「おっ……おっさん」
それは、ダイナがおっさんと呼んだことから始まった。
おっさんは雑誌をカウンターに置き、ダイナの方を向く。
「ダイナから声をかけてくるなんて珍しいこともあるもんだ。日頃のアプローチがようやく功をなしたか?」
「違う。そんな理由で、声はかけない」
一刀両断されたおっさんはガックリと肩を落とし、また適当な雑誌を読みふける。
おっさん自身、ダイナに距離を取られていることは自覚している。ダイナも、おっさんがそれを自覚していることを分かっている。
年の近いネロと若を除けば、間違いなく声をかけやすいのはおっさんであることは理解している。しかし、ダイナは後一歩、距離を縮めることが出来ないようだ。
それはまあ……夜へのお誘いをしているからというのも間違いではないのだが、何かこう、引っかかるものがあるようだ。
「声をかけた理由。この間のお酒、弁償するため」
「酒……? ああ、若と大暴れして叩き割った奴か」
「そう。若とお仕事して、初めてお給料もらった。それで払う」
この間、不慮の事故だったとはいえ盛大におっさんの酒瓶を何十本とダメにしたのだ。その時のおっさんの落ち込み具合といったら、なんとも言えないぐらい悲惨だったもので。
そのことをまだ忘れられないダイナは罪滅ぼしとまで大げさなものではないが、自分で稼いだお金でおっさんにお酒を買い直したいと考えたみたいだ。
「そりゃあ嬉しい提案だが……せっかくの初任給なんだ。自分のために使いな」
「私は、欲しいものない。おっ、おっさんには住む場所、提供してもらっている。だからこれは、正当な対価」
「いいから、自分のために使っとけよ。……あと、そういう考え方は禁止だ。また二代目に怒られるぜ?」
二代目に怒られるという言葉にダイナの身体は強張る。ここに来た当初、一度二代目に怒られたことが相当応えたようで、今でも思い出したくないようだ。
「分かった。考え方、改める。それで、お酒の話……」
「だから、それはもういいって」
「私は、よくない」
「俺は気にしてない」
「私が、気にしてる」
そこまで言い合って、お互いピタリとやめる。
二人とも察したのだ。これはどちらも引かないということに。
つまりそれは、堂々めぐり。どちらかがまた口を開けば、同じ問答を繰り返し続けるだろう。口で言っても効果がないと踏んだダイナは、じっとおっさんを見つめる。
……が、残念。その程度ではおっさんも折れず、いらないという意思表示にふるふると首を左右に振った。
そんな二人を見て、呆れたような声をかけたのは。
「ったく、何やってんだよ。おっさんも、ダイナも」
初代だった。……というか、他のメンバーはみんな出払っていて、今はこの三人しかいない。
「おっ、おっさんが、折れてくれない」
「同じ言葉を返すぜ」
こうしてまた押し問答を始める二人。
それを初代がどうどうといなす。
「私、馬ではない」
「まあ細かい事は気にするなって。……で、永遠と買うか買わないかの話を続けるのか?」
「おっ……おっさんが頷けば、終わる」
「ダイナが頷けば終わるぜ」
「あーもう分かったから、その話やめろ。ダイナ、おっさんはもういいって言ってるんだ。いい加減、諦めたらどうだ?」
どうやら初代は二人の問答がうっとうしくなってきたようで、静止しに来たようだ。
「……気にしていない、それは事実と推定。だけど、お酒がなくて寂しそう、これも事実」
ダイナとしてはおっさんがいつもお酒の入っていた棚を見ては少し寂しそうにしているのが気になるようで、それを解消してあげたいとも考えているらしい。
「ま、あんだけ大量に酒をなくしたら、俺でも寂しいとは……」
「おい初代。そういうこというと、またダイナが……」
「やっぱり、弁償する」
いわんこっちゃない、とおっさんが表情を曇らせる。こうなったら、ダイナは絶対に引かないだろう。
「どうしてもってなら、一本受け取ったらどうだ、おっさん」
「……そこが妥当なライン、か」
渋々といった様子で、結果おっさんが折れることに。ダイナはよくやく話が進むと安堵し、尋ねる。
「なら、欲しいお酒、教えて」
「……バス・ペールエールか、ウェストマール・トリプルか、迷うな」
「コロナ・エキストラも持ってなかったか?」
「それも捨てがたいな。……初代はどれがいい?」
「俺か? 俺はそうだな。……あー、やっぱバス・ペールエールだな」
「そうか? 俺はウェストマール・トリプルが……」
どれか一本だけ、と絞ると今度はどれを買ってもらうか迷いだすおっさん。
ダイナに変わって今度は初代が入ってあっちの酒は、こっちの酒は、と会話に花を咲かせる。お酒なんてこれっぽっちも知らないダイナにとっては全く分からない話題だ。
そんな二人の会話に口を挟まず数十分……。どうやら答えが出たようだ。
「マオウ・シンコ・エストレージャスだな」
「ああ、あの酒もなかなか美味い」
「さっきまで出てた名称、ない……」
バスやらトリプルやら言っていたのに最終的には全然話題にもなってなかったような名称が上がってきて、何に悩んでいたと突っ込みたくなる結果。
だがそこをぐっと堪え、ダイナは早速おっさんが求めるお酒を買いに出かける。
「……じゃあ、そのお酒、買ってくる」
「結局買わせることになって悪いな。今度、何か奢るぜ」
「構わない。じゃ、いってきます」
「気を付けてな」
このとき、ダイナを含む三人は重大な見落としをしていることに気付かなかったのだった……。
初任給を握りしめ、向かうはいつものスーパー。……ではなく、お酒を多く取り扱っている専門店。お店の扉を開けば、そこにはずらりと酒瓶が並んでいる。お客さんはおじさんやおばさんばかりで、ダイナは場違いな感じだ。しかしそんなことはおかまいなしで、ダイナはおっさんに言われたお酒を探していく。
おっさんが欲しいといったお酒、マオウ・シンコ・エストレージャスはビールだ。最良のホップ・イーストを使い、軽やかなアルコールが売りのビールで、バランスのとれた苦味とホップが渇いた喉に心地よさと開放感を感じさせてくれるそうだ。……が、ダイナはそんなことは知らない。
それも当然。彼女はお酒など一滴も飲んだことがないからだ。だからおっさんのショック度合いから、かなり高級なものなのだろうと予想を立てるしかない。
ダイナは値段の高いラベルが張られている戸棚から順に見ていく。
「…………、ない」
見つからない。探しても探してもどこにもない。見た目が分からない以上、名称で探し出すしかない。だがこの膨大な種類の中から、おっさんの求める品を見つけるのは至難だ。
ズラっと並ぶ字を目で追うことに疲れたのかダイナは軽く目をこすり、店員の元へと足を進めた。
「すみません」
「はい、いらっしゃい。何かお困りで?」
躊躇いなく店員さんに声をかけるダイナ。彼女は人にものを尋ねることを恥ずかしいと思わないようだ。
「お酒、探してる。名称……確か、マオウ・お新香・エクセレント、みたいな雰囲気」
これを聞いた店員さんはハッハッハッと笑って。
「それを言うなら、マオウ・シンコ・エストレージャスだな。それなら……こいつだ」
そうして手渡されたのは橙色と黄色の間のような、明るめの綺麗な色合いをした酒瓶。素人目で見てもお酒の種類で言えばビールと分かる色だ。
「それ、買う」
ダイナは初任給の入った紙袋をがさがさと取り出し、何枚かの札を引き抜く。
「一本、3$30¢だよ」
「えっ……」
予想以上に安すぎて、固まってしまった。
もっとこう……そう。100$とか、200$とか言われると思っていた。それが蓋を開ければ3$ちょっとである。日本円で言うならば300円ちょっとだ。
「というか嬢ちゃん、未成年じゃないだろうな?」
「何か、問題?」
「大ありだよ! 未成年にお酒は売れないって、知らないのか?」
これを聞いてまたまたびっくり。未成年ではお酒を購入できないのだ。未成年はお酒を飲んではいけないのだから、少し考えれば当たり前である。
「私、飲まない。プレゼント」
「それでもダメだ。プレゼント、なんて言って自分で飲むようなバカだっているんだからな」
店員のもっともな意見に納得したダイナは、お酒を店員さんに返しながら尋ねた。
「どうしたら、買える?」
「親と一緒に買いに来な。それかまあ、成人してる大人と一緒に来る事だな」
「分かった」
素直に店員さんの言う通りに従う。やはり、理論の通っていることには異議を申し立てない様だ。
「気ぃつけて帰れよ」
「丁寧に、ありがとう」
結局お酒を買うことは叶わず、手ぶらで帰ることになったのだった……。
「……ただいま」
「おかえり。どうだ、買えたか?」
出迎えてくれたのは初代だった。おっさんの姿は見当たらない。
「未成年、購入禁止。買うなら、大人と一緒。おっ……おっさんと買いに行っては、プレゼントにならない」
何を渡すかは知っているが、それをさらに一緒に買いに行くとなればそれはもうただのおっさんの買い物だ。それではプレゼント感がない。
「そうか。ダイナ未成年だったな。今おっさん、仕事に出ちまってていないぞ」
「おっ、おっさんが……? 珍しい」
俺は店主だから、というのを理由にいつもネロや若に仕事を押し付けているイメージを持っているダイナ。その彼が、自ら仕事に出ているというのは少し新鮮だ。
「おっさんもひでえ言われようだな。ああ見えても、危険な仕事は率先してやってくれてるんだぜ? 主に二代目と俺とな」
と、少し得意げな初代。
バージルも文句なしに強いのだが、彼も若と同い年でまだ若い。とはいえ、協調性があるわけでもない。そこら辺もうまく管理しているのは紛れもなくおっさんだ。
普段のだらけた姿からは想像もできないだろうが……。
「……初代。お酒を買う、手伝って欲しい」
「俺でいいのか?」
「うん。プレゼントの気持ち、伝えたい」
コクンと頷くダイナの姿は、まるで親戚のおじさんに小さなサプライズをするようで……。
「オーケー。なら、俺はついていくだけだ。それでいいな?」
「ありがとう。買い物は、私の役目」
初代も快く了承してくれた。
「いらっしゃい。……って、さっきのお嬢ちゃんか」
先ほどの店にもう一度足を運んだダイナ。今度は初代も一緒だ。
「大人、連れてきた」
そう言って、店員に初代を見せる。
「おう。なら売ってやる。……ったく、兄ちゃんも妹にちゃんとついてってやらなきゃダメだろ?」
見た目は全然似てないのだが、店員さんは深く考えていないようで、兄妹として話を進めていくことにしたらしい。
「悪いことしたな。……それにしても、えらく大量の種類を取り扱ってるんだな」
ザッと店内を見渡して、その豊富な酒の量に初代はどこか楽しそうだ。
事務所のメンバーで飲めるのは初代、おっさん、二代目の三人だけ。さらに二代目は滅多に飲まないということもあり、いつも初代とおっさん二人で杯をかわしていることが多い。
「ああ、ほぼ店長の趣味さ。そうは言っても、俺も無類の酒好きでね。だからここで働いているのさ」
店員さんもまんざらでもないといった様子で酒瓶たちを見渡している。好きなものに囲まれているというだけで、この人は幸せを感じられるようだ。
「……初代、私はお酒を買う。店内、見てくる?」
「なら、お言葉に甘えさせてもらおうか」
せっかく来たんだしな、と言って店の奥へと姿を消す初代。やはり、高級なお酒に興味があるのだろうか。
「じゃ、お嬢ちゃん。欲しいお酒はなんだい?」
さっきはちゃんとした名称を言えなかったダイナ。店員さんも、今度はちゃんと言えるのか試しているようだ。
「マオウ・シンコ・エストレージャス」
「正解だ。じゃあこれな」
間違えていたら、また笑われていただろう。しかし、ダイナは表情一つ変えることなくお酒を受け取り、代わりに代金を手渡す。
「……店員さん。何か、おすすめ、ある?」
ダイナは何か思い立ったようで、おすすめのお酒を店員に聞く。
「なんだ、酒に興味を持ったか? だが嬢ちゃんはまだ飲んじゃいけねーぞ?」
「プレゼント、もう一人にも、したい」
私が飲むのではない、というアピールをしながら何かもう一本買いたいと伝えるダイナ。しかしお酒に詳しくないダイナは、店員さんに頼るしかないのだ。
「おすすめか。酒は好みがあるからな……。どんな酒が好きとか、分かるか?」
「バスとか、トリプルとか、言ってた。……後、コロナ?」
「うーん、それだけじゃ厳しいな。他になんか情報はないか?」
バスやらトリプルなんて名称のついているお酒は一本ではないため、絞り切れないと店員さんも困っている。
「……恐らく、ビール」
先ほど購入したお酒が好きだというなら、きっとその前の名称が上がっていたものもビールだと踏み、自信なさげにそう伝える。
「ビールか。だったらバス・ペールエールか、ウェストマール・トリプルって所だな。だったらコロナは、コロナ・エキストラだろう。どれも有名で美味い酒だぜ」
「……きっと、それ」
ビールと言った途端に聞き覚えのある名前がスラスラと出てきて、ダイナは驚いている。好きも極まると、少しの情報で答えにたどり着けてしまうようだ。
「じゃ、どいつにする?」
さっき名前をあげてくれた三本を持ってきてくれた店員。
「……これ」
「なら、2$30¢だ」
そうしてもう一本購入したダイナ。
「なかなかいい品揃えだな」
そこへタイミングよく、店内の奥側から出てきた初代。珍しいものでも見れたのか、結構楽しんだみたいだ。
「そうだろ? 店長もよくこんだけ揃えたもんだよ」
「全くだぜ。ダイナ、買い物は済んだか?」
「お陰様で」
「じゃ、毎度あり」
そうして二人はお店を後にした。
帰り道。
「酒、もう一本買ったのか?」
「どうして、分かった?」
一本しか見えないように隠して持っていたのだが速攻バレて、戸惑うダイナ。
「なんとなくな」
答えになっていない答えだが、バレたのなら仕方ないとダイナは一本取り出して初代に見せる。
「バス・ペールエールか。おっさん、喜ぶだろうよ」
最初に話していた内容を覚えていたのかと初代は感心しながら、さらりとそう言った。
「違う。これは、初代へ」
「何?」
まさかの言葉に、初代の足がピタリと止まる。それに合わせてダイナもピタリと止まる。
「付き合ってくれたお礼。きっと、おっ……おっさんは初代と飲む。なら、一人一本ずつ、プレゼント」
そう言って初代にバス・ペールエールと手渡す。
「なら、遠慮なくもらっておくか。……ありがとうな、ダイナ」
「いつもお世話になってる。日頃の感謝」
お酒を受け取って、初代は歩き出す。ダイナもそれに続く。
「おっさんのことは、苦手か?」
それとない話題に、ダイナは迷いながら喋る。
「人柄、好き。……問題はあだ名。いくらなんでも、その……失礼」
理屈として、あんなあだ名になったことも、本人自身が嫌がっていないことも理解している。理解はしているが、失礼という先入観が抜けきらず、いまだに躊躇ってしまう。
「そんだけなのか? おっさん、ダイナにどうしたら好かれるかって、毎日四苦八苦してるんだぜ」
「……知ってる。いつも、気を配ってくれていること。そんな素敵な人をおっ……おっさん呼ばわり。とても失礼」
気を配ってもらっているからこそ、おっさん呼ばわりしている自分が嫌になるわけで……。
こればかりは、どうしようもないのかもしれない。
「そうか。……だったらせめて、距離だけでも詰めてやったらどうだ?」
「距離? ……確かに、失礼なことをしている負い目から、自然と距離を開けてしまっている」
「距離を取られるってのは、案外辛いもんだ」
初代の言葉に、呼び名以上に失礼なことをしていたのだと自覚したダイナは申し訳なさそうにしながら。
「初代、ありがとう。距離、詰めてみる」
おっさんとの距離感をもう一度改めると決意したのだった。
「ただいま」
「I’m home.」
「ダイナとデートなんて羨ましい限りだな、初代?」
「だろう?」
どうやらおっさんの方が帰りが早かったようで、帰れば出迎えがあった。いつものようにおっさんの戯れを適当に流す初代。ダイナに関しては気にも留めていない様子で、おっさんの元へ足を進める。
「これ、頼まれたお酒」
おっさんにマオウ・シンコ・エストレージャスを手渡す。
「ありがとな。大事に飲むぜ」
それを受け取り、早速棚にしまいに行くおっさん。
すっかり寂しくなっていた棚に酒瓶が増え、かなり嬉しそうだ。
「考えていたより、安かった。……遠慮した?」
「してないぜ? そもそも、棚の中に高価なものは一本もなかったしな」
「えっ」
全然高級なお酒じゃなかった旨を伝えると、そもそも棚の中に高価なものはないことが発覚。
「落ち込み具合から、すごく高価なものだとばかり……」
「確かに高い酒は一本もなかったが、お気に入りが壊れるのはやっぱり悲しくてな」
高いものが壊れて悲しむという発想は間違っていない。だが、例え壊れたものが安物だったとしても、大事にしていれば本人にとってはそれだけで価値のあるものだ。
「あの時は、本当にごめんなさい」
「今日買ってもらったから、その話はもう終わりだ。それに、こうしてダイナからプレゼントしてもらえたんだ。悪い事ばかりじゃなかったさ」
なんて言いながら、ダイナの頭を撫でようとするおっさん。ダイナは距離を取らず、それを受け入れる。
「どうしたダイナ? いつもみたいに逃げないのか?」
「……苦手だったのは、あだ名のせい。いつも、失礼な気がして、どうしても躊躇っていた。だけど、距離を取られる方が辛いと、初代が言っていた。これからは、躊躇わない。……仲間だから、きちんとおっさんと呼ぶ」
「……そうか」
おっさんは初代に問い詰めることも、ダイナにそれ以上何かを聞くこともなく、ただただ嬉しそうにダイナの頭を撫でていた。
その姿は叔父に褒めてもらっている姪のようだったと、初代は言う。