Breaking the silence

 ネロは背中を打ち付ける痛みで意識を覚醒させた。薄明りを頼りに辺りを見渡せば、自分が建物の中に居て、この建物自体がえらく朽ち果てていることが分かった。
 どうしてこんな所に居るのかを考えようとして、ネビロスという悪魔に苦痛を与えられ、大した抵抗も出来ないまま亜空間に吸い込まれたことを思い出し、苦虫を噛み潰した。
 自分へ悪態をつきながら、自分が抵抗できなかったせいでダイナを巻き込んでしまったと慌てて探せば、意識を失っているものの、すぐ傍で彼女の姿を見つけることが出来て安堵した。
 ダイナが意識を手放した原因を鑑みると下手に動かすのは良くないと思ったが、傷の具合を見ないのもどうかと思案した末、慎重に頭を持ち上げ、瓦礫の当たった後頭部を確認することにした。
 髪の毛に血が付いていたが、外傷は見当たらない。ダイナ自身が持っている高い治癒速度で治ってしまった後だと思い至る。出血が止まっていることは喜ばしいことだったが打ちどころを考えると不安も残るので、自然と意識を取り戻すまでそっとしておくことにした。
 自身の着ている紺色のコートをダイナに被せた後、ここがどこなのかを知るためにもう一度、ゆっくりと辺りの観察を始めた。
 古い時代の建築様式が随所に見られるこの建物は教会であることが分かる。風化のひどく進んだその様から、かなりの年月が経過していると思われた。扉は壊れているため、外との境界は壁板だけ。歩く度に軋む床に不安を抱きながら外の様子を窺えば、鬱蒼と蓋い茂る木々で作られた森がどこまでも続いていた。
 一度森の中に入ってしまえば、土地勘のないネロが再び朽ち果てた教会に戻って来れる保証はない。眠っているダイナを抱えていくことは可能にしても、負担が大きい。外へ出ることは一旦諦め、ダイナの様子を見るために教会の中へと戻る。
 少し時間が経ったことで、教会の中に入り込む光の角度が変わった。お陰で、先ほどは見つけられなかったものを発見した。
 まず目についたのはレヴェヨン。ダイナの所有物で槍としての性能から、鎖となってワイヤーや束縛、果てには足場になる、まさに変幻自在の魔具。実際、ネロも幾度となく助けてもらった。
 もう一つは、何かの入れ物だった。るつぼというのが適当ではあるものの、やけに仰々しい装飾が施されており、とても大切な物が入れられているような雰囲気だった。もっとも蓋は開かれている状態で、中身は何も無かった。
 るつぼには触れず、レヴェヨンだけダイナの傍においてやった。彼女が扱っている二丁拳銃はホルスターにきちんと収まっていた。ネロの扱っているレッドクイーンとブルーローズも壊れた長椅子の上に落ちているのを見つけ、故障がないことを確認した。
 再び、月の光の入り込む角度が変わったことが目に見えて分かる程度の時が流れた。
 今もなお、ダイナは眠り続けている。することがないので、ネロは壁板の先に広がっている生い茂る木々の中をどうやって進んでいくか考えるものの、すぐに手持無沙汰となって止めた。
 自分は、どうしたらよいのだろうか。
 不透明な未来のことを考えると、不安ばかりが押し寄せてくる。頼れる者はおらず、守るべき者は意識を失い、目指すべき場所は未だ見えず──。自己嫌悪に陥る自分に更なる怒りが沸いたので、別のことを考えることにした。
 異界渡りはネロにとって二度目の体験。過去の経験を踏まえると、恐らくこの異界も何かしらの問題を抱えていると考えるのが自然だろう。分からないのは、問題となっている事象の規模。誰かしらの手助けをする程度で済むのかもしれないし、異界の存在を揺るがす程の強大な何かを相手にしなくてはならないのかもしれない。だが、どちらに転んだとしても仲間たちのいる世界へ戻るために必要であるなら、やりきるまでだ。
 確定的なものではないにしろ、帰りたい所のことを思うとほんの少し、心の霧が晴れた。起きたことは変わらない。悩むだけでは事態は好転したりしないと言い聞かせる。
 今はとにかく、ダイナの回復を待つこと。仲間と共に元の世界へ帰るために、待つことが必要だというならばいくらだって待ってやる。
 その為にも、するべきことがある。
「まずはゴミ掃除からだな」
 朽ち果てた教会のすぐ近くから感じられるは魔性の力。悪魔に似た存在でありながら、非なるものとしての括りを持つもの──魔物。
 デビルハンターはその名の通り悪魔を狩るのが専門であって、魔物や妖怪、化け物と呼ばれるものたちを狩ることは早々ない。そもそも、元の世界には魔物の類は存在していないのだから、狩りようがない。
 だが、人が作った言葉の括りで区別されている部分など、どうでもいい。見る人が見れば悪魔も魔物も大差ないのだから。何より、人ならざる力を使い、自分や仲間のことを襲おうとする輩に贈るものなんて、最早一つしかない。
 教会から仲間と無事に出るために。そして森を抜け、己が居る位置を確かめるため、魔の者たちにレッドクイーンを向ける。誘うは森のざわめき。吹きすさぶは風の音。どれだけの大義名分を言い聞かせようとも、逸る気持ちには抗えない。ネロは今、戦いの中に身を投じようとしていた。

 結論から言えば大したことは無かった。先手必勝だと斬りかかれば簡単に両断出来てしまったし、数も片手で数えられる程度しかいなかった。実力としては普段相手にしている雑魚悪魔にも満たない。警戒しすぎていたことを要因としても、評価は上がらなかった。
 魔物退治が早く終わってしまい、また手持無沙汰になるのかとため息をもらそうとした時、教会の中で何かが動く気配を感じた。
 目を覚ましたダイナは座っていた。起き上がった拍子にコートは上体からずり落ち、太ももの上でかさばっているが本人は気に留めていない。
「……俺のこと、分かるか?」
 出来るだけ声を潜める。何しろ相手は頭を強打しているのだ。正気を失っている可能性もある。ダイナは口を開くことなく、じっとネロを見つめている。居心地の悪さから目を逸らすと、同じように目を逸らされた。どういうことだと思ってもう一度視線を向けたら、さっきと全く同じように見つめ返された。
「もしかして、ふざけてる?」
 悪びれもなく頷かれたので拳骨を一発お見舞いしてやれば、目尻に涙を浮かべながら痛いと頭を押さえてうずくまるダイナが出来上がった。心配して損をしたとネロが呆れながら立ち上がれば、殴られた場所を押さえながらダイナも立ち上がり、空いている方の手でコートを拾い、手渡した。
「コート、ありがとう」
「何でふざけたんだよ」
 渡されたものを着ながら先の行動の真意を聞けば、不安そうにしていたから取っ払ってやろうという粋な計らいだった……らしい。どう解釈しても不安を煽っているようにしか見えなかったが、おふざけを交えるようになった点だけを見て取れば、確かに粋な計らいだった、かもしれない。
「新たな試みをしたいと常々思っていた。バージルが相手では殺されかねないし、どのダンテを相手にしても返り討ちにあうから」
「俺だったらいけるって?」
 再び頷かれたので、さらにたんこぶを増やしてやった。自分だったら大丈夫だと思われたことも腹が立つし、こんな緊急時にバカなことをされたのも腹が立つ。だが同時に、勝手に背負い込んでしまっていた肩の荷がおりたことにも気付いた。
 相手を気にかけるという思いやりを、母の腹の中に忘れてきたのではないかと思わせるほどに不器用なダイナに気を遣わせてしまうほど、気負ってしまっていたようだ。……いや、先ほどの和らげる方法を思い出すと、やはり気遣えてはいないか。挙句に当人は既に切り替えて次の指針を探し出しているのだから、見ているとまた腹が立ってきた。
 このままではいつまで経っても元の世界に帰れない。自分がしっかりしなくてはとネロは気合を入れなおし、朽ち果てた教会を後にする。
 外へ出ていったネロを見て、過程はどうであれ、結果としてネロを前に進ませられたことにダイナは胸を撫で下ろす。
 自分が意識を浮上させた時、ネロの纏っている気配は不安定なものだった。普段から責任感が強く、気負いすぎるネロを適当な距離感でほぐしているのがおっさんだ。その代わりが務まるとは思っていないが、現状ではダイナが担う他ない。
 はっきり言ってしまえばダイナ自身もほぐす側ではなく、ほぐされる側だ。どれだけダンテたちの真似をしてもうまくいかないのは目に見えている。
 手元に置かれていたレヴェヨンを回収し、教会を出ていったネロを追いかける。外に足を踏み出せば、見渡す限りの木々が蓋い茂っていた。
「ふざけてはぐれんなよ」
 ダイナが出てきたことをきちんと確認してから、ネロは深き森へと臨む。
 彼女もネロとはぐれないように歩調を速め、背中を追う。実は教会を出てすぐに声をかけるつもりだったが、横に並んだ頃にはかける言葉は消えていた。
 迷うことは多々あれど、一度吹き飛ばしてしまえば真っ直ぐに進んでいけるネロは強い。先ほどまで気負っていたのが嘘のようだ。この分ならもう心配はいらないだろう。
 ここから先の不安要素は己に出てくるとダイナは自分自身を戒めながら、同じく深き森へと臨むのだった。

 深き森の中を歩いて数時間。申し訳程度に人の手が加えられた道があったお陰で迷うことはなく、森の終わりが近づいてきていることを教えるように、だんだんと木々の密集度が落ち着いてきていた。今もなお何処に出るかは分からないが、このペースでいけば数刻もかからずに深緑とはお別れが出来そうだ。
 迷うことは無かったと言ったが、決して楽な道のりでもなかった。巨大な樹木に覆われているため、日中でも陽の光が差し込むことが稀である深き森を、あろうことか真夜中の内に抜け切ったのだ。休みを挟まなかっただけでなく、歩行速度も相当なものだったはず。
 また森というのは何も緑色のものだけで構成されているわけではない。湖の水源となるであろう小川なども点在しており、湿地を多く有する地形となっているためにキノコの群生は珍しくなく、口に含んでよいものかの議論をしないのであれば飢える心配もないほどだった。
 湿地であることはともかく、小川は辿るだけの価値がある。元来より人間というものは水場に集まってくるものだ。この時に初めて人がいる可能性のある場所に出られることを知ることが出来た。
 湿地を抜ければ、開けた土地がようやく姿を見せた。開けているということは、人の通行量が多いということだ。もう少しで街並みを拝めるだろう。
「ネロ、あれ」
 森と住居地との境目はもうすぐというところで、あるものを見つけたダイナが声をかける。言われずともネロも気付いており、少しだけ足を向けた。
 地面に転がっていたのは人──いや、狼……だろうか。頭の周りには抜け落ちてしまった髪の毛が大量に散らばっており、顔自体も人のそれに近い。人と対照的な部分を挙げるなら、身体は毛むくじゃら。爪は鋭利で、生き物を引き裂いたのか血がこびりついていた。
 このような生き物を誰が名付けたか、人狼というのだろう。人狼であるということはつまり、人間でもあったということだ。生まれながらにして人狼という種族なのか、はたまた実験で生み出された生命、あるいは呪いなどの禁忌で歪められた存在か……。真相は確かめられないが、知ったところで失われた命が生き返るわけでもない。
 結局何かしてやれることもなく、二人は深き森を抜け切り、湖畔の町へとたどり着く。
 北の門と呼ばれている場所を超える前、ネロは悪魔の右腕を隠すために若から貰った包帯を巻いた。目立っていないとは言えないが、十分だ。ダイナに手伝ってもらったこともあり、大して時間は取らなかった。
 地面は馬が通っても大丈夫なように石畳で舗装されており、大変に歩きやすかった。少し中を歩いて見るとここが湖畔に接する地域であり、今いる場所は漁業を営む住民の活動拠点であることが分かる。水路と桟橋が数多く存在し、迷路のような街並みとなっているのは辛くもあったが、それ以上に困ったことがあった。
 町の中だというのに人はおらず、家や桟橋が破損しているのだ。
 原因はすぐに分かった。魔物が町を襲ったのだ。その証拠に、至る所で魔物の死体と、住民と思しき者たちの亡骸があった。鎧を着こんでいる者もいた。恐らくは自警団か、駐屯していた騎士といったところだろう。どちらにしろ、悲惨な光景だった。
 深き森を抜けた先が町であったことも、結果としてはぬか喜びになってしまった。何一つとして手がかりを得ることが叶わなかった二人はもう一度魔物たちの死体を見た後、何も言わずに空を見上げた。
 桟橋から見えるは満月。淡い緑色のような優しい光で、湖畔の町から北端の断崖に見える美しい古城を静かに照らしている。
「……行くか」
 留まっていても仕方がないなら、新たな場所へ赴くしかない。次の目的地としたのは断崖に佇む古城だった。
 古城へ向かうには湖を越えねばならない。目的地と唯一繋がっている吊り橋に向かって歩き出せば、ダイナも黙ってついてきた。どうやら異論はないようだ。