Red and black with blue

 城塞都市フォルトゥナ。
 とある大陸沿岸部に存在しており、ここには“魔剣教団”と呼ばれる自警団があった。また、住まう人々の間では都市特有の宗教が少し前まで深く信仰されていた。
 かつて人々のために戦ったとされる“魔剣士スパーダ”を神と崇め、悪魔を憎み排除することを第一の教義に掲げ、実現のため“教団騎士”と呼ばれる独自の軍隊まで擁していた。だが、城塞都市に突如あらわれたおっさんことダンテの手により魔剣教団は崩壊。悪事を働いていた教皇を、教団騎士の一人であった青年ネロと共に討つこととなった。
 当時の戦いで都市は壊滅的な打撃を受け、今現在も傷は癒えていなかった。それでもこの街で過ごしてきた者たちは自分たちの手で復興を目指している。
 フォルトゥナの街で暮らしている人々の中に、ネロの家族であるキリエという女性がいる。彼女も当時の事件で実の兄を亡くし、そして自身すらも危険な思いを幾度となく経験した。それでもくじけず、少しでも良くなっていくようにと毎日懸命に自分の出来ることをこなしている。
 今回、おっさんとネロがフォルトゥナの街へ来たことに深い意味は無い。事務所を出る前、メンバーにフォルトゥナの様子を見に行ってくるという言葉が全てを伝えていた。だから街の復興の様子を見て、ついでに悪魔が出ていないかを確認できればおっさんとしては満足だったし、ネロもそれに加えてキリエが元気にしているかを知ることが出来れば目的は果たせたも同然だった。
 滞在予定は二週間。
 様子さえ確認できれば用事は済むのでここまでの期間を取る必要性は無かったが、わざと長い期間を見積もったのはおっさんだった。
 ネロにとって、フォルトゥナという街は生まれてから自分の下へ修行しに来るまでの間を過ごしてきた故郷。帰るべき場所があるのなら、迎えてくれる人がいるのなら、たまにはゆっくりと帰ってやるべきだというおっさんの気遣い。これをネロが感じているのかは分からないが、本人も少し長めの滞在に二つ返事だった。
 街についていの一番に向かった場所は言うまでもない、キリエが世話をしている孤児院。キリエには近日中に向かうとだけ電話で連絡を入れておき、ネロは彼女の下へ急いだ。彼女に会うのはかなり前に一度だけ暇を作って貰ったデートの時以来で、元気に過ごしている姿を早く見たくて気づけば駆けだしているほどだ。この様子を見ていたおっさんはネロのことをまだまだガキだと思い、前を走るネロと少し距離を置きながら笑みを浮かべて見守っていた。
 孤児院につけば、ネロがおっさんの事務所へ行った日よりも子どもが増えていた。これは、喜べなかった。
 増えた経緯は千差万別だが、その理由はどれも芳しいものではない。両親を亡くし、街のどこかで身を隠していた子どもが保護されてここに連れてこられた子もいるだろうし、生活苦である家庭から育てきれないと判断されて預けられた子、中には捨てられてしまった子たちばかりだったから。
 それに、こういった施設を維持するのはとにかく大変だ。本来であれば都市から支援してもらうものだが、肝心の都市が当時よりはマシになったとはいえ、十分な機能を果たしているとはいい難い。だから今も、何もかもが足りない状態でどうにか毎日を過ごしていくしかなかった。
 暗い話題ばかりが目立ったが、決して良いことがないわけではない。ネロからすればキリエが元気にしていることが分かっただけでも大きな朗報だし、都市全体を見れば間違いなく活気を取り戻しつつあることも肌で感じられた。まだキリエが世話をしている孤児院に来るまでの通りだけしか見ていないが、瓦礫などは随分と片付けられ、人が住んでいるんだと思える程度には街並みも戻ってきている。これは間違いなく、フォルトゥナの住民たちの努力あってこそだ。
 だから、悪魔の介入さえなければ再び美しい街並みを取り戻すことが出来ると、ネロは思った。
 キリエと合流した二人は滞在期間中、基本的には子供たちと遊ぶか街の復興の手伝いをした。元々フォルトゥナに来てしたいこと、すべきことは何もなく、残念なことに観光できる場所もないので暇を持て余すばかり。だったら何か手伝った方が有意義だと、ネロは張り切っていた。一方おっさんはというと、ついてきたのは失敗だったと渋い顔をしていた。
 街の復興を手伝うというのが、純粋に面倒くさかったらしい。とはいえ、ネロは見てのとおりやる気満々だ。こうなると、だらけようものならどんな小言を言われるか分かったものじゃない。どうしたものかと悩んでいると、何故かおっさんの周りには子供の群れが出来ていた。周りから見れば雛を連れて歩く親鳥のようだ。
 どうやら、子どもたちにとってここまで体格のいい人物が訪れるのは初めてだったようで、物珍しさに集まってきたようなのだ。ここまで大きい人間──正確には半人半魔──を見れば逆に怖がってしまいそうなものだが、元気がいいのはひとえにキリエのお陰なのだろう。彼女の想う心が孤児たちにもきちんと伝わっているようで、事実ここにいる孤児たちはどの子も両親がいないという悲しみや苦しさにくじけず、前を見ている強い瞳を持った子たちばかりだった。
 こうして、おっさんはしたこともないような子守を、ネロは街へ行って率先的に力仕事をこなすこととなった。お互いに慣れていないことばかりだったために大変ではあったが、過ぎて見れば滞在予定の二週間などあっという間だった。
 フォルトゥナに来てから十回以上迎えた朝。キリエの手料理を御馳走になっているおっさんと、それに対して若干不満そうな顔を浮かべているネロに囲まれて食事をしているキリエの三人は今日の予定を話していた。
 おっさんは最初、ネロとキリエの会話を聞いているだけだった。しかし、もう帰る日であるというのにネロはそのことについて一切触れなかった。子供たちにも聞かせる算段なのかと孤児院についてからも少しの間黙って様子を見ていたが、一向に言い出す気配がないのでそろそろ事務所に帰ろうかとおっさんが声をかけようとした時。
 ──事態は急変した。
 僅かであったが、ネロの右腕が光ったのだ。不穏な気配は当然ながらおっさんも感じ取っており、公にリベリオンを晒すことはないにしろ、いつでも呼び出せる状態にまで警戒を高めていた。
 幸か不幸か、孤児院の朝食は物資の届く関係からいつも遅めである。その為、遊び場として使われている玄関を開けてすぐの広場に人はいない。だからネロは右手を隠さずにいた。
 相手から扉を開いてくる気配はない。だったらとネロはおっさんに視線を送り、その意図を汲み取ったおっさんの合図と同時に扉を開け放った。
 居たのは、スーツ姿にシルクハットを被った細長い黒づくめの男だった。白になったちょび髭まで生やしており、まるで男爵と呼ばれる爵位を持つ人物をテンプレ化させたような、貴族を彷彿とさせる見た目だ。
「これはこれは……。随分と大柄な御仁ばかりで」
 前が見えているのかも怪しいほどの細い目でネロの右手を見ながら、黒男爵はからかい気味に、芝居がかった言い方をした。
「……誰だ、お前」
 こいつが悪魔であることはもちろん分かっている。だが、ネロはここですぐには殴りかからなかった。それは決して、余裕があるからではない。むしろ逆であった。
「名乗るほどの者ではありません。……実は、とある少女を捜しているのですよ」
 黒男爵も自分の存在が何であるか、バレていることは百も承知だ。だというのに余裕を崩さない態度が取れる理由など単純である。自分の方が優位に立てていると分かっているのだ。
 どこまでも素性を隠そうとする相手の態度に、ネロは握りこぶしを作る。このままではまずいと踏んだおっさんは飄々としながら、それでいて警戒を怠る事無く黒男爵と話し始めた。
「悪いが、見てのとおり今は誰もいなくてね。探すのを手伝ってやりたいところだが、名前も分からないことには協力してやれそうにない」
「気を遣わせてしまいましたかな? しかし……そうですね。せっかくのご厚意を無下にしてしまうのは心苦しい。ここはお言葉に甘えましょう」
「ああ。困った時はお互い様ってな。……で、どんな少女だ?」
 一度は濁した少女の名前を、おっさんに聞きなおされただけで素直に答えようとするのは不可解だった。一体何がしたいのか、一層警戒心を高めるネロを見た黒男爵はおっさんには見えない絶妙な位置に顔を向け、悪い笑顔を晒した。
「てめえ! 何企んで……」
「ネロ」
 明らかに良からぬことを企んでいそうな顔を見せられたネロは拳を振り上げるも、おっさんの鋭い一喝により黒男爵の顔面を捉える数センチ手前で止めた。
 どうして止めるんだという思いを込めておっさんを睨み付ければ、逆にすごい剣幕をしたおっさんの表情に自分が息を呑む羽目になった。
「おお、怖い怖い。君のような危ない人に“アリス”を会わせたくないですね。彼女は無邪気で、誰にでも明るく接することの出来る良い子ですから……」
「坊やが悪いことをしたな。俺の方からよく言い聞かせておくから、見逃してくれると嬉しいね」
「ええ、ええ。アリスのことを捜してくれるというのですから、一度くらいは見逃しますとも。……さて、アリスの見た目ですが、大体十歳くらい。髪は肩より少し長く、それはそれは綺麗なブロンドヘアです。青色の洋服が特徴的で、見ればすぐに分かるでしょう」
 アリスという少女の特徴を伝え終えた黒男爵は他の所も捜しに行くと言い、孤児院を去ろうとする。これを慌てて止めようとするネロだったが、突如謎の激痛が身体中を駆け巡り、とてもじゃないが立っていられなくなった。
「何……しやがった……!」
「見逃すのは一度だと、そう申したはずですよ」
「いっ……! ぐ、ぁ……!」
「私はアリスさえ見つけられればそれで良い。言ってしまえば君程度、端から眼中にない。あるとすればダンテ、貴方の方です。今は戦うつもりなんてありませんが、いずれ……ね」
「御忠告をどうもありがとう。アリスって子を見つけたら、あんたの元に届けてやるさ」
 去っていく黒男爵にネロは必死に痛みを堪えながら右手を伸ばすも、空気を掴むばかりで何の手ごたえも感じられない。無機質な扉の閉まる音が耳に届くと同時に痛みは消え、息苦しさなどから解放された。
「なに……してんだよ」
「何だ、何か文句があるのか?」
 痛みが消えて落ち着きを取り戻すと、次に沸いてくるのはおっさんに対してへの怒りだった。何故あの時、殴り掛かろうとした自分を止めたのか。どうして自分に加担してくれなかったのか。悪魔だと分かっている相手をこうも易々と取り逃がしておいて、何を考えているんだと。
「あいつは悪魔だぞ!」
「そうだな」
「なんで分かってて見逃すんだよ!」
「それを俺の口から説明してやらないと分からないほど、坊やは落ちぶれたのか?」
 言いたいことは山ほどあったはずなのに、おっさんの一言で全てが喉を通らなくなった。
 この怒りは……。今もなお湧き上がってくる、はらわたが煮えくり返るこの感情は誰に向けられたものなのか、理解させられてしまったからだ。
 ネロは、自分に対して怒っていた。
 おっさんの元へ居候を決めたのは、修行をするためだ。どんな悪魔が来てもキリエを守れるようになるため、自分が知る中で最も強い人物であるおっさんにプライドをかなぐり捨てて頼み込んだことは今でも忘れていない。断られるのも覚悟で頼んだことだったというのに、頼まれた本人は二つ返事で了承するものだから、気が抜けたことも覚えている。
 とにかく、おっさんの元に居ればいろんなことを学べると思っていた。だというのに蓋を開けてみればなんてことはなく、仕事が来ること自体が稀で、さらに悪魔絡みとなると片手で数えられる程度しかなかった。空いた時間に手合わせしてくれるわけでもなく、それどころか家事などの雑用ばかりをさせられる始末。苛立ちがピークを迎えた頃に何の因果か、ダンテと名乗る男が数名増え、追加でバージルとダイナとかいう半人半魔までやってきた。
 我慢することの方が多かったが、それでも居候をしたおかげで強い悪魔と戦えたこともあるし、これは完全に嬉しい誤算だが、若い頃のダンテたちや円熟の域にまで達したダンテのお陰で、絶対におっさんが見せてくれないような戦闘スタイルを見せてもらうことが出来たのは得難い経験だった。
 ネロは多くの経験をして、間違いなく当時より力をつけたはずだ。……はずなのに、黒男爵を見たときに抱いたのだ。
「俺は、弱くなったのか……?」
 恐怖。
 一度抱いてしまうと克服するのが難しい代物で、性質の悪いことにこれは伝染する。自分の内にある全ての思いが恐怖というたった一つの感情に縛られていく感覚が、更なる恐怖を生み出す。
 その恐怖に飲まれてしまわないよう、本能は怒りという感情にすり替え、加えて自分以外にも非があることにすることで己を保とうとしていた。だがそれも、気づいてしまった以上は意味がない。
「そうか? 俺としてはちゃんと坊やが成長していて安心したんだが」
「悪魔を見て、怖いって思った俺のどこが……」
 それ以上は情けなくて言えなかった。今笑われたら、いくらあのおっさんだからと自分に言い聞かせても立ち直れる自信がなかった。しかし、おっさんがいつもの憎たらしい表情を浮かべることはなく、至って真面目に話し始めた。
「そりゃあ、俺だって怖かったさ。……ここで暴れられたらと考えたら、な」
 建物の中を見渡しながらおっさんは言った。
 今いる場所は孤児院だ。広場に居るのはネロとおっさんだけだが、一つ壁の向こうにはたくさんの子どもたちと、世話係の大人が数人と、その中にキリエもいる。
 戦いが始まれば建物の損傷は絶対に出る。備品が壊れたり壁に傷がつく程度ならばいざ知らず、支柱が折れようものなら建物は崩壊し、多くの者が瓦礫の下に埋もれるだろう。何かしらの奇跡が起きて全員が無傷で済んだとしても、また住んでいた場所を失ったとなれば子供たちの心に与えられる傷は生半可な物ではない。
「だったら、俺が抱いたこの感覚は……」
「いつも言ってるだろ? 腕っぷしだけが強さじゃないって」
「初耳だよ」
「そうだったか? まあ細かいことは気にするなって。……とにかく、今回ばかりは手を出さなかったことが最適解だと俺は思うがね」
 デビルハンターという仕事をこなす上で、文字通りの力という物は悪魔を倒すために必須だ。だがこの仕事は悪魔という、本来人間に関与してはいけないものから守るためにしているということを忘れてはならない。
 基本的に悪魔は好戦的である。それ故、放置しておけば被害は拡大し、多くの人が殺められる。だから即時討伐が求められる頻度が自然と多くなる。しかし、だからこそ、全ての悪魔がそうであると思い込んではいけないのだ。
 今回の悪魔のように人を殺す以外の何かしらかを目的として動いているケースもあり、そういった連中は大体が目的に実直だ。だから目的の邪魔さえしなければ危害を加えられることは少ない。もちろん、目的を果たした後に人間を襲う可能性というものは留意すべきことだが、現段階ではまだそこに至っていない。だから刺激を与えないことこそが一番被害を抑える判断だとおっさんは考えていた。
 また、黒男爵が駆け引きを楽しんでいたことにも気が付いていた。必要以上にわざと苛立たしい言い回しをしていたのは、ネロを煽るためのものであるとも。だからあの場で挑発に乗せられたネロが黒男爵に殴りかかった時が、おっさんの肝が冷えた場面だった。思わず坊や呼びではなく名前を呼んでしまうほどに。
 対し、危なげではあったものの、ネロは見事に応えてくれた。寸での所ではあったが拳を止めたのだから、おっさんからすればこれを成長といわずに何というのかといった具合だ。なのに本人は弱くなったのではないかと不安がるのだから、ネロの目指している強さというものの果てがあまりにも遠すぎるものではないかと、別の心配がよぎる。目標は高い方がいいとは言うが、果てがないのも考えものだ。
「……で、どうするんだよ。さっきの悪魔は」
 自分の中で感情の整理をつけられたのか、ネロには先ほどの不安定さはどこにもなく、これからどうするのかを考え始めていた。最悪の事態は免れたが問題はこれからだ。
「正直に言うと、困ったことにはなったな」
 どうしたものかと頭を掻くおっさんが言うには、問題点は大きく二つだという。
 まず一つ目は先ほどの悪魔の正体。これには心当たりがあると言って、昔に読んだという魔導書の話をしてくれた。おっさんが、普段バージルが読んでいるような魔導書に目を通したことがあり、更には内容をしっかりと覚えているということには驚きを隠せないが、茶々を入れると話が脇道へ逸れてしまうのでぐっと我慢した。
 先の悪魔の名はネビロス。黒男爵とも名乗っていることがあり、先ほどの見た目からそちらのイメージの方が強い。望む相手に苦痛を与える力を持ち、地獄の悪魔たちの中でもっとも優れた降霊術の使い手でもあるとされているネビロスは、魔界でベリアルと共に、とある少女と静かに暮らしていたことがあると記されていた。その少女の名がアリス。青いドレスに身を包んだ綺麗なブロンドヘアをした人物であるという。
 ここからは二つ目の問題になる。
 少女アリスというのは人間ではないという。では悪魔なのかというと、そういうわけでもない。正確に言うと、死んだ少女の魂がネビロスの降霊術によって再び蘇らせられた、生きる屍なのだそうだ。
「ってことは、さっきの悪魔……ネビロスって奴はゾンビを捜してるってことになるのか」
「そういうことだな。で、このアリスって子は純粋無垢だそうでな」
「はあ……」
「大事なことなんだから興味持てって。いいか、ベリアルとネビロスに何不自由のない暮らしをさせてもらった箱入り娘だぞ? どんな性格をしていると思う」
 どんな性格、と問われても、何不自由のない暮らしというのを経験したことのないネロにとっては想像の余地がない。挙句に相手が女の子なら尚更だ。だから、先ほど黒男爵が言っていた無邪気で明るい子ということしか浮かばなかった。
「知らねえよ。無邪気で明るくて……後なんだ、魔導書には純粋無垢だったか? そう書かれていたなら、そんな感じなんじゃねえの」
「そうだ。どこまでも無邪気に、善悪の区別がないままに、自分が欲しいと思ったものを手に入れようとする。そこに手段なんてものはない」
 ここまで言えば、少女アリスがどれだけ危険であるかは浮彫になっただろう。この少女自体が何の力も持たない無力な子であったならばいざ知らず、残念なことにアリスは生きる屍で、持ちうる力は悪魔に匹敵していると考えるのが妥当だ。そんな力を、自分が欲しいものを手に入れるためだけに無差別に使うとなれば、最早厄災だ。
「ネビロスがアリスを先に見つけ出したら……」
「少女と共に魔界へ帰ってくれるならそれで良し。逆にここ、人間界でアリスに好き放題させるようなら……ま、手を下すしかないだろ」
 人の魂を使って弄んでいるようにも見える邪道な行為だが、おっさんとしてはこちら側に迷惑をかけずに悪魔の在るべき場所へ帰ってくれるならそれで良いと思っているようだ。ネロとしてはそれはどうなんだと思うところもあったが、身を以て体験させられた得体のしれない痛みのことを思い出すと、下手に刺激を与えたくないというおっさんの意見も納得がいった。
 悪魔の血が流れている自分ですら立っていられないほどだったのだ。あれを普通の人間が受けたら良くて失神、最悪ショック死しかねない。しかも先の能力が魔導書通りであるなら、ネビロスが望めばどんな相手にでも苦痛を与えられるというのだ。流石に効力を与えられる範囲に限界はあると思いたいが、近くに人間が一切いない環境に相手が来てくれる保証がないし、何なら効力を与えられる対象が一人だけであるとも限らない。
 何より、ネロが無力化させられてしまうことが確定している。
 後は、前に討ち取ったベリアルと関わりがあったということは、ネビロスも同等の力を有していると考えるべきだ。おっさんもネロもベリアルを打ち負かしているので実力に不安は無いが、やはりネビロスの能力は脅威と見ておくべきだろう。それに、アリス自身も参戦してこないとも限らない。こうなってくるとどれだけの被害が出るのか分からない。何よりも危惧すべき点だ。
「手を下すにしても、街外れであることは絶対条件だぞ」
「そればっかりは黒男爵に言ってくれ。だがこうなっちまった以上……帰るに帰れなくなったな」
 ベリアル級の上位悪魔が街に潜んでいると発覚した以上、当然事務所に帰るわけにはいかない。どちらが先に少女アリスを見つけられるか、そして黒男爵がどう動くか。
 ──全ては、アリスと呼ばれる少女次第だ。

 黒男爵が姿を初めて見せた日から二週間が経った。キリエや孤児院で働く人、子供たちにはもちろん伝えていない。フォルトゥナの街に住む人たちは悪魔という存在をその眼で見た人が多くいるため、悪魔の話をして信じて貰えない、という事態にはまずならない。しかしそれは、悪魔という存在の恐ろしさを知っているということでもあった。
 孤児院暮らしになってしまった子たちはそのほとんどが悪魔によって愛する人、愛してくれる人、そして帰る場所をも失ったのだ。ようやく悪魔の影も去り、これから明るい未来へ足を進めるというのに再び悪魔が現れたなど、とてもじゃないが聞かせられるわけがなかった。
 おっさんとネロは今日も孤児院の手伝いをしていた。二人とも随分と子どもたちに気に入られたようで、キリエに次いで遊んでくれと引っ張りだこだ。
 ……アリスの捜索をしていないわけではない。ただ、この孤児院を離れられないというのが現状である。
 アリスは少女だ。だから親がいないと分かれば孤児院に連れてこられる可能性が非常に高い。その時におっさんもネロも捜索に出かけていているというのは最悪だ。アリスが何かを仕掛けてきた時を考慮すると、どちらかは必ずここに残っていなければならない。この時点でもかなりの自由度を奪われているのだが、実を言えばこれすらも許されない状況だった。
 孤児院に届けられたアリスの元へ黒男爵もやってくる可能性。この事態を考慮に入れた時、待機しているのがネロではダメなのだ。そうなるとネロが捜索に出るしかないのだが、捜索の途中でアリスの方ではなく、黒男爵と出会ってしまった場合のことを考えるとリスクが高い。結局の所、現時点では敵が行動を始めるのを待つしかなかった。
 日に日に緊張感が増していく中、誰かが孤児院に訪ねてきた。
 どこかの親切な誰かが少女を連れてきたのか、または少女は見つかったかと催促しに来た黒男爵か。それとも少女と合流を果たした後か……。
 訪ねてきた人物の対応をしようとするキリエに、自分の知り合いだからと嘘ではないが本当でもない言い訳をして代わらせ、ネロは最大の警戒心を胸に玄関の扉を開いた。無論、その一歩後ろにはおっさんも待機している。
 鬼が出るか、蛇が出るか……。
「大当たり、だな」
「に、二代目? 何でここに……!」
「いつまで経っても帰ってこないからな」
 訪ねてきたのはなんと、二代目だった。これにはネロだけでなくおっさんも嘘か真かと、柄にもなく目の前に立っている相手を頭からつま先までこれでもかと眺めるほどだ。
「私が進言した。……どれだけの期間、滞在するかは自由に決めてもらって構わない。だけど、遅くなるならせめて連絡は入れてほしい」
「おおっ? ダイナもついてきてたのか」
 二代目に気を取られていたおっさんとネロは、二代目の後ろから見え隠れする黒色に気付かなかった。そのことに不服げなダイナだったが、伝えたいことは伝えたのでわざわざ口にすることは無く、それよりも帰ってこなかった原因を知りたがった。
 玄関で話すような内容でもないため、子供が立ち寄らない給湯室で人払いをした後、ここ一ヶ月のあらましを聞いた二代目とダイナは事態の大きさを知ることとなった。
 また、おっさんが読んだ魔導書のことについて二代目は知らなかったが、ネビロスという悪魔のこと、そして少女アリスについては知っていると詳細を教えてくれた。
 ネビロスに関してはおっさんの説明と相違はなく、アリスについても外観や生きる屍であることも合致しているという。ただ少女について付け足すことがあるなら、その無垢なる魂は“友達”を求めているというものだった。自分の気に入った者に友達になってくれないかとねだって来るというのだ。
 ……もちろん、どちらの答えを返したところで辿らされる未来は決まっている。
 イエスと答えたならば、晴れてアリスの友達になる。そしてずっと一緒に居られるようにと、アリスが粋な計らいをしてくれるのだ。いつか崩れ落ちる脆い肉体などという器から魂を解放し、新たに朽ちることのない……いや、もう朽ちているのだからこれ以上崩れようのない死肉を纏った者、ゾンビとして蘇らせ永遠にアリスと楽しく平和な街で暮らしていくのだそうだ。
 ノーと答えたならば、アリスは虐められたと泣き崩れるだろう。そしてアリスは呼ぶのだ。赤おじさんと黒おじさんを。
 泣いているアリスを見た赤伯爵と黒男爵は決してその者を許すことは無い。地獄の業火で焼き尽くし、行き場を失った魂を操り、アリスのために友達を作り上げるのだ。そこに魂の思いなどは無く、ただアリスを笑顔にするためだけの、作られた人形にされるのだ。
「肉体から魂を解放、ね……。殺意が高いってことはよく分かった。ちなみに赤伯爵ってのは……」
「灼熱の炎をその身に纏う高位悪魔、ベリアル。赤おじさんのことだ」
「アリスから見ればどっちもおじさんなんだな。的は射ているか」
 ベリアルについてはおっさんの手で葬り去っているので何も問題は無い。ここで新たに入った情報としては少女アリスの事で、こちらの方がネビロスなんかよりも残虐性が高い。そして二代目も少女アリスが使う“肉体から魂を解放する”というそれが一体何なのかまでは分からない。こうなった以上、警戒を強めなくてはいけないのはアリスの方だ。
「坊やを一人で捜索に行かせなかったのは正解だったな」
「ああ。だが、もう二の足を踏む必要もあるまい」
「二代目とダイナが来てくれたのは嬉しい誤算だ。……あんまり、無理はさせたくないんだが」
 おっさんが視線を移した先にはお茶に口をつけているダイナの姿がある。これから彼女に、可能なのであれば頼みたくないようなことを頼まなければならないのだが、当の本人は頼まれる内容に対して理解を示し、何の問題も無いと言いたげな視線を返してくるのだからたまったものではない。
「適任者がいるというなら、頼る方が危険も下がる。もちろんカバーには入るが……俺と髭、どちらが行く?」
 ネビロスの持つ、望む相手に苦痛を与えるという能力は防ぐ術がない以上、誰かが対象に選ばれることは確実だ。前回の経験からネロが狙われることは絶対に避けなくてはならないので、ネロが捜索するという選択肢は出てこない。また、苦痛を与えるという能力は痛みそのものを何かしらの力で直接体に送りつけてくる、念のようなものであることまでは分かっている。
 厄介な能力に対し、こちらには受け切れる人物がいる。それがダイナだ。彼女は自身が持つ能力の関係上、誰よりも痛みというものに対しての耐性がある。
 今回に関しては傷を負わせてくるのではなく、純粋な苦痛を与えてくる。ダイナの機動力が落ちる大きな要因としては、傷自体に因る身体へ加えられる負荷の許容量が減ることにある。決して痛みを感じないというわけではないが、他の者より痛みというものに対して鈍感であるのは間違いない。本来これは褒められたことではないが、今回ばかりは彼女以上の適任者はいないだろう。とは言え、傷に塩を塗り込まれるような行為には激痛を訴えるが。
 また仮に、ダイナが対象ではなかったとしても、二代目かおっさんであれば耐えてくれる……というか、是が非でも耐えてもらうしかない。
 残るは少女アリスへの対処だが、これに関してはぶっつけ本番になる。悪魔退治の本質などそのほとんどが殺るか殺られるかで、こういう風に事前にいくつかの情報を得られていることの方が稀だ。だから、することは普段と何も変わらない。
「……二代目、頼まれてくれるか?」
「いいだろう。……何か、思うところもあるようだしな」
「坊やの尻拭いを二代目にさせるのは忍びないってだけさ」
「もうあんなヘマはしねえよ」
 何かあるとすぐにネロをだしにして真意を語らないおっさんに、毎度の反論を返す。これも適当に笑って流してくるものだから、腹も立つというものだ。結局はおっさんのペースに乗せられたネロが言い合いを始めてしまったので、とにかく黒男爵か少女アリスを見つけるため、二代目はダイナを連れて再びフォルトゥナの街へと出ていくのだった。
「さてと。この一杯を貰ったら、ガキ共の子守でもするとしようか」
「二人に行かせて良かったのかよ。おっさんがついて行った方が良かったんじゃないのか」
「俺と二人きりになるのはそんなに嫌か?」
 そこらにある適当な容器に、これまた適当な分量で作った茶を啜っていたおっさんがわざとらしく顔を近付ければ、ネロは大げさなほどに身を引いた。この反応を待っていましたと愉快そうに笑っていたおっさんだったが、ふとネロの質問に答える気になったのか、真面目に話し出す。
「二代目とダイナが来るほんの先ほどまで、俺たちはピンチだった。周りの被害を度外視していいならいくらでもやりようはあったが、坊やはそれを良しとしないだろ?」
「当たり前だ。せっかく元に戻り始めてるってのに、あの日に逆戻りは御免だ」
「そうだな。……で、俺はこれをいい機会だと思っていてな」
 おっさんの話は、一体何のことを指しているのかがまるで見えてこない。
 特に二代目とおっさんは自分の中だけで物事のパーツを組み合わせ、一人で理解し、一人で完結させていく傾向が強い。教えてくれと言っても素直に答えてくれるような性格はしておらず、ようやく事件の全貌が分かった時、二人は驚くのではなく大当たりだと言わんばかりに答え合わせをして楽しんでいる節すらある。
 今回もまさにそれだ。先の会話だって、おっさんはごく自然な流れで二代目に捜索を頼んだだけにしか見えなかった。なのに、頼まれた二代目は何かあると言った。何かの部分を言わなかったのも、本当にその部分が何なのかを分かっていないのではなく、むしろ確信があるからこそおっさんにしか分からないような言い回しをしたのだ。こんな会話ばかりされては、理解しようと努力するだけバカらしくなってくる。
「あっそ。どうせ教えてくれないんだろ。勝手にいい機会だって思ってやがれってんだ」
「おいおい、拗ねるなよ。……まったく、これだから坊やは」
「坊やで結構」
 こうなったらやけだ。何を言われても知らぬ存ぜぬを貫き通すまで。そう思って心を閉ざしかけた時、とんでもない一言がおっさんの口から飛び出した。
「二代目の正体を知る、いい機会だと思ったんだ。……ほら、俺が考えてる事教えてやるから、機嫌直せって」
 苦笑いしながら先ほどまでと何も変わらない様子でお気楽に話しかけてくるおっさんだが、ネロの思考回路は一瞬停止するほど、衝撃的な言葉だった。
 普段からバカ丸出しで周りを煽って事態をややこしくすることに長けているおっさん。それでもネロにとってはやはり、一番信頼を寄せているダンテであることには違いない。だから文句ばかりを浴びせてはいても、彼の言葉はいつも信じられるもので、だから本当に大事な話をする時は疑ったりしない。
 それだけ信頼を寄せているダンテの口から、二代目の正体を知るためだと聞かされたのだ。それはつまり……。
「どういう意味だよ……? ま……まさか、今更になって実は二代目はダンテじゃないとか、わけわかんねえこと言い出すんじゃないだろうな……?」
 おっさんは前々から二代目のことを疑っていたということだ。何かしら疑いをかけることになる材料があり、そして更なる材料を探していると……彼はそう言っているのだと、ネロは理解してしまった。
「いや、あれは正真正銘ダンテさ。ただ、なんというかな……。俺とは違うんじゃねえかって、前々から思っててな」
 本人が二代目は間違いなくダンテだと認めたことに安堵するとともに、なんとなくだが、おっさんの言わんとすることが分かってきた。何故ならそれは、ネロ自身も感じたことのあることだったから。
「あんたの未来の姿が二代目とは限らない……って、言いたいんだろ」
「おっ、今回はやけに察しが良いじゃないか」
「そうやってすぐおちょくるのやめろよ。てかまあ、あの二代目とおっさんを比べたらそう思うのは自然だろ。どうやったらあんたみたいなおちゃらけた奴が、二代目みたいな非の打ち所がない様な人物に変わるんだよ」
「坊やも毎度ながら俺のこと貶すのやめろよ。……って、そうじゃなくてだな。坊やの言わんとすることが分からんわけではないが、俺が問題視しているのは性格の変わりようではなくてだな」
 どうやらおっさんとしても、いつの日か自分が二代目のような無口になる未来は想像がつかないらしい。それでも好物は変わらなかったり、抱いている感情は似ているものだったりするのだから不思議というか、やはり同じダンテなんだと思わせられる部分もあるが、肝心な部分はそこではないらしい。
 だったら何なんだと痺れを切らせば、これまたどういったものかと悩み、自分が最も伝えたいことについて適切であろうと思われる表現を慎重に選びながら、説明を始めた。
「普段の生活の中で、二代目は自分の未来の姿なんだろうなって思う部分は多々ある。あるんだが……何か一点だけ、俺と大きく違う部分があるように感じられてならないんだ」
「……どういうことだ? 大きく違うって思うのに、それが何なのかが分からないのか?」
「そうなんだ。それが気持ち悪くてな。後は俺自身、過去のことなんか全部覚えてる訳がない。二代目も同じだろう。だから純粋に忘れているだけのようにも思うんだが、時たま俺が知っていることを二代目が知らないことがあるんだ」
 あの二代目が忘れるなんて……と言いたい気持ちもあるが、二代目は完璧超人ではない。だからおっさんの見解通り、忘れてしまっていることはたくさんあるだろう。先ほど話した時に言っていた魔導書を知らないという一件も、忘れているだけかもしれない。
 また、おっさんが知らずに二代目が知っていることもたくさんある。これについてはやはり、二代目がおっさんよりも未来を生きてきているということを裏付けている。だからこういった小さな相違に関してはあまり気にしないようにしているそうだ。
 しかし、先ほど挙げた問題の一点。これだけは絶対にズレがあってはならないはずである、というところまでは確信を得ているそうなのだが、ではそれはなんなのか、というのが皆目見当もつかないのだという。
「じゃあ……今回のことで問題の一点ってやつが分かればって思ってるってことか」
「知ったからどうなるものでもないだろうが、これぐらい危険なことがないと二代目の秘密を知れる可能性なんて無いに等しいからな」
 本人が隠している秘密を暴こうとしているという事実に背徳感はある。だがそれ以上に、普段から見せてくれない二代目の真意に近付けるのではと考えると、暴き出したいとも思った。また、理屈を除いたとしても純粋に気になる。
 湧き出てくる好奇心には勝てそうにないと思ったネロは何かあってもおっさんのせいにするぐらいの心持ちで、おっさんが考えている秘密の暴き方を聞き出すことにする。
「具体的に、どうするつもりなんだよ」
「……さあ?」
 期待した自分が馬鹿だったと盛大にため息を吐く。間抜けな一言を聞いてしまった体から力が抜けていくのがよく分かる。ほんのさっきまでは意味深長に重要な局面へと会話が向かっていたはずなのに、肝心なところは何もないのだから今までの時間を返せと迫りたいぐらいだ。
 結局アホらしくなったネロは呑気に茶を啜るおっさんを給湯室に置いたまま、キリエの手伝いに向かうのだった。