると考えていなかったと思う。だから離れるのは嫌だとか、一緒に逃げようなんて言葉は思い浮かばなかった。父はすごく強い人で、悪魔になんか負けるわけがないと思っていたから。
次に失われたのはこの中で最後の人間である、双子の母エヴァの命だった。エヴァは悪魔の攻撃から──を庇い、一度命を落とした。この場にいた者たち全ての希望だったから皆、息が出来なくなるくらい動揺した。
逸早く我に返ったのはダイナの母、エイルであった。エイルは自分が使っていた魔具、多節槍レヴェヨンをダイナによこした後、エヴァの肌に触れた。エイルはダイナと違って生粋の悪魔であったから、傷を移せる幅が広かった。つまりそれは、死者転生すらも行えるということであった。
エヴァは息を吹き返した。まさに神の御業のようだった。自分の母にこのような力があるのだと知らなかったダイナはその奇跡を目の当たりにし、改めて母のことを尊敬した。
だが決して、エイルは神などではない。だから代償を払わなくてはならなかった。
命を戻すということは、代わりの命を捧げるということ。当然捧げられたのはエイル自身の命であった。
致死量の傷すらも自身に移し替えることが出来るという能力である以上、別の者の命を捧げることが出来るわけはなく、自分の命を他者に移すのと同意義であるこの力を使うのは当然エイル自身初めてのことであったから、ダイナが知らないのも無理はなかった。
この時だ。エイルが死の間際に残した言葉が長年彼女の想いを縛り上げることになるのと同時に、生にしがみ付かせることになった。
「彼女と、彼女の子供を守りなさい」
実の母と過ごす時間より、ダンテとバージル、そして二人の母であるエヴァと過ごしていた時間の方が遥かに長かったとしても、やはりダイナはエイルの娘。生まれた時からいつの日か、自分もスパーダに縁ある者たちを守る使命を帯びることを本能で理解していたのだろう。
迷いはなかった。多節槍レヴェヨンを渡された時になんとなく、こうなる運命にあったのだと悟っていたのかもしれない。力がないことに不安がなかったとは言えないが、守ることに疑問は抱かなかった。
もっとも、ダイナの決意など悪魔の軍勢の前では無に等しく、実現するにはあまりにも勝算のないことであった。
そもそも、この場で悪魔と対等に戦える人物はエイルと隼しかいなかった。その二人を失ってしまった以上、残された者たちに生き残れる可能性がどこにあったというのだろうか?
待っているのは凄惨な現実と、絶対に癒えることのない心の傷。力なき者は無慈悲に、惨たらしく、ただ玩具のように弄ばれ、命を奪われる。自分にとって大切であろうとも、なかろうとも、等しく散り逝くのだ。
エイルの能力によって生き永らえたエヴァは再びその身を引き裂かれることになった。二度も死ぬという経験をするというのはどれほどに苦しいものであっただろうか……。悪意あっての蘇生でないことは誰もが分かっていたことでも、エイルを非難する者はいただろう。ただ、エヴァ自身がそのようには考えていなかったであろうことが唯一の幸いだったのかもしれない。
母という指針を失ったエヴァの息子たちは惑う。悪魔たちに怒りと憎悪を覚えても、それ以上の恐怖が身体を縛った。
ダイナは己の無力さに絶望していた。エヴァに襲い掛かる悪魔に爪弾きされ、守るべき者を失った。自分という存在がこれほどまでにちっぽけで弱いのだと、理解させられた瞬間だった。
悪魔たちは卑しい笑みを顔に刻んでいた。勝ち誇った笑みを浮かべていた。嘲り笑っていた。
そして、最後の狩りを始めた。
反逆者スパーダの血族と、それに加担する者全てを根絶やしにするため、目の前にいる幼子三人に容赦なく襲い掛かった。
──場面が飛ぶ。森は焼け焦げ、辺りは火の海になっていた。何が起きたのか、ダイナは生きていた。……ダイナだけは、生きていた。
全身が赤かった。何か温かいものが覆いかぶさっていたはずがどれほど経ったのか、気付けば冷たくなっていて、そして重たかった。二つの温もりを感じていたはずだった。腕の中には確かに母から譲られた魔具があって、これで大切な者たちを守るはずであった。しかし、それは……守るべき者たちは一体どこに行ってしまったというのだろう?
目の前はただ暗くて、何も見えなかった。闇が怖くて、震える身体で必死に地面を這って、自分の上にかぶさっているものから這い出た。
自分にかぶさっていたものが何であったのか、見てはいけないような気がした。見てしまえば、認めなくてはならなかったから。同時に、見なくてはいけなかった。これが己が無力さが招いた惨劇であることを事実として受け止め、一生をかけて償わなくてはいけなかったから。
ゆっくりと振り返り、先ほどまで倒れ込んでいた場所を見る。自分に覆いかぶさっていたものは──。
再び場面が飛ぶ。燃え盛る森の中を歩いていた。ダイナは進んでいるつもりであったが、同じような風景に加え、元々の道の原型すらとどめていない森の中で方向など分かるわけもなく、知らずと来た道を戻っていた。
そこで見つけたのは、父の亡骸だった。原形を留めていない死体を見て父と分かったというよりは、死体が持っていた二丁拳銃が父のものであったから暫定的にそう判断した。
どれほどの時間、父の亡骸にすがっていたかは定かではない。ただ辺りは炎に包まれていて、いつまでもこの場に留まることを許してはくれなかった。煙に追い出されれるように森を後にせざるを得なかったダイナは母から譲られた魔具、多節槍レヴェヨンと、父の亡骸が持っていた二丁拳銃、ノワール&ブランを手に、守るべき者たちがいた森から離れた。
目が覚める。時計を見ると午前五時ぴったりを針が差している。朝食を作るために起きる時刻であった。いつものように布団から出て、着替えを済ませてキッチンへと向かう。
ダイナにとっての夢は不可思議な体験をしたり、よく分からないものをぼんやりと見たような気分を味わうというものではない。夢とは、過去に起きた出来事を走馬灯のように見せ、決してあの日に起きたことを忘れることのないよう、心の傷を再確認させるためのものであった。
他の誰でもない、己自身が絶対に己を許さないという楔。
それでも、夢は少しだけダイナに優しくもあった。もっとも見たくない光景だけは必ず夢にはならない。だから夢を見た日でも普段と変わらず、彼らに気付かれることなく日常に溶け込めている。
今日の朝食作りは二代目とだったが、夢を見たことに関しては二代目にすら気付かれたことは無い。
他人が夢を見たかどうかなど、本人が言い出さなければ分からないのだから気付かないのは当たり前と言いきってしまえばそれまでだとしても、何事においても隠し事が下手であるダイナが隠し事の気配すら見せないと言えば、仮面を被りきれていることが伝わるだろうか。
夢に見ない部分を忘れてしまっているわけではない。ただ、意図的に思い出さないようにはしている。ダイナにとっては忘れてはいけない記憶であるのと同時に、薄れさせたい記憶でもあるからだ。
「おっさん、次俺の取り分に手出したら昼飯抜く」
「少しくらいいいだろ? 器の小さい男に育てた覚えはないぞ」
「誰が育てただって?」
大所帯で食事をしているので、自分の分は自分で確保するのがこの事務所内独自のルール。取り皿に分けてあげるなんて心意気は誰一人として持っていないので、毎度争奪戦になる。今日はおっさんがあくびをしているうちにみんながあれよあれよと取っていったので、おっさんの取り皿の上は随分と寂しい。
だからと言って人様の物を取るのはご法度。……とはいえ、それが通じる相手でもないのがおっさんなので、いつもネロが怒りの鉄槌を振りかざすのだった。
ここ最近は気の滅入ることが多かったから、いつもの光景が微笑ましくて、気づけばダイナは笑みをこぼしていた。
「ダイナも笑うようになったよな」
顔を覗きこみながら、感慨深く若が言った。
思えば、ダイナの感情の起伏が乏しくなってしまった原因は過去に起きた、夢にすら見ない部分に秘められているのかもしれない。少なくともこの記憶はただただ苦痛に満ちていて、癒す術がない。この苦痛を和らげるために本能が取った行動が感情を殺すことだったと考えれば、少しは筋が通る。
「笑えるようになったのは、みんなのお陰」
心の底から笑えるようになったのは間違いなく、ここにいるみんなが自分を受け入れてくれたからこそ取り戻せた感覚である。
だから自分も、何でもいいから少しでも返せているものがあればいいと、切に願う。