ルルアノ・パトリエ 第14話

合宿当日、ララクは緑間とともに秀徳高校に来ていた。着いた人から、宿に向かうシャトルバスに乗り込んでいく。全員が乗り込んだことを確認し、先生が車を走らせる。そうして着いた宿は……
「げぇ……ボッロー……なんか出そうな感じ……」
「うるさいのだよ、高尾」
ブチブチと文句を言いながら自分の荷物を部屋に運ぶ高尾。その後を続くように緑間がついていく。ララクはどうやら朝食の準備で朝からキッチンの方にいるようだ。そんな廊下を歩いている二人は、ふと誰かとすれ違ったように思い、後ろを振り向く。
「ちょっ、アレ?」
「えっ」
「なっ……!」
「どうも。お久しぶりです」
そこには驚く火神と、しれっと挨拶をする黒子がいた。
「何故ここにいるのだよ!」
「それはこっちのセリフだよ!」
「秀徳は昔から、ここで一軍の調整合宿するのが、伝統なんだと」
「それがお前らはバカンスとは、いい身分なのだよ! その日焼けはなんだ?」
「バカンスじゃねぇよ!」
「えっ……」
火神に突っかかっていた緑間だったが、次に目に入った人物の姿を見て、素っ頓狂な声を出す。
「ちょっと!」
火神の後ろから女性の声が聞こえたかと思うとそこには……
「もうみんな食堂で待ってるんですけど?」
くまさんの描かれたエプロンと、手に持っている包丁には赤い何かを付けた女性が少し怒った顔で黒子たちを呼びに来ていた。しかし、その女性を見た男子4人は戦慄。見てはいけないものを見たような表情をしている。
「オマエの学校はなんなのだよ黒子!」
「誠凛高校です」
「そういうことではないのだよ!」
「あれ? 秀徳さん? そちらも食事の準備を終えて、みなさんそろってましたよ? 後これケチャップよ」
どうやら、監督が夏休み前に言っていた別の団体というのは、誠凛高校のことだったようだ。

緑間たちはどうやら、誠凛監督からの提案を受け入れ、合同練習をするようになったらしい。食事以外の時間は自由にしていていいと許しをもらっているララクも、体育館裏でこっそりと練習を始めていた。
「いい? アンカルジア」
「行くわよー!」
アンカルジアが空中でくるくると回ると、妖精の姿からみるみる杖へと形状を変えていく。それを手に取り思いを込めると、杖についている水晶が緑色に光り輝く。ラクアが杖を自身の前に一つ弧を描くと、そこにはララクを護るような障壁が出来る。
「小さな盾を一つ作ろうと思っただけなのに、こんな大きなものが……。コントロールが、取れない……。なんて、弱音を吐いている場合じゃないですよね」
地上界では天使と悪魔は思うように力を使えない。環境が違うというのが一番大きな要因だ。天界も魔界も地上界にはない、魔力と呼ばれる力の源がそこら中に溢れている。人はそれに当たりすぎると正気を保てないそうだが、天使や悪魔にとってはそれがないと思うように力を使えない。魔力の流れを良くするために杖などを媒体とし、力に強弱をつけたりするのだが、今のララクにそれは難しいようで……
「おっ……とと。いきなりこんな大技の練習?」
「そのつもりは……なかったの……。うまくコントロールが取れなくて、今の私では大技を打つことは出来ても、小さく細かいものをいくつも打つのは出来そうにない、かな……」
「その調子じゃすぐ息切れしちゃうよー」
すぐに力尽き、アンカルジアも元の妖精の姿に戻ってしまう。いつの間にかララクを囲んでいた緑色の障壁も姿を消し、そこには肩で息をしているララクだけがポツンと残っていた。
「例え真太郎さんが調停者としての力を解放できなかったとしても、私は最期まで護りたい……。そのために必要なことだから、もう少し練習に付き合ってくれる?」
「そんなの、当たり前じゃない! アタシとララクの仲なんだから!」
「ありがとう、アンカルジア」
こうしてララクはララクなりの、合宿の始まりだった……。

ララクが合宿の空いた時間を使い己の力を鍛えている間、緑間もバスケの練習に打ち込み終えた時間で、調停者とは何かを考えていた。絶対的な力を持っているという伝承は、天使や悪魔であれば誰でも知っているという割に、何故誰もその力がどういったものなのかを知らないのか……? そこがどうも引っかかっているようだった。
「だっはー。生き返るわー……」
高尾とともに湯船につかる緑間が、ふと口を開いた。
「……高尾」
「お、何? どったの?」
「絶対的な力、と聞いて……どんなものを思い浮かべる?」
「ハァ? なんだそりゃ」
珍しく緑間から声をかけてきたかと思えば、不躾に力とは何かと聞かれ、高尾は顔をしかめる。
「いや、何でもない。忘れるのだよ」
「んな神妙そうな顔して聞いてきたかと思えば今度は忘れろって? 嫌だね。とはいっても、力ねぇ……。拳銃みたいな、武器とか?」
高尾は、緑間の忘れろという言葉を一蹴し、とりあえず思ったままの意見を口にした。天使も悪魔も使っているのはそれぞれ形状は違えど武器。しかし、元は妖精という生き物だ。となると、絶対的な力という言葉がさすのは、科学的な力ということなのだろうか? 緑間は思考を巡らせる。最初の頃のララクを思うと、車や電車といったものにもかなり驚愕していた。知識としては持っていても、初めて見るといった感じだったのを踏まえると、天界や魔界に科学といったものが存在しないのだろう。
「科学的な力か。確かにそれならどういった力なのか知らないのも頷ける。しかしそれだと、きちんと学べばどんな人間でも使える代物なのだよ。そうではなく、たった一人が使えるものがいい」
ただそれだけでは、絶対的な力とは言い切れない。
「さらっと無茶なこと言うのな……。なんかの本の影響?」
緑間から投げかけられる無理難題に付き合うのが疲れたのか、高尾は話を変える。
「……特に深い意味はない」
「それはいいけどさっきから喋ってる相手、それライオン」
眼鏡を外して入浴している緑間は、置物と高尾の区別がついていないようだった。元の視力は相当悪いようだ。結局、何か手がかりを得られるわけでもなく、合宿一日目は終わった……。

「そっちの首尾はどうだ?」
「まぁ、ある程度は張り終えたわよ」
ラクアたちは今、どこまでも広がる海面の上に立っていた。太陽の光が海を照らすと、海面の上にうっすらと半透明の板が見え隠れする。
「流石に地上界でこれだけの魔力を維持するのは、それだけで体力を使い切りそうだ」
「あらやだ、まだ戦いは始まってすらいないのにもうダウン? 冗談は私と結婚するとかいうのだけにしてよね」
「地上界でも普段通りに動けるお前と一緒にするな。……やはりそれは、堕天しているのが原因か?」
「まぁ、そうでしょうね。まさかこんな所でも役に立つなんて思いもよらなかったわ。さて、固定しちゃうからもう少し維持していて頂戴ね」
そういってラクアが半透明の板をモーントクラインでコンコンと叩くと、肉眼で捉えられるようになる。
「おい、それは……! 全く、どれだけ自分を貶めれば気が済むんだ……」
「一回堕ちてしまったら、もう後は何でもやりたい放題だし、慣れれば結構便利よ?  ……固定完了、もういいわよ」
ラクアの固定完了という言葉を聞き、アクセルは半透明の板にドカッと座り込む。
「一旦休憩だ。ラクアも腰を下ろせ」
「何言ってるのよ。この程度で疲れてたら、本当に勝てるものも勝てなくなるわよ?」
「奴がいつ来るか完全に予測できない以上、疲れているときに来られるのが最も危険だ。それぐらい分かるだろう。……何を焦っている」
「……奴が来るって分かっていて、焦らない方がおかしいでしょう」
そういいながらラクアもアクセルの横に腰を下ろす。モーントクラインとラースフェルドも妖精の姿に戻る。
「休憩がてら、聞かせてもらおうか。……堕天した経緯を」
堕天という言葉を聞き、モーントクラインは沸々と湧き上がる怒りに体を震わせた。
「その話、モーントクラインの前では禁句」
「だったら武器の姿にでもなっていろ」
「何を勘違いしているのです。今は世界の危機ですから、仕方なく貴方みたいなのと協力態勢にありますけど、そうでなければ首を掻き切っているところです」
「主が何をしたというのだ。悪魔というだけですぐに見下す……。これだから天使に付く妖精は出来が悪い」
ラースフェルドの言葉で完全に堪忍袋の緒が切れたモーントクラインは飛び掛かる。その瞳は憎悪に染まっている。
「モーントクライン、止めなさい。……ラースフェルドも、私はともかくモーントクラインを煽らないで頂戴」
「ラースフェルドはかなり口が悪いからな。だがそちらも……」
「ラクア様を堕天させた張本人が白を切るその態度! 憎悪を通り越して殺意しか沸かない!」
ラクアの静止で一度は止まったモーントクラインだったが、今度は止まらなかった。アクセルに飛び掛かり、体当たりをする。妖精の体格でどうこう出来る相手でないのは百も承知で。
「ふぅ……。今までにも何度か話が噛み合わないと思うところはあったが、これでようやく謎が解けた。俺がラクアを堕天させたという真意、話してもらうぞ」
ベチベチと体当たりされていることを気にも留めず、アクセルはラクアに問い詰める。ラクアはどこか、居心地が悪そうだ。
「真意も何も、私は堕天使。ただそれだけよ」
「誤魔化すな。そもそも俺が堕天させた? バカを言うな。悪魔に天使を堕天させる力などあるものか」
「まだ嘘に嘘を重ねる気ですか! ラクア様は貴方が刺客として送った悪魔と戦い、傷つき堕天した! なのにこの期に及んで違うなどと……!」
「よく考えろ。それなら幾度となく行われてきた戦争の時点で、悪魔から攻撃を受けた天使はみな堕天しているはずだ。そんなことになれば、今頃天界は滅んでいる。……考えればおかしいと分かることであるはずが、モーントクラインの妄信的なまでの疑いのなさ。まさかとは思うがラクア……。相棒と言っても過言でない妖精にまで“何か”したわけじゃないだろうな」
ラクアは顔をあげず、観念したようにひとつ息を吐いた。
「ラクア様、悪魔の言葉に耳を貸す必要はありません。ラクア様を惑わす不届き者は皆、ワタシが……」
「もう、いいのよ。……本当、今だけはその鋭い勘を恨むわよ、アクセル」
ゆっくりと顔をあげるラクアの表情は今までに見せたことのない、負けを認めながらもどこか安堵している姿だった。しかし、ラクアのその表情はアクセルの言ったことをすべて肯定するのと同意義。モーントクラインは体当たりをやめ、へなへなと半透明の板の上に座り込んだ。
「堕天した原因は、言うまでもなく禁理……。つまり、呪術を使ったのだな?」
「そうよ。私は自ら望んで呪術を使い、堕天したわ」
「次期皇女がそんなことしたら……」
モーントクラインはピクリとも動かず、ただラクアの話を聞いている。ラースフェルドもまさかの内容につい声が漏れる。
「私は堕天してでも、成し遂げなくてはならないことがあった……。いえ、厳密にいえば、まだ続けなくてはいけない。……それにしても、どうして分かったのかしら? 私なりにかなり気配りしていたつもりなのだけど」
バレちゃったけど、と自傷気味に笑いながら何故アクセルが気付いたのか、そのことに興味があるようだ。
「一番の要因はモーントクラインだ。天使やそちら側に着く妖精が悪魔を目の敵にしているのは対して珍しい事ではないが、あまりにも俺への憎悪が異様だった。後はさっき使った呪術だ。地上界で魔力を固定化させる術は呪術しかない。まぁ、誰も使いたがらないような力でないと、大した力のない地上界などすぐに侵略されているからな」
「そう、私がきっかけを与えちゃったのね。まぁ、今は選り好みなんてしていられないし……滅んでしまったらそれまでだもの。仕方のないことだと割り切るわ」
今まで一人で抱え込み続けてきたことを吐き出したのか、ラクアはどこか毒の抜けた表情を浮かべる。
「事情は分かった。だがあまり呪術に頼り切るなよ。後戻りできなくなるぞ」
「ご忠告、どうもありがとう。……何故使ったとかは聞かないのね」
「堕天した原因が知れればそれでいい。だが、モーントクラインにはきちんと話しておけ。俺は作業に戻る」
そう言い残し、アクセルは持ち場へと戻っていった。ラクアとモーントクラインの間に、潮風が吹く。
「ラクア様はずっと、ワタシを騙してきたのですか」
「そういうことに、なるわね」
お互いに顔を合わせず、言葉だけのやり取りをする。
「魔王アクセルの言った“何か”をしたのですか」
「…………、したわ」
ラクアの答えにビクリと肩を震わせた。モーントクラインにとって、ラクアと共に過ごした日々全てが否定された気分だった。
「ワタシが、役立たずだったからですか?」
「いいえ」
「ワタシの存在が、邪魔だったからですか?」
「いいえ」
「ワタシはラクア様に嫌われる何かを、してしまいましたか?」
「いいえ」
分からない。ラクアの考えが。今のいいえという言葉の真意が。
「では、何故ですか?」
「……私が呪術を使う準備を整え、実行した日。あの日、私はモーントクラインに無茶な用事を頼み距離をとった。しかし、見通しが甘かった。私が想定している以上に呪術の発動に時間がかかってしまったこと。モーントクイランが私のために必死に用事を早く済ませてしまったこと。呪術を行う陣を危険なものだと察知し、貴女は私を守る為に飛び込んできたわ。……その結果、呪術は暴発。私は堕天し、血まみれの姿に。貴女は意識を失い、記憶がいくつか改ざんされてしまった。その改ざんされた記憶すら、私は利用した。その記憶を正しいものだと偽り、全てを欺いてきたわ。それが今、こうして私に全て帰ってきている。……それだけのことをしたのだから」
「最初から、ワタシを利用するつもりだったのですか」
「いいえ」
「事故……だったのですね」
「……そんな言葉で片づけていい内容ではないわ。たとえ呪術の暴発は事故だったとしても、その後のことは分かっていながら私は利用した。モーントクラインの心を操ったのよ」
「巻き込まないようにと、ワタシを気遣ってくださったのですね」
「結果、巻き込んでしまったけれど」
「ラクア様は、いつもそうですよね」
「えっ?」
モーントクラインは目尻に涙を溜めながら、ラクアの顔の前にまで飛び、目線を合わせて言った。
「何故、いつも相談してくださらないのですか?」
「自分ですべきことだからよ」
「嘘です」
「あら、手厳しい」
「本当は誰も巻き込みたくないからです」
「そんなに出来ていないわよ」
「逆です。何でも出来すぎてしまうから、自分一人で解決しなくてはと思い込んでしまうのです」
「そんなことないわよ。今回だってアクセルにララク、緑間さんまで頼っているわ」
「それも嘘です」
きっぱりと言い切られ、ラクアは困った顔をする。
「どこら辺が、嘘だったかしら」
「頼っていると言ったところです。それを証明するのは、先ほど使った呪術です」
「……いいわ。そこまで言い切るなら、モーントクイランの思惑を聞かせて頂戴」
コクリとモーントクラインは頷くと、こっちに来てくれとラクアを手招きし、作業を進めているアクセルのもとにまで移動した。
「ん……? もう話は終わったのか? 随分と早かったな」
「……魔王アクセル。このようなことを頼むのは筋違いだと分かっていながら、頼みがあります」
記憶がすり替わった結果としてアクセルを憎んでいたと分かったとはいえ、すぐに切り替えられるものではない。それでも頭を下げるモーントクラインを見て、アクセルは二つ返事をした。
「なんだ、言ってみろ」
「自身を護る盾は使えますか?」
「そこまで種類はないが、可能だ」
「一番小さいもので構いません。今ここで、使っていただきたいのです」
ラクアは何も言わない。意図が掴めないアクセルは少し悩む仕草を取ったが、行くぞと、自身を包む小さな盾を作った、その時だった。
「何っ!?」
先ほどまで足場だった板がアクセルを中心に四方八方を塞ぎ、閉じ込めるように形が変わったのだ。
「嘘でしょ……。あれを避けるなんて、どんな化け物じみた身体能力よ……」
間一髪で避けたアクセルを見て、ラクアは力なくうなだれる。
「モーントクライン、これは?」
「ラクア様の呪術です。先ほど魔力の固定化と一緒に仕込んだものだと思います」
「モーントクライン、私の完敗よ。それにしてもよく分かったわね」
仕込んだものすべてを見抜かれ、挙句効かなかったのは人生で生まれて初めてだった。ラクアは空を仰いでいる。
「ラクア、説明しろ」
「強制転移よ。盾魔法を使った術者を本来居るべき土地へ送り返すの」
「まさかここまで自分一人でどうにかしようとする奴だったとはな。独りよがりも大概にしておけ」
「今本気で反省してるわ。分かったところで避けられないものにしたつもりだったのにね。本当……アクセルのおかげで私の産まれてからしてきたこと全部、否定された気分だわ」
「戦闘が始まってからでは避けられなかった。……流石だな、モーントクライン。よくラクアのことを分かっている」
「貴女に褒められても嬉しくありません。ですが、ご協力ありがとうございました」
ペコリとアクセルにお辞儀をし、モーントクラインはラクアと向かい合う。
「……憎いでしょう? 何処までもまわりを欺き続ける私が」
「悲しいです」
「私といても、これからもずっと悲しい思いをするわ」
「逃げることは許しません」
モーントクラインの鋭い言葉に、ラクアは大きく目を見開いた。
「妖精にも主を選ぶ権利があるわ。私以外にも貴女をうまく使える者ならいくらでも……」
「逃げることは許しませんと、言いましたよね」
「……っ。私には、分からないのよ。こうする以外の生き方が」
弱弱しく言葉を紡ぐラクアに、今までの余裕は感じられない。心の底から参っているようだ。
「変わってください。ワタシも、変わりますから」
「変わるって……、他の生き方なんて……」
「ララク様を頼ってください。従者の者たちを頼ってください。ラクア様の身を案じてくれるまわりの者たちを頼ってください」
「私の抱えている業は重いわ。頼ったところで……」
「ワタシを、頼ってください」
モーントクラインのまっすぐな瞳に射貫かれ、ラクアは言葉を詰まらせる。瞳は潤み、今にも溢れだしそうな雫を必死にこらえている。
「私が、他者を頼るなんて……、したことがないのに……」
「出来ます。ラクア様は何でも出来る方です。頼るぐらい、造作もない事です」
「ふふっ……買い被りすぎよ……」
ラクアの頬を涙が伝っていく。同じく、モーントクラインも泣いている。涙が半透明の板の上に落ち、滴が飛び散る。
「ラクア様。私の主はラクア様以外ありえません。……嫌がっても、ついていきます」
「いつの間にそんなに頼もしくなって……。私が目を背け続けてきたから、見えなかったのね……」
泣き顔を見られないようにモーントクラインに背を向けると、後ろにはアクセルがいた。
「泣き顔を見られたくないなら、胸を貸してやるぞ」
「……えぇ。お願い、しようかしら」
「ラクアも、モーントクラインには頭が上がらんようだな」
「本当に。……ダメね、世界が滅ぶっていう時に、こんなに精神が不安定では……」
「今までの方がよほど不安定だったように感じるがな」
日の光は沈み切り、溶けた三日月が光を海面に届けていた……。

どこかの建物内に、革で出来た黒のショートパンツに、たわわな胸を辛うじて隠す革のブラジャーを身に纏っている女、カリーナはいた。
「本当最悪だわ。それもこれも、あのラクアとかいう堕天使のせいよ。……アクセル様、一体何を唆されてしまったのかしら……」
カリーナはどことも分からぬ建物内を、最愛の人物を思いながら彷徨っていた。彼女もまた、歪みゲートに幾度も捕まり、どことも分からぬ場所を行き来する羽目になっているようだ。
「力ガ、ホシイカ?」
建物内のどこからか、誰とも分からぬ声が響き渡る。突然の声にカリーナは臨戦態勢を取るものの、姿は見えない。
「誰! 出てきなさい!」
「ホシイナラバ、我ノ元ヘ来イ」
「力……?」
ラクアに負け、アクセルと取られたカリーナにとって、力というのは何とも甘美な誘惑であった。声がしたと思われる方に足を向け、進む。しばらくすると、大きな円形に広がる部屋にたどり着く。部屋の中央には、見上げても視界に捉えきれないほどの大きな繭がある。
「来タカ……。力ヲ欲スル者ヨ」
「あんたがあたしに話しかけてきた奴? そんな繭に閉じこもってないで、姿を見せたらどうなのよ」
「ソレモヨカロウ……」
繭にヒビが入り、そこから何かが、ゆっくりと這いずり出てくる。一番最初にカリーナが見たのは全身を包み込めるほどの長さをした金髪。次に視界に入ったのは、まさに怪物と一言で言い表したくなるような足先まで伸びる大きな左腕。手は空をも切り裂けるほどの爪。瞬間、カリーナの目の前は終わりのない赤色に染められた。
「……な……にっ」
カリーナは口から血を吐いた。腹には先ほどの繭から出てきた“何か”の爪が刺さり、大きな風穴が二つ開いている。そこからは止まることを知らない大量の鮮血が溢れ出る。
「汝ノ願イ、叶エヨウ。我ノ血肉トナリ、何者モ手ニ入レラレヌ力ヲ……!」
「ゃ……そ、んな……力……」
最後、視覚に映ったのは他者を食らうために存在する大きな口だった。ぐちゃぐちゃと肉が噛まれる音。バリボリと骨を砕く音。ゴクリと飲み込む音が建物内に響いた。
「コレガ、力有ル者ノ血肉……!」
カリーナを文字通り食べた“何か”は漲る力に打ち震え、骨格しかない翼を広げる。刹那、大きな円形に広がる部屋には繭だけが残り、先ほどまで食事をしていたはずの“何か”の姿はどこにもなかった。

調停者としての力そのものどころか、手掛かりすら探す暇がないほど合宿は厳しく、気付けば明日の朝には帰路へ着く前日の夜。食事係という任を終え、浜辺に腰を下して空を見上げるララクの姿があった。アンカルジアも同じく、ララクの肩にちょこんと座り、空を見上げている。
「この数日間、本当大変だったね」
「うん。よく乗り越えたなって、ちょっと自惚れちゃいそう」
少し疲れた顔色でエヘヘと笑うララクの髪を、フワフワと潮風が舞わせた。
「ここにいたのか。探したのだよ」
聞き慣れた声がする方に上体を捻ると、緑間がこちらにやってくる姿がばっちりと見えた。
「真太郎さん! 探していたって、何か用事でもありましたか?」
「いや、オレが個人的に話したいと思って探していただけなのだよ。……隣、座ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
ララクの二つ返事を聞き、緑間は腰を下ろし、どこかを見るわけでもなく海を眺めている。
「学校にいるときはこうして横に並んで話をすることぐらい、何ともないことだと思っていたが……。ここ数日を振り返ると、贅沢なことだったのだと思わされたのだよ」
「ふふっ……、どうしたんですか? 急にそんなことを言い出すなんて」
「思ったことを口にしただけなのだよ」
ぶっきらぼうにそういうと、眼鏡を押し上げ視線を泳がせている。らしくないことを言っているということに、どうやら自覚があるようだ。
「この当たり前の日常が……、もうすぐなくなってしまうかもしれないんですよね」
「そうだな……。だが、歪みゲートを発生させているのが奴なのだとしたら、もし奴がいなければ無論世界は平和なままだが、こうしてララクと出会うこともなかったのだよ」
「あっ……。そうですね、きっと今も私は天界で、皇女候補としての課題をこなしているだけの日々を送っていたでしょうし……」
なんだか変ですね。と少し困ったように笑いながら、ララクは押しては返す波を見る。
「皇女には、なれるのか?」
「実力だけでいえば絶対無理です。私、姉様に何か一つでも勝てたことありませんから。誰もが信じて疑っていませんでした。姉様が皇女になること。……でも、あんなことがあって、候補制になって……。これからの天界はどうなってしまうのかなって考えると不安でいっぱいです」
ララクの瞳が揺れる。これから始まる壮絶な戦い。それを乗り越えたとしても、問題は山ほど残っている。
「皇女というものがどういったものなのか、オレには想像もつかん。だが、どちらが皇女になったとしても、天界は大きく変わるのではないか? 少なくとも、あのアクセルが黙ってはいないのだよ。どうせ今までのことは水に流して協定を組もうとか言いだすに決まっている」
緑間の言葉に少しポカンとした顔ををしたララクだったが、クスクスと笑い出し
「アクセルさんなら言いそうです。あの時はびっくりしちゃいました。アクセルさんが姉様と仲良しになっているんですよ? 最初は肝が冷えっぱなしでした」
「オレも初めて対話したときは、生きた心地がしなかったのだよ」
当時のことを思い出し、二人とも少し表情が硬くなる。そんな二人に、さざ波の心地よい音が耳に入る。
「本当にいろんなことがありましたね。でもきっと、これが最後です」
「これが終わったら帰るのだな。……天界に」
「はい」
まっすぐな声。いつの日か別れることはお互いに覚悟している。それがきっと、この戦いが終わった後であろうことも。
「やはり……そうなのだな」
「私はきっと、これが最初で最後の恋なんだって、感じてます」
「……ララク?」
横から聞こえてくる声は、少し鼻声のように聞こえる。緑間がチラリと横目にララクを見ると、大量の涙が頬を流れていた。
「だ、男性とお話しなんて……今まで従者以外でいませんし……ぐすっ、これから先も、真太郎さんのことしか……かん、がえ……」
涙を何度も手で拭き取るが、それ以上に溢れてくる涙が止まらない。
「ララク……。オレもなのだよ」
泣き止まないララクを見かねてどうしたらいいか分からないなりに、緑間はそっとララクを抱き寄せようとする。その時、世界を照らしている溶けた三日月から、“何か”が這い出てきた。夜であるはずなのに空は赤く染まり、世界が……
「世界ハ我ノ力ニ依ッテ、ヒトツニ束ネラレヨウ……!」
世界が震えた――――。