未だ目当てのものを見出すことが叶わず……其が心は募っていた。気は急き、確証も無くただ闇雲に探しまわるも時ばかりが空しく過ぎ去り、全ては徒労に終わることの繰り返しだった。
翼の乙女は疲れていた。当所の無い探索にその身も心も疲れ果て、想いはやがて怒りへと変わった矢先に現れるは冥府の者たちと似て非なる波動を持つ二人。
強大な力を隠し持つ、人間に近しいそれに対して抱く想いは……恐れと羨望であった。
「貴方たちは、何者です」
翼の乙女はもう一度問う。それは求めているものを得られるかもしれないという期待と、深い後悔を振り払いたいという失意の念を感じられるものだった。
「何者でもない。ただ、在るべき場所へ帰りたいだけ」
ダイナは、これ以上の返答が出来なかった。何者だと問われても、答えるわけにはいかなかったからだ。
本当のことを言えば戦いを避けられない相手だと嫌でもわかる。目の前に降りてきた翼の乙女は見た目から分かるように、天使であるからだ。天使と悪魔は相容れないと本能が告げている。例えこちらからは危害を加えないと言ったところで、今回に限れば犯される側は天使たちである以上、どれだけ言葉を並べようと理解は得られまい。
それに、聞きたいことがあるのはこちらも同じだ。
「お前こそ、天使の真似事なんかして何者だよ」
メリアの時と同じく、ネロは挑発しながら問う。翼の乙女は特に表情を変えることは無く、淡々と言葉を返してきた。
「私は守護天使マリエッタ。神々に仕えし者であり、地上界の罪を裁きに来た……」
姿だけでなく、名前もどこか彼女に似ている。メリアの方は神に仕えているような高貴さはなかったが、他人の空似にしては気配までもが近しいというのは違和感がある。考えられる線としては姉妹か、双子か。可能性としては低いが、同一人物……なんてことも否定しきれない。何故なら、同じような現象を見てきているから。
「私たちは貴女と戦うつもりはない。この先から感じられる黒い波動を持つ者に用があるだけ」
マリエッタがここ、地上界に来た目的は分かった。メリアとの関係性も無理に問うことは無い。とにかく、先に進んで良いと、たった一言貰うことが出来れば何も言うことは無い。だが……。
「異分子を排除することが出来れば、力が付いたことを証明出来るかもしれない……」
翼の乙女が何を想い、何を憂いているかなど推し量れるわけもなく──。
武器を構えられては応戦するしかない。何事も、うまくは運んでくれない。それが世の常というものだ。
通してもらえないなら力づくでこじ開けるだけだが、それ以上に許せなかったのは異分子と言われたこと。異界に求められていないことは許容できようとも、自分たちの生まれ方すらも非難されたようで胸糞悪い。どこまでの意味を持って発言したかは知らないが、邪推してしまったことを流せるほど、大人にはなれていなかった。
天使に言われたから過剰に反応してしまったことは認めよう。それでもネロと同じように、ダイナも怒りを覚えた。
「物言いがムカつくんだよ!」
「押し通る!」
怒気を含んだ声を出し、二人は同時に駆けてマリエッタとの距離を一気に詰める。マリエッタは真正面から迫る突きと一太刀を後ろへ下がりながら少しでも多くの距離を開き、自身と刃たちの間に魔力で作った透明の障壁を隔てて威力を弱める。それでも相殺はしきれず、すぐにマリエッタを守る壁は砕け散った。
障壁は砕けども勢いは殺されてしまった。後ろへ下がられていたことも要因となり、切っ先が届くよりも先にマリエッタに上空へと逃げられてしまう。
夜闇に凛と舞う白き天使の姿は美しく、見る者を圧倒した。空を泳ぐように緋色の翼を動かし、適切な間合いを測って自身の羽根を一枚落とす。裁きの翼から落とされた羽根は瞬く間に金色へと変わり、一枚だったはずの羽根が分裂を繰り返し、数倍に増えた。
「伏せろ!」
空中を漂っていた羽根たちが静止したのが何を意味するのか察したネロは、ダイナごと地面に身体を横たわらせる。ダイナは背後から押し倒され胸を強く地面に打つが何も言わず、両手を頭の後ろに回す。
姿勢を低くしたのと同時に、頭上では爆発音が鳴り響いた。一つの羽根が起爆剤となり、連鎖していく。一枚残らず爆発を終えた羽根は跡形もなかった。
煙が風に巻き上げられ視界が広がると、伏せていた二人は左右に飛び退く。一閃が見えた次の瞬間、二人の居た場所には稲妻が落ち、大地を穿った。
「次はこっちの番だ!」
飛び退きながら態勢を整える体幹の強さは流石の一言だ。ブルーローズで牽制をかけ、マリエッタが支配する上空へと飛び上がる。しかし、どれだけネロの身体能力が優れていようとも空は飛べない。地を蹴って飛び上がれる距離も、滞空時間も限界がある。
それでも、ネロは身体が地面に落ち始めるのを感じてもマリエッタから視線を外すことは無く、一切下を見ない。
「翼無き者が空を制そうなどと……」
どれだけ上を見上げようと上がることはおろか、留まることすら出来はしない。
何故に愚かな行為を取るのかと考えども理解は出来ず……。マリエッタは哀れな者を見下ろしながら再び羽根を落とすべく、翼を羽ばたかせようとした。
「やりようはいくらでもあるってこと、教えてやるぜ」
今もなお高度は落ちているというのにその自信は何処から出てきているのか、まるで見当がつかない。ただのはったりだと割り切ることも可能ではあったが、あまりにも諦めが悪い。その強い自信は相手の自由を奪うほどの覇気へと変わり、マリエッタは怯ませ判断を鈍らせた。
さらに、マリエッタにとって恐るべきことは続く。翼無き者が再び高度を上げ、自分よりも高く舞い上がったのだ。
あり得るわけがないと動揺したマリエッタは視線を下に向ける。
すると、確かに下には謎を解明する手がかりがあった。地上からはダイナがレヴェヨンを鎖へと変えて足場の役割を担わせていたから、これを利用してネロが飛び上がったことを察するのは容易いことだった。
しかし、致命的なミスを犯していた。今すべきことは謎を解明することなどではない。遥か上空から襲い来る攻撃への対策を講じることこそが必要であった。
だがそれももう、遅すぎる。レッドクイーンに斬られ、身体に大きな傷を負う。ネロはそのまま地面に着地するが、マリエッタは緋色の翼を使って滞空し続けた。
「終わらせる」
ダイナは、地へ血を落とすマリエッタに更なる強襲をかける。自分で作った足場を使って先ほどのネロと同じように上空へ舞い、ノワール&ブランで翼を打ち抜こうとする。
飛んでからマリエッタに照準を定めるまでの一瞬、苦痛に顔を歪めていたマリエッタの表情が怒りに染まっていくのを見た。
「それは、私のもの……!」
何のことを言っているのか、分からなかった。こちらの気を逸らすための陽動なのかとも考えたが、怒りに身を任せて飛び込んでくる姿はあまりにも必死で、脅威だった。
しかもダイナは飛び上がった後。空にまで上がる手段はあれど、一度足場から離れてしまったら自由は無い。動く相手に銃弾を当てるのは至難の業だが、こうなった以上は乱射するぐらいしか思い浮かばない。出来うる限りの抵抗を試みるも翼の乙女の突進を防ぐ術は見つからず、空しくもマリエッタに懐に潜りこまれた。
「貴女には、相応しくない」
否定の言葉と共に伸ばされたマリエッタの手はダイナの首元を捉え、小さな魔法が手のひらから放たれた。
「あっ……!」
衝撃が走り、ダイナが仰け反る。落ち行く中で目に映ったのは、痛みに身体を強張らせながらも地へ落ち行くダイナを蔑むマリエッタの瞳と、光を反射してのみ存在を主張することの出来る粉になってしまった何か。最期の輝きを放つそれは落下しながら、ダイナの目元を通り過ぎた。
「ダイナッ!」
ネロは受け身を取ろうとしないダイナを呼びながら受け止める。明らかに様子がおかしく、一体どうしたんだと顔を覗きこんで、絶句した。
何も映していなかった。
まさかマリエッタにやられたのがそれほどにまで強力だったのかと焦るが、ダイナのある行動に目が留まった。先ほどからずっと、首元を触り続けているのだ。……何かを探すように。そこに在って当然であるものを触ろうとするように。
そこで気付く。いつの日だったかは忘れてしまったがある時、おっさんがダイナにロザリオのネックレスを贈り物として渡していたことを思い出す。チェーン自体は今も変わらずにダイナの首にかかっているが、肝心のロザリオは見当たらない。また彼女の目元が異様に輝くのを見て、先ほどの一連の出来事を理解した。
ロザリオは壊され、埋め込まれていたダイヤモンドも粉々になり、その粉末が付着して涙を流しているように見えたのだ。
「こんな所で、時間を食っているわけにはいかない……」
上から落ちてくる声に慌てて注意を向ければ、マリエッタは戦いの構えを解いていた。レッドクイーンで斬られた傷が相当深く、これ以上の戦いは厳しいと判断したようだ。
「……私の捨てた、私の弱き部分は今も探し求めている」
「何の話だ!」
「私はただ、さらなる昇華を……純粋に強くなれることを望んだ。それだけなのに……」
独り言を言い残してマリエッタは飛び去ってしまった。古城の前庭に取り残されたネロは一人、ダイナに掛ける言葉を考える。
精神的に弱っているダイナを見るのは初めてだ。いつも気を強く持ち、少なくともネロの前では弱音を吐くことも、このような姿を晒すこともなかった。言ったことは決して曲げない頑固者で、故に心配な面もあれど、やはり頼っていた部分がネロ自身の中にあった。それが、こんな……。
ロザリオを大切にしていたことは知っている。おっさんから初めて貰った贈り物だと喜ぶ姿も見ているし、装飾品一つに気後れして、似合っているかと何度も確認してきたこともあった。
思い入れが尋常ではなかった物であることは理解している。壊されたことにショックを受けるのもおかしくない。それでも、まるで殺されたように……ここまで意志を失ってしまう原因が何なのかが、分からない。
「ダイナ」
声をかけても反応は無い。肩を掴んで強めに揺らしても、意識を向けてくれない。これ以上、どのように気遣えばいいのかを考え続けた末、ネロが出した答えは──。
「歯、食いしばれよ」
気遣うことを止めることだった。
限界まで右腕を引き、ダイナの頬にめがけて振り抜く。相手は避けることすらしないから、当然のようにぶち当たった。顔が大きく揺れ、口から血を吐く。唇も切れたのか、口角を伝って血が流れた。
未だ心は離れていようとも、肉体を守るために本能が意識を覚醒させた。
……何を己が内に秘めようとも、意識を保ち、次に進むしかないのだ。少なくとも、今のダイナとネロにはそれ以外の道はない。
「元の世界に帰るんだろ。……目が覚めたなら、行くぞ」
立ち上がって手を差し伸べれば、視線を合わせてはくれなかったが手を掴んで立ち上がってくれた。一か八かの方法だったので内心は焦りと不安でいっぱいだったがなんとか最悪の事態は回避出来たようで、一先ずの危機は脱せられたんだと、ネロは自分に言い聞かせるのだった。
前庭から古城に入った先はエントランスになっていた。魔物の死体もいくつかあり、所々壊れている理由と、誰がやったのかを知ることが出来た。メリアは間違いなくここを通り、先へ進んでいる。
ダイナはロザリオを失った時のままだ。わざと歩く速度を上げてもついては来るものの、頼りない。今も首元から手をどけず、無くなったものに触れようとしている。
「……さっきは悪かった」
ダメ元で声をかけてみる。どうせ反応はしてもらえないと思いながら後ろを振り返れば、虚ろながらも顔を上げているダイナの姿を捉えられた。まさかの反応に、掛ける言葉を考えていなかったネロは動揺する。
「あ……その、あっと……。大切な物、だったんだよな」
聞かなくても知っていることを口走ってしまった。挙句にこの問いかけはひどいものだ。何故傷口に塩を塗るようなことをしてしまったんだと後悔するネロの心を知ってか知らずか、ダイナは重い口を開いた。
「そう。……大切な物。おっさんから貰った……大切な、絆だったの……」
視線を首元に落としたダイナは改めて、己の目でロザリオがなくなってしまったことを認識する。唇を噛みしめ、失意と苦悩をはらんだ表情を浮かべた。
「絆?」
ダイナが口を開いてくれたことにネロは気を緩めてしまったのか、疑問に思ったことをつい聞き返してしまう。とことんこういった場面に自分は向いていないと痛感しながら、口にしてしまった以上、責任を持つしかないと腹をくくった。
「永遠の絆。おっさんはそう言ってくれた。……なのに、私は守れなくて……無残にも、砕かれて……!」
首元を触っていた右手に力が込められ、身を抉る。傷口はすぐに塞がれていくものの、指先には血が付着した。
怒りで我を忘れるダイナの右手を慌てて掴み、身体を傷つけられなくしてからネロは言う。
「気持ちは分かる。大切な物が壊れちまった痛みもだ。……だけどさ、それでおっさんとの絆が失われるわけじゃないだろ」
しっかりと目を合わせれば、ダイナの瞳の奥底から何かを感じられた。絆は失われていないということを信じたいと想う気持ちを──確かに宿している。
「想いを伝えるために形あるものを渡す。大事にしてもらえたら、送った側はもちろん嬉しくなる。だけど、なくなったからって想いまで消えたりしない。ダイナだっておっさんにプレゼントしたんだから、分かるはずだ」
自分が贈った物を思い出し、ダイナは瞳に光を取り戻す。
ネロの言う通りだ。何かしらの原因でおっさんに贈った物が壊れてしまったとしても、絆がなくなってしまったとは思わない。少なくとも、断ち切られたと感じることは無い。
大切にしていた物が壊れてしまった悲しみは変わらない。だが、それでおっさんとの関係が消えてなくなるわけではない。もちろん、他の仲間たちとも。
勝手に誇張していた自分が恥ずかしい。目の前には心配してくれている大切な仲間がいるというのに、疎かにして……。
「ごめんなさい。私、ひどい過ちを……」
「正しさを求めてるわけじゃない。あんま、とらわれないで欲しいだけだ」
もう、自身を傷つけることは無いだろうとして手を放す。事実、ダイナの中に巣食っていた負の感情は鳴りを潜めたようで、首元へ手を伸ばす仕草は無くなった。表情に影が差すことはあれども、こればかりは時が癒してくれるのを待つ他ない。今は辛くとも、耐えて前に進むのだ。元の世界へと帰るために。
気概を取り戻したダイナは遅れを取り戻すべく、歩みの速度を上げることをネロに提案する。遅れの原因は間違いなく自分にあるというのにこのような提案をするのは憚られたが、何時までも遅れを重ねるわけにはいかない現状もあった。ネロとしても先を急ぐことに異論はなく、本人が大丈夫だというなら良しとして先を急ぐことにした。
それからはほとんど止まる事なく、城内を駆け抜けた。
古城内部の第二階層部分は石段になっているのをほぼ飛ばし、次に見えた中庭を彩る花々には目もくれず、とてつもない数の蔵書が収納された書庫を素通りした。
円卓が置かれていたとされる部屋についた時、一つの死体を発見する。赤髪を逆立て、サメのような歯をした魔剣士の男で、近くには三本の剣が落ちていた。金色の大剣、稲妻のような赤い剣、太刀のような黒い剣。そのどれもが鞘には収められていなかった。
この者を討ち取ったのもメリアだろう。この先から感じられていたいくつかの気配も消えていることから、冥府の王との戦いも既に始まっているかもしれない。今後も同じような亡骸を見ることになることだろう。
邪魔立てすれば相手が人間であっても斬り捨てるは、目的を果たすために必要であるが故か……。そうまでして冥府の王を討つことに意味を見出しているのか、それすらも通過点に過ぎぬのか。メリアの探し求めているものの壮大さが分からぬ以上、加担しすぎるのも危険なことだったのかもしれない。
古城の上階層に位置する水鏡の間を抜けた先の城壁には歪な模様がついていた。まるで血と涙の跡のようにも見え、居心地が悪い。
ここには狙撃手の女の死体が横たわっていた。使用していたであろうボウガンは二つに折れていて、使い物にならなくなっている。この者たちが人であるにも関わらず、立ち塞がる理由はおおよそ見当がついている。
古城に巣食った黒い波動の存在を、誰も知らないとは考えにくい。天地冥と分けられているのに、全ての存在が一か所に集まる原因としては……己が野望を成しえるため、人ならざる力に頼ったといったところか。
しかし、結局支配しきれないのが人の甘さなのだろう。いつの世も人は、過ちを繰り返す定めにあるという皮肉なのかもしれない。
黒い波動にかなり近づいた。天と地上の狭間とも呼べる階層を越えた先にあったのは騎士王国の重臣が執務に使用している部屋であった。古城の中でもかなりの上階層にあり、訪れることの出来る者も限られているであろう予想は難なく出来る。
息を引き取っていた者は老獪な男であった。最初は虐げられている故郷のためにと声を上げども神界に受け入れられず、知識の探求が強すぎて不文律を解き明かしたがために、故郷からは裏切者として追放され……。最後は古城で野望を叶えようと暗躍するも、己が詰めの甘さで命すらも散らせた哀れな老人。
「……ようやくだ」
ネロが声を漏らす。
ここまで、長い道のりであった。朽ちた教会を出でて深き森を抜け、湖畔の町から吊り橋を渡り、城内を駆けあがった。
冥府の王はこの階層を上った先、王の間に──。