六月十五日午前十時六分。
生家から数十分ほど歩いていると、先を見に行っていたグリフォンが戻ってきた。
「見付けたか?」
「あー……なんつーかその、よく分かんねえ悪魔が踊ってるぜ」
聞けば、残っている最後のクリフォトの根が人間の血を吸い上げているため、地面は血に濡れているらしい。にも関わらず、その近くで気持ち悪い悪魔が数匹、踊っているという。
「ならば行ってみるか。魔剣スパーダの気配は近い」
Vと同じように魔剣スパーダの気配を感じ取っている若は黙ったままついて行く。
直進出来ればクリフォトの根の元に着くにもそう時間は掛からないのだが、残念ながら道がないので迂回するしかない。少し遠回りになるが脇道にそれて、どうにか進めそうな道を選んでいく。
地面が盛り上がったり陥没したりしているため、ここが元々どういった場所であったのかというのは推測の域を出ないものの、辛うじて残っていたものを見るに、恐らく墓所だったのではないかと考えながら若は歩いていた。砕かれた大きな板状の石にはR.I.Pの文字が彫られていたり、二枚の羽が背中から生えている女性像が斜めに傾きながら地面に刺さっていたりしたから、推測でありながらもほとんど確信を持っていた。
──ここに埋葬された者たちの中に、自分の母も混ざっていたのだろうか。
たらればが頭をよぎり、若は舌打ちをした。
何故こんな場所に墓が立てられているのかなんて、嫌でもわかることだった。総勢百三十六人がたったの一時間弱で虐殺された、過去に類を見ない凶悪事件の被害にあった者たちの墓だ。犯人は結局見つからず、唯一の生存者と思われる子どもは行方不明のままという、どこまでも報われない者たちを土の中で安らかに眠ることすら許さないというように、墓所は荒れに荒れていた。
傷心に浸っていたためか、気づけば道を随分と下っていたようで地下水道に来ていた。ここら一帯も崩れているせいで水の流れを悪くしているが、どうにか堰き止めるまでには至っていないようで水害はなかった。
「えらく静かだな、Vちゃん。ママのことでも思い出してる?」
「思い出していないと言えば嘘になるな。俺には苦い思い出の街だ」
ずっと黙っていたVがグリフォンの問いに返した言葉を聞いて、自分だけが同じ思いを抱いていたわけではないという事実に、ほんの少しだけ心の霧が晴れた。
地下水道の先は天使と見て取れる偶像があることから教会墓地であることが分かる。グリフォン曰く、確かに辛気臭い場所ではあった。だが、ここを抜ければクリフォトの根の元に出られるだろう。同時に、魔剣スパーダの気配もさらに強くなっているのを感じられるから、確実に近づいているはずだ。
教会墓地を抜けるとクリフォトの根があった。そして根によって天井のドーム部分が崩されかけている教会墓地の壁には、探し求めていた魔剣スパーダが刺さっていた。後はグリフォンの報告通り、気持ちの悪い悪魔が数匹、踊っている。
「何やってんだろうな、アレ。何かの儀式? 魔剣スパーダに捧げるダンス?」
相変わらずのお喋りで踊っている悪魔にグリフォンが声をかけると、悪魔たちは踊りをやめてこちらに振り向き、敵意を向けてきた。
「よそ者お断り? 閉鎖的なのねェ」
「あれは返してもらうぜ」
いつまでも喋るグリフォンの一歩前に出た若はリベリオンで魔剣スパーダを指した後、踊る悪魔たちに斬りかかった。これに釣られるようにVもまた、戦いの中へと身を置くのだった。
怪奇な仮面をつけかえながら襲い来る踊っていた悪魔たちを退けた二人はクリフォトの根を枯らせた。崩れ落ちてくる破片によって、脆くなっていた教会墓地の天井も壊れていく。これでようやっと、魔剣スパーダを手にすることが出来るようになった。
杖を捨てたVが地面に落ちた魔剣スパーダを手にして全力を出すがしかし、振ることはおろか、持ち上げることすら叶わなかった。
「やはり俺には無理か……」
本人が一番よく分かっていたことではあるが、実際に試してみた結果としてダメだったというのは残念でならないようで、肩を落としている。
「何やってんだ。貸せよ」
引きずるようにしか運べないVを見かねた若が声をかけ、代わりに持つ。当たり前のように持ち上げた若を見たVは複雑な心境を抱きながらも、返せとは言わなかった。
「どうした?」
崖の下を見て唸る猫型の使い魔に声をかけたグリフォンはVから離れていく。一体どうしたのかと二人も近寄って下を見ると、そこには想像していなかったものがあった。
「ダンテ……」
まさかの存在にVが呟く。遠目だからはっきりとした状態はよく分からないが、確かにダンテが倒れている。
「おっさん!」
魔剣スパーダを掴んだまま、若は地面の状態など構わずに飛び降りると、これについて行くようにグリフォンも降下していった。Vも近場から降りられそうな場所を探し、ダンテの元へと急いだ。
先におっさんの元に着いた若は魔剣スパーダを地面に刺して、よく分からないガラクタからおっさんを引っ張り出し、地面に寝かせていた。
「おいおい、マジかよ! 信じらんねェな……生きてる! 生きてやがるぜ!」
「魔剣スパーダが、ダンテの気配を隠していたか」
遅れて降りてきたVもダンテが生きていたという状況に驚きながらも、どうして生き残れたのかを推察している。
「ったく、心配かけさせやがって。……まあ、死ぬ玉じゃないって信じてたぜ」
若もようやっとおっさんを見つけられたことに安堵し、大きな息を吐き出していた。魔剣スパーダが形見にならなくて済みそうだとか、ネロがどんな喜ぶ顔を見せるのかとか、そんなことを考えて。
「おい、V?」
先ほどまで呑気な喋りで笑っていたグリフォンが真剣な声色で若の背後を見た。
「ダメダメ! 落ち着こうぜ!」
何かを引きずる音に違和感を覚えた若が振り返ると、先ほど地面に刺しておいた魔剣スパーダを引きずりながらおっさんに近づいて来るVの姿があった。
「お前が敗れなければ俺は、こんな……。いや……」
ぶつぶつと何かを呟きながらも一心におっさんの元へとやってくるVは明らかに異常で、危険だった。
「V! よせよ……!」
「そもそもお前がいなければ!」
グリフォンの静止に耳を貸さず、隣にいる若に目もくれず、Vは手に持っていた魔剣スパーダを力いっぱい持ち上げ、そして──。
「俺は、今頃……!」
「やめろV! よせ!」
グリフォンの叫び声と同時に、魔剣スパーダの切っ先がおっさんの顔面に振り下ろされる。その瞬間、おっさんの瞳が大きく見開かれた。
同刻、六月十五日午前十時六分。
傷の癒えた三人は実家を後にして、ある塔へと向かっていた。実家からかなり遠くの地にそびえ立っているそこに辿り着くには相応の時間を有したが、それに見合うだけのものが手に入る可能性があるのならと、三人は黙々と足を動かしている。
約一ヶ月の間、引きこもりに近い生活をしていた初代が外に出て思ったのは、この世界はバージルの言ったとおり、なにもないということだった。人も、悪魔も、動物も、そして虫すらも、生命と呼ばれる存在全てが失われた、育みというものの機能が完全に停止した世界。
「まさに、地獄だな」
死後の世界と称される天国や地獄が本当に在るのだとしたら、地獄とはまさに今のような光景が永遠と広がっているのだろう。そう思わせるには充分過ぎるほどに寂れていて、もう二度と生命が芽吹くことはないと肌で感じられる、そんな世界だった。
「いろんな世界を見てきたけど……やはり、この世界が一番ひどいと、そう思ってしまう」
思い出があるからこそ公平な判断が出来ていないことをダイナは理解していたが、たとえここ以上の凄惨な世界を見たとしても、やはりダイナにとってはこの世界の有様がもっともひどいものに変わりはなかった。そして今、再びこの地を歩くことになったわけだが、過去に数十年と歩いた世界は数年離れた程度では何も変わってはいなかった。
「着いたぞ」
バージルの一言で立ち止まった二人は目の前にそびえ立つ塔をそれぞれ見上げる。
ダイナは塔の存在自体は知っていたものの、一度として足を踏み入れたことはなく、またこの建物が一体何であるのかは一切知らない。一方、初代はまさかこの塔があるとは思っていなかったようで、どういうことなのか説明しろとバージルに目で訴えていた。
「この程度のことでいちいち目くじらを立てるな。この世界には、人間界と魔界を繋ぐと言われているものはほぼほぼ現出している。テメンニグルに地獄門……挙げだせばキリがない」
言っておくが俺が開けたんじゃないと念を押された初代は唸りながらも納得していた。ここまで人間界が魔界と遜色ないほどにまで侵食されてしまう原因として、テメンニグル一つだけでは確かに足りない。だが他にも魔界と繋がる門がいくつも開いているなら、充分に今の世界を作り上げられるだろう。特に、一際大きな力を持っているのが今回の騒動の発端となったクリフォトなのだということにも理解が及んだ。
「これが、テメンニグル?」
ダイナも名前だけは何度も聞いた。いくつのも並行世界にいた全てのダンテがバージルと死闘を繰り広げた地。どちらもが自身の内にある魂の叫びに従い、己が信ずるもののために血を分けた兄弟同士で命を賭けた喧嘩をした場所。
この世界では残念ながらダンテは幼いままにして命を絶たれていたので、結果として血みどろの兄弟喧嘩が行われることはなかった。そして、バージル自身も力を求めはしたが探し人のお陰で固執するまでには至らず、昔から変わらない聡さと、家族を想う優しさを胸に秘めていた。だからテメンニグルの封印を解いてまで悪魔の力を求めるようなこともなかったが、何か一つが違えば、恐らくは死闘の地になっていただろう。
「また登ることになるとは夢にも思わなかったぜ……」
どれもこれも懐かしい物ばかりが溢れかえっていて、まるで過去に戻ったような感覚を味わう初代。嫌な思い出が残るものばかりだが、これだけ必要な物が揃っているのならフォースエッジがここに隠されている可能性にも信ぴょう性が沸くというものだ。
「魔界に近い場所に変わりないが、どうせ悪魔共はいないだろう。……行くぞ」
初代は首から提げている銀のアミュレットを握りしめた。先頭を歩くバージルの首にはもちろん金のアミュレットがある。後はフォースエッジさえあれば、二本の魔剣スパーダで魔王に挑めることを考えると、気持ちが逸った。
この銀のアミュレットは初代のものではない。これはバージルと話し込んだ日に、自分の部屋を探して見つけたものだ。まさにバージルが予想をつけていたとおりに残っていた銀のアミュレットを見つけてしまった以上、フォースエッジを探しだしたいと思うのは自然なことだった。
テメンニグル内部はここに来るまでの道と変わらず、クリフォトの蔓や根によってかなり損傷していた。何とか通れそうな道を選んで天頂を目指していると、クリフォトの蔓が絡み合いすぎてどうにも先に進めなくなってしまい、他の道も見つからないために立ち往生する羽目になった。
「ここまで来たってのに、植物如きに足止めされるとはな」
ぼやく初代はあからさまに苛立っていて、手当たり次第クリフォトの蔓をリベリオンで斬り落とそうとする。だが生命力が異常すぎて、闇雲に斬っただけではすぐに再生してしまい、取り除くことが出来ない。
「クリフォトは養分である人間の血を一部に蓄える習性がある。その血溜まりを潰すか、或いは元になっている根を潰さない限り、枯れることはない」
バージルの説明を受けた初代は一度手を止め、辺りをぐるりと見る。ダイナも血溜まりを探してみるものの、それらしきものはない。話に出てきたクリフォトの根は相当の大きさを誇ると事前に話を聞いていたから、もしも存在しているならテメンニグルへ辿り着くまでに見つけられていたはず。だが見かけなかった以上、この近くにクリフォトの根はないということだ。こうなっては血溜まりを探しだすしかない。
「探すと言っても、これだけ蔓がひしめきあっていては……」
はっきりいって無謀だ。何なら、血溜まりが蔓の奥に隠されてしまっていたら最後、駆除する手段はない。ならば迂回した方が進める可能性があるのではないかと誰もが考えたが、ここまで進めた道がそもそもここ以外になかったことも理解しているから、この場で足踏みするしかなかった。
十分以上探しても血溜まりは見つからず、初代だけでなくバージルの忍耐にも限界が訪れようとしていた時、事態は動いた。突然、ひしめきあっていたクリフォトの蔓が枯れ落ちたのだ。
「どうして……」
初代は疑問を口にしかけて、自然と言葉を飲みこんでいた。直感が告げたことは、もう一つの世界で仲間たちが道を切り開いているということ。だから目の前の蔓は枯れた。
元々、自分たちがこちらの世界に来たのだって魔界側からクリフォトを根元から断ち切って人間界の魔界化を止めるためであったし、それがたまたまダイナのいた世界だったというだけに過ぎないわけで、目的が変わったわけじゃない。だから今いる世界とおっさんたちのいる世界は、どういう理屈かは分からないまでも繋がっているはずだ。
「急ぐぞ」
仲間たちもまさに今戦っているのだと感じた三人は改めてテメンニグルの天頂を目指す。目の前に餌をぶら下げられた状態でお預けを食らっていたに等しかったから、初代とバージルの足は徐々に加速していく。
あるという保証はない。だが、きっとあるはずだ。そんな期待が驚くほどに膨らんでいることを二人は感じている。
そんな二人について行くダイナは、この先にあるかもしれないフォースエッジに期待と不安を抱いていた。
もしも──。もしも、フォースエッジがなかったら? いや、たとえあったとしても、何かしらの要因で魔剣スパーダに戻すことが出来なかったら? なまじ期待が高まるだけに、手に入らなかった時のことを考えると恐ろしい。特に、バージルが何を想うのか、心中を計りきれる自信がない。
それに魔剣スパーダを手に入れることが出来たとしても、ダイナ個人としては素直に喜べないことを理解していた。理由は簡単なもので、自分が強くなる方法ではないからだ。
別に、バージルが強くなることに異論はない。だが、力の差が今以上に大きくなってしまったら、きっと言われるだろう。
危険だから下がっていろ、と。
今回は事が事だけに、足を引っ張るぐらいならいないほうがマシだ。それほどまでに、この世界を支配した魔王は強い。だが、戦いの地にすら立たせてもらえないということは、自分の生きている存在全てを否定されたような気分になる。二人の無事を願うことしか許されず、黙って身を隠しているなど、到底許容できるものではない。
力が及ばないということが何よりも怖かった。大切な人たちを守ろうとして、悪魔に爪弾きされたことが今でも心に大きな傷を残している。このことを理解しているから、ダイナは不安でいっぱいだった。
様々な思いが交錯する中、二人の足が天頂に辿り着く。辺りは当然クリフォトの蔓だらけだったが、辛うじて中心部は損傷なく残っていた。
意を決したバージルが中央に立つと、探していたものの気配を確かに感じることが出来た。
「これは──」
フォースエッジはあった。バージルの推察通り、テメンニグルの天頂にフォースエッジは封印が解かれた状態で転がっていた。
砕かれた状態で。
「これでは……」
落胆の声が漏れる。砕かれてしまったフォースエッジの破片を手に取るバージルは何かを見ているようで、瞳には何も映していなかった。初代も息を呑んで、呼吸をすることすら忘れてしまったように微動だにしなくなった。
魔剣スパーダは諦めるしかない。考えなくても分かることだった。──納得できるかは別として。
「元には戻せない、か」
哀愁を帯びたバージルの声は黒雲に吸い込まれていくようにかき消える。
魔王が魔剣スパーダを放っておくはずがないことぐらい、考えればすぐに分かることだったはず。それに気付けなかったのはやはり、希望を抱いていたからか。銀のアミュレットが無事だったのだから、フォースエッジも無事であると自己暗示をかけてしまっていたのか。
言っても仕方のないことだとは分かっている。何を嘆いても結果は変わらない。魔剣スパーダがもう二度と手に入らないことも、魔王ダンテを討たねば未来はないことも、どれも変わらないのだ。
「バージル」
名前を呼ばれて振り返れば、闘志を宿したダイナの瞳があった。これが何を意味しているのか、読み取れないほどにまで頭が回らなくなってはいなかったから、瞳を伏せるしかなかった。
これでもう、ダイナに戦わせない理由を作ることは出来なくなった。新たな力を得られなかった以上、彼女の力を借りるしかない。死と隣り合わせの戦いであっても、三人で挑むしかなくなってしまった。
初代も、バージルが魔剣スパーダを携えることに期待を寄せていたから、手に入らないことを心底悔やんだ。純粋にバージルが父の名を冠する魔具を扱う姿を見たかったこともあるし、何よりダイナを戦地に同行させなくてはならなくなってしまったことを心の中で嘆いた。
「もう一か所だけ、寄りたいところがある」
おっさんの世界で、大量の人間たちがクリフォトの養分として使われてしまったことはこちらの世界にいても分かるほど、クリフォトは更なる成長を見せている。そんな時間的猶予があまり残されていない中で、バージルは最後に寄りたいところがあると言い、テメンニグルを下り始めた。
目的地は分からない。それでも二人は黙って先を行くバージルについて行くことにした。