Rout

 五月十六日、午後七時四十九分。
 Vに連れられて巨大な樹木の中へ侵入してしばらく歩いたところで、ネロは一度歩みを止めた。
 進路の遥か先の方に、巨大な悪魔と戦うおっさんの姿を見つけたからであった。距離があり過ぎてはっきりとは分からないが、決して余裕ではないにしろ、圧倒的な苦戦を強いられているようにも見えない。
「戦ってるのは……おっさんだけか」
 他の仲間たちの姿が見えないことは気がかりだ。これだけの大事であれば、おっさんが単騎で乗り込んだとは考えにくい。別の場所で戦っているのだろうか?
「まずいな。二人はもうやられているかもしれない」
「二人? 誰と誰だ?」
 Vの呟きに、ネロはすぐ反応した。やはり自分の考えていたとおり、おっさんは一人でこの樹木を登ったわけではなかったということだ。
「一人は若と、もう一人は二代目と呼びあっていた」
 名前を聞いて、自分がこの場に来た意味があったのかを考える。答えは言うまでもなかった。
「おっさん含めてその三人が向かったんなら、俺の出番なんかねえよ」
 半ばやけくそに言いきると、やや遅れていたVがネロのすぐ隣まで歩を進め、油断するなと窘めた。
「ヤツはお前の右腕を奪い、強大な力を得てるんだぞ」
 出会った時から一貫して悪魔の強さを訴えてくるVに対し、ネロだって言い返したい気持ちはあった。
 ネロの視線の先では今もまだおっさんが戦い続けている。相手である巨大な悪魔は身動きすることなく、ただ座しておっさんをあしらっているように見えた。確かにVの言うとおり、強大な悪魔であることは疑うまでもない。
 それでもだ。今だ戦い方に危うさの残る若ですら、自分よりも強いのだ。おっさんについては言わずもがなだし、二代目なんて事務所内で一番の実力の持ち主なんだ。そいつらが負けるわけがないと、言い返したかった。でもそうしなかったのは、自分が悪魔の元へ行く口実を潰してしまうことになりかねなかったからだ。
「俺が先行する。遅れるなよ」
 返事を待たずしてVは影に乗って滑るように先へ進んでいく。どうやら今の移動手段が彼にとって一番素早いのだろうことは見て分かった。
 謎の多い男だとネロはつくづく思う。
 風貌、言動、態度。短い時間の中ではあるものの、どれをとっても信用を寄せるに値しない。その一方でどういうわけか、Vを信じたいと思う自分がいることを否定できなかった。
 声、視線、或いは佇まい。それら全てが理屈抜きにネロの体と心を反応させるのだ。
「……閻魔刀は俺の手で取り戻す」
 Vへの思考を振りきるように、そして自分に言い聞かせるように呟いて、ネロは歩き出す。
 おっさんが倒しあぐねるような相手に、右腕を失った自分が勝てるのか。思いを巡らせずにはいられなかい。行き着く答えが芳しいものでないことも分かり切っていた。
 それでも、自分の手で閻魔刀を取り戻さなくてはいけないという強い思いがネロを突き動かす。
 閻魔刀はおっさんにとっても大きな意味を持っている、大切な魔具である。それを寄越してくれた時の、まるで子供をあやすために飴玉をくれるような気軽さに当時は驚いたりもしたが、相手が自分だったからこそ寄越してくれたのであって、別の人には寄越すどころか貸すことさえ拒んでいたであろうことは共に生活してよく分かった。
 だというのに、ネロは閻魔刀を奪われてしまった。悪魔の右腕と共に。
 おっさんの信用を裏切ってしまったという罪悪感。閻魔刀を守りきれなかったことへの後悔。これらが今のネロを突き動かす要因となっていた。

 五月十六日、午後八時五分。
「……遅くね?」
 先行しているVの傍を飛ぶ鳥が呟く。すると、Vの足元にいる猫のような形状をした影も同意するように小さく吠えた。
「猫ちゃんも“遅ェ”ってよ」
 これにはVもため息を漏らした。
 自分が先行した理由など言うまでもなく、ネロが少しでも楽に先へ進めるようにするためだ。この巨大な樹木、クリフォトの内部が魔界へとも通じる穴であるため、人間の血を求めて無数の悪魔がひしめきあっている。だからいちいち構ってなどいられない。
 それに今のネロは万全な状態ではない。なるべく浪費を抑えた上で、迅速に魔王の元へ辿り着かせることがVにとっての最優先事項であった。だというのに、道を阻む悪魔を退けて待っていても、当のネロは一向に現れない。
 背後では、まだダンテと魔王が戦っている気配がある。勝機があるとすれば、ダンテが無事である今の内にネロを送り届けることだけ。仮にVが一人でダンテに加勢したところで、力を失ってしまったVでは魔王に傷一つつけることは出来ないだろう。
「……戻るぞ」
 影の力を借りて来た道を戻ると、ネロが悪魔を屠っていた。片腕だというのに剣と銃を器用に使い分けて戦う姿に、懸念していたような危うさは感じられない。右腕こそ失ったものの、ネロには十分に戦う力が残っていた。
「なんだ? 戻ってきたのか?」
 呑気なことを言うネロにVは舌打ちをしながら近づく。
「言ったはずだ。お前なしで勝てる相手じゃない」
 明らかに苛立っているVに対してネロが口を開きかけた時、再び大量の悪魔がどこからともなく湧き出てくる。即座に、頭上を飛んでいた鳥が稲妻を撃ちだし、悪魔たちを焼いていく。
「分かってンのか、ヒーロー? さっさと行けってことだ! ここは俺達が引き受けてやるからよ!」
 促され、ネロはようやく納得したように武器をしまって先へと進んでいく。
「おい、V! さっさと手伝え! 俺達じゃ殺しきれねェ!」
 最後に聞こえてきたのはやかましい鳥の喚き声だった。

 五月十六日、午後八時三十七分。
 ネロが天頂に着いて魔王の姿をはっきりと捉えたとき、魔王の攻撃によって吹き飛ばされたおっさんが地面に叩きつけられ、呼び掛ける暇もなく意識を手放した。息はあるものの、すぐには目を覚ましそうになかったのでネロはおっさんの起こすのを諦め、周囲を見渡した。
「嘘、だろ」
 自分の目を疑わずにはいられない光景だった。
 身体中に傷を負い、血まみれになった若が仰向けのまま倒れている。二代目はうつ伏せなために傷の程度が分からないが、やはりこちらも意識がなかった。
 三人がかりで魔王にやられてしまったとでもいうのか?
 思案するネロをよそに魔王が小さく手を突き出すと、蔓のような触手がおっさんに向かって伸びていく。これを見たネロはすかさずブルーローズの引き鉄を引いていた。弾丸が命中した触手は怯んだように元の場所へと戻っていった。
「無駄足には……ならなかったな」
 ダンテたちでも勝てないというVの言葉が真実味を帯びてきたことを感じながら、ネロは複雑な表情を浮かべる。
 決して短くない時間を共に過ごした仲間たちに優劣はない。それでもやはり、おっさんだけは特別だった。何故ならおっさんは自分にとって、命の恩人であるからだ。
 自分の故郷で大きな惨事が起きてしまったことは事実である。しかし、そんな中でも今いるフォルトゥナの住人たちと、何よりキリエが無事でいてくれたことは間違いなくおっさんのおかげだ。
 だからいつの日か、恩を返せる日が来ればいいと心の奥底で願っていた。自分が救われたあの日のように、おっさんの危機を救えるような事があればいい。そんな風に。
「おい、そこのクソ野郎!」
 今がまさにその時だ。
「人の物は取っちゃダメよって、ママに教わらなかったのか?」
 今度は自分がおっさんを救う。
 一応、Vの言葉を信じて魔王に挑発を兼ねた問いかけをしてみたものの、魔王は一言も発することは無かった。だが、今のネロにはもう構うことではない。魔王が敵であることは分かり切っていたから、自分の右腕を奪っていようがいまいが倒すべき存在に変わりなかった。
 レッドクイーンの刃を地面に突き立ててグリップを捻ると炎を噴出し、低く唸った。
「悪いな、おっさん。この得物、俺が頂くぜ!」
 おっさんたちですら敵わなかった相手に対し、ネロは一心不乱に駆けだした。小細工などは一切通じないであろうことが分かっている以上、出来ることといえば真正面から全力の一太刀を浴びせることだけ。
「喰らいやがれッ!」
 レッドクイーンの推進力を活かして繰り出す横薙ぎの一撃は、奇妙な物体によって防がれる。当然、予測済みだ。こんな一撃が簡単に通るような相手におっさんたちは負けたりしない。
「まだだ……ッ!」
 全力の横薙ぎを受け止めた奇妙な物体を睨みながら、ネロはレッドクイーンのグリップをさらに捻る。噴射された推進剤と炎が更なる加速を剣先に与えるものの、なおも奇妙な物体は微動だにしない。
 目の前にあるため嫌でも直視することになるそれは若干の傷が見受けられる。つまり、誰かがこれに傷をつけたということだ。ならば壊せないはずがないと、ネロはさらに二度、三度とグリップを捻る。
「これでブッ壊れたっていい! 最大出力で押し切るしかねえんだよッ!」
 限界だと悲鳴のような駆動音を上げるレッドクイーン。だが、並の悪魔であれば両断出来ているはずの加速をもってしても、奇妙な物体を退けることはおろか、眼前から一ミリも動かすことも、ましてや傷をつけることすらも叶わなかった。
 ネロは視界の端で魔王が小さく手を掲げるのを捉える。玉座のような場所から触手が伸びて襲い掛かってきていることが分かったので、瞬時にブルーローズで撃ち落とさなくてはと思考は働いた。働いたが、いつも銃を扱う左腕がレッドクイーンを手にしている以上、どうにもならない。最大出力で加速しているレッドクイーンから手を離すことは不可能だ。ならばと右腕で受け止めようとして、愚かだと自分を罵った。
 今の自分にはもう、右腕はない。
「クソッタレ!」
 あと少し、時間があれば。
 せめて左腕だけでの戦いに慣れるだけの時間があればこんな単純なミスはしなかったのに、などと悔やみながら、ネロは触手の一撃をまともに受けた。
 腹部に鉄塊をぶつけられたような衝撃が走る。体の中で何かが裂けたような感じがした。痛みの声を上げたくても、あまりの圧迫に空気と胃液が漏れるばかりで叫べなかった。
 後方に大きく吹き飛ばされたネロは無様にも地面を転がった。辛うじて意識を保つことに成功したネロは必死に体を起こそうと腕に力を入れるが、自身の体重を支え切れず這うような体勢しか取れない。
「こりゃダメだ……もうオシマイだ!」
 背後で鳥の叫び声が聞こえてきた。遅れてやってきたVがようやく追いついたのだろう。だが今のネロには振り返って確認する程度の余力も残っていない。
 早く、次の一撃を。自分に出来ることをしなくては。頭で考えることは出来れど、体はついてこない。荒い息を整え、魔王を見つめるだけで限界だ。
 魔王がゆっくりと手を掲げた。
 自分にトドメを刺そうとしているのだと分かった。必死にブルーローズを手に取ろうとするが、体は動かない。諦めてたまるかと最期まで魔王を睨み付けていると、聞き慣れた銃声が響き渡り、魔王の手の動きが止まった。
 まさかと音の聞こえた方に視線を向ければいつ目を覚ましたのか、エボニー&アイボリーを構えたおっさんが立っていた。
「……ラウンドツーだ」
 おっさんは身構え、瞬時に悪魔の姿に変身する。そして何者であっても間に入ることを拒むような速度で魔王に突進していく。これでも魔王は容易く受け止めるのだから、たまったものではない。
 魔王とおっさんが激突した衝撃で地面が揺れ出す。ネロには不安定な足場というだけでも悪条件で、立ち上がって加勢しようにもうまく起き上がれない始末だった。そんなネロに追い打ちをかけるように、魔王はおっさんと戦いを続けながら触手を伸ばした。
 躱せない。悟ったネロは身を守るため、片腕を胸の前に持ってきて体を庇う。痛みに備えて歯を食いしばると鉄塊をぶつけられたような鈍痛がやってくる代わりに、再び銃声音が響いた。
「ここから離れるんだ……!」
 触手を退けたのは二代目だった。肩が上下に揺れているのは地面が震えているせいではないのだろう。若と大差ないほどに傷を負っている二代目は喋った拍子に逆流してきた血を吐き出し、なおもネロにここから離れるよう訴えかけた。
「V! ネロを連れて行け! 余計な真似しやがって!」
 次に聞こえてきたのはおっさんの声だった。鍔迫り合いのような格好で魔王と対峙しているおっさんは背後を振り返り、叫ぶ。
「ふざけんな! 俺はまだやれる!」
 反射的に言い返していた。不覚は取ったが、致命傷を受けたわけではない。ここで引き下がっては何のために来たのか分からない。何より、誰一人としてここに置いていくわけにはいかなかった。ネロは立ち上がり、おぼつかない足取りでおっさん方へと駆けだす。直後、おっさんの叫び声が再びネロの耳に届いた。
「下がれ、ネロ! お前じゃ足手まといなんだよ!」
 予想できるはずのない言葉に、ネロは足を止めていた。よもやそんな言葉をかけられるなど、思ってもいなかったからだ。
 足手まとい? 誰が? 自分が?
 おっさんが強いことなんて知っている。今は意識を失ってしまっている若が強いことも、肩で息をしている二代目が強いこともだ。
 今この場にいる中で一番弱いのが自分だということぐらい、悔しいが理解している。だが“足手まとい”とまで蔑まれるほどだとは思っていない。
 自分はおっさんたちを助けに来たのだ。少しでも助力になるべく駆けつけたのだ。
「ネロ、行くぞ!」
 思考するネロを現実に引き戻したのはVの声だった。さらに地面の揺れは激しさを増しており、この場に留まり続けることは危険だということは火を見るより明らかだ。それでも引き下がる気は毛頭なかった。
 動こうとしないネロの肩をVが掴むと、振り払われた。そして魔王の元へ駆けだすネロ。直後、崩壊した天井の破片があちこちに落下してくることに若以外の全員が気付いた。
 逸早く動き出したのは二代目だった。気を失ったまま倒れている若を背負い、身体中が痛むにも関わらずおっさんを背にして若を引きずり、魔王の前から立ち去ろうとしていた。一方ネロは破片を避けて前へ進もうとするものの、足元を襲った大きな揺れによろめき、後方に転がってしまった。そこへ次々と破片が落ちてきて、魔王への道を閉ざしつつあった。
 ──まだ間に合う。
 今立ち上がって駆けだせば、おっさんの元に辿り着ける。そんな風に考えて立ち上がったネロを押さえつけたのは他でもない、Vだった。
「逃げるんだ! ヤツの力は想像を遥かに超えていた!」
 声を荒げて後退させようとしてくるVを再び振り払おうとネロはもがく。ただ万全とは言えない体では抗いきれず、徐々に引きずられる形でおっさんとの距離が開いていく。そうしている間にも破片の落下は止むことなく、積み重なって壁を作っていく。
「“足手まとい”だと? ふざけんじゃねえぞ!」
 破片同士の隙間からは辛うじておっさんの姿を捉えられる。だから大声で否定の言葉をかけた。しかし、おっさんの姿が完全に見えなくなるその瞬間まで自分のことを見てくれることはなかった。最後に見えたのは自分にではなく、二代目にアイコンタクトを送ったような姿だった。
 自分がどんな思いでここまで来たか。自分を認めてくれたおっさんを助けるため、自分の不始末の責任を取るため、微力でも力になるためだ。それがまさか“微力”にすら値しない、文字どおりゴミのような扱いを受けるとは。挙句、おっさんが頼ったのは最後まで自分ではなく、二代目だった。
 悔しかった。腹立たしかった。言葉にならない怒りが胸を満たした。
 完全に魔王との道を遮断された時、ネロは呆然と立ち尽くした。もうVが抑え込む必要はなかった。
「すまない。手を貸してくれるか」
 弱々しい声で助けを求める二代目の姿を見て、我に返ったネロは慌てて駆け寄った。背負っている若を下ろしてやり、代わりに背負う。片腕しかないため背負ったというよりは半身を支えて引きずっているような形にしか出来なかったが、傷だらけの二代目にこれ以上の負担はかけられない。Vも二代目に肩を貸せば、あまり体重をかけ過ぎないよう遠慮がちに肩を借りていた。
「急ぐぞ……このままでは脱出も不可能になる」
 言って、二代目を連れてVが先を歩いていく。後をついて行く前にもう一度だけ後ろを振り返って、完全に遮断された道を見る。当たり前だが、何度見ても塞がれた道が開くことはない。
 今はここを脱出するためについて行くしかなかった。

 五月十七日、午前二時十八分。
 一体何が起きているのか、初代はほとんど分かっていなかった。
 たった半日前、魔界に繋がっているらしいクリフォトの樹の根元を目指すバージルと、それを止めようとするダイナを追いかけていた。結局止めることは出来なくて、根元に辿り着くや否や大きく口を開いている穴に飛び込むバージルを追って、ダイナと自分も魔界へ通じているであろう穴に飛び込んだ。
 ……ここまでだ。初代が把握できていることは、魔界に着いたんだというところで止まっている。
 降り立った場所は確かに魔界らしい様相をしていた。人間界では見かけられない、建物と呼ぶには些か歪すぎる物体から人間以上の太さを持つ植物など、まさに悪魔たちが好みそうな禍々しいもので溢れかえっていた。
 しかし、本当に魔界へと足を踏み入れたのだという余韻に浸る時間は与えられなかった。
 一体の悪魔が姿を見せたのだ。大きさは自分より頭二つ分ほど高い程度であったが視界に入れた瞬間、自身の体が強張っていくのを初代は感じた。
 その悪魔はまるで“死”そのもののようであった。出会ったら最後、何も残らない。かつて、自分が元いた世界で倒した魔帝ムンドゥスすらも霞んで見える、絶対の存在。同時に何故か、自分の姿と重なって見えた。
 この時初代は無意識の内に、人間であれば誰だってする“瞬き”をしていた。一瞬という表現がまさにふさわしいであろう時間、初代の視界は暗闇に閉ざされる。そして開かれた視界へ真っ先に飛び込んできた光景は、胸から腹部までを縦に斬られたダイナが自分の目の前で打ち上げられ、血を撒き上げながら後方へと飛ばされていく姿だった。
 理解出来たのは、ダイナが悪魔の攻撃から自分を庇ってくれたということだけ。悪魔がどんな攻撃を仕掛けてきたのか、そもそも自分はいつ狙われたのか、そしてそんな攻撃を何故ダイナは見切れたのか、全てが分からなかった。
 分からないことだらけの中、本能は確実に危険を察知し、体を反応させた。リベリオンを手に取り、先ほどは見えなかった攻撃に備えようとした時には重い一撃を受けていた。もう数瞬リベリオンを掴むのが遅かったらダイナと同じように空を舞っていただろう。
「貴様の相手は俺だ!」
 後ろからバージルの声が聞こえると幻影剣が初代の真横を通り、悪魔に向かって行く。悪魔は手に持っている禍々しい大剣を軽く振って幻影剣を叩き落とし、斬りかかるバージルを弾き飛ばした。
「初代! ダイナを連れて逃げろ!」
 焦りを滲ませ、大声で逃げろというバージルの姿を見ることなど、今までに一度としてあっただろうか。気付けば初代は考えるよりも先に体を動かし、言われたとおりダイナを抱えて下に向かっている道へと駆けだしていた。
 ここがどこなのかも分からないまま、とにかく下に続く道を走りながら初代は不安を覚える。
 本当にバージルを置いていっていいのか? 一度疑問を抱いてしまったが最後、意識のないダイナを背負っている自分が戻っても邪魔になるだけだと分かっていながら、道を下っている足に力を入れて止まろうとしていた。
「何をしている! 走れ!」
 遠くからバージルの叫び声が飛んできた。まだ先ほどの悪魔がいる場所から見える位置にしか移動できていないのかと思って後ろを振り返ると、全速力で走ってくるバージルがいた。
「さっきの悪魔は?」
「……動きを止めた。今の内にここから脱出する」
 先ほどの悪魔の動きをバージル一人で止められるとは到底考えられない。事実、動きが止まったと言うまでに若干の間があったことを考えると、バージルが足止めを成功させたというよりは何か別の……悪魔自身が動きを止めざるを得ないようなことがあったと考えた方が納得できる。
 どうやら初代の推測は当たっていたようで、上の方から尋常ではないほどの気配を纏った何かが急速に近づいて来るのを肌で感じた。バージルも感じ取っているようで、もっと速度を上げろと初代を急かした。

 五月十七日午前二時四十二分。
 荒い息を吐きながら、坂を転がり落ちるように駆けおりている二つの影がある。バージルはしきりに後方を気にしているようで、何度も振り返っては焦りを滲ませた表情を晒している。初代は全身を真っ赤に染めたダイナを背負い、ただただ余裕がないといった様子で走り続けていた。
「急げ! 追いつかれるぞ!」
 体力の限界を迎えたのか、徐々に遅れ始める初代にバージルが叫ぶ。これに対して言い返す気力も残っていない初代は歯を食いしばり、とにかく一歩でも前へと自分の体に鞭うった。
 刹那、真横を何かが通り過ぎる。すると抉られた壁が崩れ、巨大な穴が出来た。もしも真横を通り過ぎた何かが自分たちに直撃していたら、生き残れたかどうか……。
「もう来たか……」
 舌打ちをしながら振り返り、閻魔刀を構えるバージルの顔は険しい。決して諦めているわけではないが、敵わないことも悟っているようだった。初代も足を止め、背負っていたダイナを下ろそうとするとバージルに止められた。
「無駄だ。二人がかりになっても敵わん。お前はダイナを連れてここから出ろ。……俺が時間を稼ぐ」
「かっこいいこと言ってくれるね。だが、バージルを置いてったとなっちゃ後で目を覚ましたダイナにどやされる。それだけは勘弁だ」
 本音とも言い訳とも取れる言い分にバージルはさらに言葉を返そうとしたが、それよりも初代がダイナを下ろす方が早かったため、仕方がないと言葉に代わってため息を吐いた。これを了承だと受け取った初代は口角を上げ、リベリオンを構えて背後から迫り来る敵に備える。
 悪魔が現れた。顔だけは初代が魔人化したときの姿に似ている部分があるようにも見えるが、もはや魔人というよりは死神に近い。
 彼の者の前に立った命をすべて等しく狩る、万人に等しく凶事と死を撒き散らすもの。こんな表現がしっくり来る悪魔に出会う日が来るとは夢にも思わなかった。そして自分が狩る側ではなく、狩られる側になる日が来るとは。
 無論、ただでやられるつもりはない。同士討ちか、最悪でも一矢報いてバージルがダイナを連れて逃げれる程度の隙は作ってやる気概で死神にリベリオンを向けた時にはもう、自分の体にいくつか傷が出来ていた。
「クソッ、どうなってんだ」
 悪態をつきながら初代は真正面から突っ込んだ。相手の攻撃が早すぎて見えていないだけなのか、それとも本当に目には見えない攻撃なのかすら分からない以上、待ちの姿勢はただ不利になっていくだけだ。なら、真正面からぶつかっていくしかない。
 バージルも同じように突っ込んでくるあたり、同じ考えに至ったか、それとも自分に合わせてくれただけか。どちらにせよ、二人で押し切れなかった時は万事休すだ。
 死神は片手に持っている大剣を軽々しく振りあげ、初代とバージル二人を受け止めた。しばらく鍔迫り合いが続くものの、優勢なのは死神の方だった。死神が大剣に力を込めて押せば、二人は簡単に後方へ吹き飛ばされた。
 完全に体勢を崩されたバージルは地面に背中を打ち付け、痛みに顔を歪める。初代は寸でのところで体をひねることが出来たようで、上手く着地は出来なかったものの背中から落ちることを免れた。
 ただ、この状況は死神にとって絶好の機会であった。二人は自分に向かってくると覚悟を決め、ただではやられまいと武器を構えなおそうとして、戦慄した。
 死神の視線の先。そこには初代も、バージルもいなかった。
「ダイナ!」
 叫び、どちらが先か、ダイナを庇うように二人が飛び込む。そこに繰り出される容赦のない一撃が三人を襲い、あまりの衝撃に床が抜け、そのまま瓦礫と共に落ちていく。
 空を見上げても天頂が見えないほどにまで育ちきったクリフォトの中腹付近に大きな風穴が出来上がり、そこから三つの塊が風を切りながら落下していった。