「海杏、いるかい?」
コンコンと控えめな音が、玄関の扉から家の中で響き渡った。
「んっ……、こんな森の中にお客さんなんて……だぁ、れ?」
寝起きの海杏は目をこすりながら、扉を開く。
「おはよう海杏。……起こしちゃったかな?」
「……あ、だっ……ダイゴさん!お、おはようございます……ってワタッコ、何してるの?」
「ワタッコ」
朝早くからのダイゴの訪問に驚いていると、ワタッコがダイゴの足元をくるくる回っていることに気づき、声をかける。
「あぁ、森の中で海杏の家を見つけられずに彷徨っていたら、たまたまこのワタッコに出会ってね。道案内してもらったんだよ」
「そうだったんですか……。この間の洞窟に近いとは言ってもここら一帯はどこも似たような木々が並んでるから……、ごめんなさい。そこまで気が回らなくて」
「構わないよ。それより起きたばかりなら、お腹が空いているんじゃないかい?海杏のポケモンたちがお待ちかねだよ」
そう言ってダイゴは海杏の後ろを指差す。それにつられるように振りかえると
「チリーン」
「ランラン」
お腹を空かせたポケモンたちが、海杏の作るご飯を今か今かと待っていた。
「今すぐ作るから待ってて?……あの、もしよかったらダイゴさんも、その……」
「うん。朝一で来たからまだ何も食べていないんだ。ごちそうになってもいいかな?」
「がんばって作るね」
この間の緊張がずいぶんととけたのか、それともダイゴの持っている元からの雰囲気が海杏を和ませるのかは不明だが、いつも通りの様子に戻った海杏は早速朝食作りに精を出し始めた。
「……チルッ」
それがチルタリスには面白くないのか、今日も不機嫌そうにしていた……。
「どう、かな?」
「うん。……文句なし、だよ」
ダイゴが海杏の手料理の感想を伝えると、海杏は胸をなでおろしホッと息を吐いていた。そして一呼吸し……
「私、外の世界のことを知りたいの。よかったらダイゴさんが今までに見て回ってきた洞窟の話とか、珍しい石を教えてほしい……」
「そんな大層なものは見つけれていないけど、それで構わないならいくらでも。……でも、ボクにも海杏のことを教えてほしい」
「えっ……、私のこと?」
想定外のことをダイゴに聞かれ、海杏はキョトンとしてしまう。
「そう、海杏のこと。どうしてこんな森の奥深くに一人で暮らしているんだい?」
「チルゥ!チルッ!」
ダイゴの言葉に反応したのはチルタリスだった。かなり怒っているのか、今にも飛びかかりそうだ。しかし、その迫力あるチルタリスに臆せず、ダイゴは真剣な目で海杏を見つめている。その瞳に答えるように、海杏はチルタリスを静止し
「…………待っているの」
と、静かに言った。
「誰を待っているのか、……聞いてもいいかい?」
「チルゥゥー!」
チルタリスは海杏の心に入り込もうとするダイゴが許せず、口元に波動を集めだす。
「両親。……もう10年になるんだけど…………未だに帰ってこない、の」
「チルゥ!?」
今までにポケモンたちの前で一度として弱音も、ましてや涙も見せなかった海杏が、涙を流していた。その姿に驚いたチルタリスは集中力が切れ、技も消えていった。
「っ……無神経だったね、ごめん」
「お父さんとお母さんが帰ってくるまで……、私はこの家にいなくちゃいけない。この子たちを守っていかなくては……」
「海杏、いいんだよ。……今まで一人でよく頑張ったね。もう一人じゃないんだ」
「っ……ぁ……ごめ、んなさ……こんな、みっともない姿……」
10年間の月日は人の心を閉ざさせてしまうには十二分すぎるほどの時間で、それを経て言葉を交わした相手に自然と心を開いてしまうのは、彼女がまだ人としての心をなくしていない、何よりの証拠だった。
「落ち着いた?」
コクコクと恥ずかしそうにしながら頷いている海杏は、ダイゴの胸を借りて今まで溜めこんだものをすべて吐き出すように大泣きしたようで、今は泣き疲れてそのままダイゴの胸にもたれかかっていた。
「チルゥ……」
今までに見たことないほど弱っている海杏をどう励ましたらいいのか分からず、チルタリスも困っている。
「ぐすっ……いい年してこんなに泣き腫らして……みっともないところを見せちゃったね……」
「チルチルッ!チルー」
「あっ、ふふ。くすぐったいよチルタリス」
いつもの海杏に戻って嬉しいのか、チルタリスは海杏の胸に何度も顔をすり寄せていた。
「海杏」
「んっ?」
チルタリスを構っていると頭上から優しい声が降りてきて、海杏は少し照れながらダイゴを見上げる。
「海杏さえ良ければ、ボクは力になりたいと思ってる。……海杏はこれからどうしたいのか、決めておいてくれないかな」
「私が、どうしたいか?」
「うん。……ずっとこの森の中だけで良いっていうならボクは何も言わない。だけど、もし外に出たいと思うなら、助力は惜しまないよ」
「私が……外に……」
出てみたいと思ったことは数えきれないほどあっても、本当に出ていこうとまで思い立ったことはなかった。それにはいくつかの理由がある。一番大きなものとしてはやはり両親との約束ではあるが、それ以外にも問題はあった。
「今すぐ決める必要はないよ。ただ、海杏はもう一人じゃないってこと、忘れないで」
「ありがとう、ダイゴさん。……でも、どうしてこんなによくしてくれるの?」
両親以外と話したことがない海杏でも、ダイゴが自分のことをすごく大事にしてくれていることが分かる。それが不思議だった。
「こんなに魅力的な女性に出会ったのは初めてだから、かな」
「えっ……」
「ポケモンたちをこれだけ大切に育てている人はなかなかいない。それに今日の手料理もおいしかったし、心を開いてくれた海杏がとても可愛らしかった」
「えっ、えぇっ……?」
「これからボクも、海杏に好かれるよう色々がんばるね?」
「う、うん……?」
突然のダイゴの告白に海杏は理解できておらず、ほぼ生返事するしかなく……
「それじゃ、今日はゆっくり休むんだよ?これから毎日、遊びに来るから」
「んっ……、待ってる」
流されるような形ではあったが、それでも海杏もダイゴに会うのは毎日の楽しみとなった。そして毎日足を運んだダイゴの苦労もあり、徐々に海杏もダイゴのことを意識しだした、そんなある日……
「海杏、今日はこんなのを持ってきたよ」
「何、これ?植木鉢とホエルコ……にしては、すごく小さい」
ダイゴは小さな入れ物を持って、海杏の家に来ていた。
「これはきのみプランターって言ってね。いつでもどこでもきのみの栽培が楽しめる、便利な道具なんだ。こっちは水をあげるためのホエルコじょうろ」
「えっ!……どこでも?」
きのみをどこでも育てられるという魅力的な言葉に、海杏はじっとダイゴの持っているきのみプランダーを見つめている。
「期待を超えるいい食いつき具合だ、その反応を待っていたよ。……はい、これは海杏にプレゼント」
「いいの?」
「これでも海杏の好みはすべて把握してるんだよ?……きのみ栽培とポロック作りはどこに行ってもしたいだろうと思ってね。流石に今住んでいる森ほどの規模を確保することは不可能だけど……」
「嬉しい!ダイゴさん、ありがとう!」
手渡されたきのみプランターとホエルコじょうろを大事そうに抱え、宝物が増えたように無邪気な笑顔でダイゴに感謝する海杏。
「どういたしまして」
可愛らしく微笑む海杏の頭をダイゴが優しく撫でると、照れながらも安心しきった顔をし、海杏はダイゴに
「私、何かお礼をしたい。……でも物はあんまりないから、私にできることでダイゴさん、してほしいこととかない?」
こう提案した。それを聞いたダイゴは
「なら、海杏にしか出来ないことを頼もうかな。……海杏、目を瞑って?」
と、何やら含みのある言い方をする。
「それくらいなら……これでいい?」
しかし、海杏は少しも疑わず、ダイゴに言われたとおり目を閉じた。
「もう少し顎を上げて?」
「これ、くらい?」
「そのままじっとしてて」
指示に従って待っていると、柔らかいものがふわりと海杏の唇に触れる。……かと思えば、すぐに離れた。
「……?もういいの?」
「うん、ありがとう」
何をされたかさっぱり分からない海杏は、好奇心の赴くまま
「さっきの、目を瞑ってないと問題あるの?」
「え?いや、そんなことはないよ」
「それなら今度は目を開けてるから、何したのかもう1回お願いしていい?」
「いいよ。…………それじゃ」
海杏に頼まれたのをいいことに、ダイゴはもう一度先ほどと同じように顔を近づけ、唇同士を触れ合わせる。
「んっ……!」
ここまでされて流石に何をされたのか分かった海杏の顔はみるみる赤くなり、どうしたらいいのか分からず顔を伏せてしまう。
「海杏からおねだりしてくるなんて、ボクのこと好きになってくれた?」
「なっ……何をされたのか知りたかったから……その!」
恥ずかしさでうまく口が回らず、しどろもどろになりながら弁解をしている海杏を見て、ダイゴはクスクスと笑っている。ダイゴ自体は、海杏がキスをされたのが分かっていなかったのを知っていたうえで、海杏からのお願いを受けた。照れる海杏を見て、満足そうにダイゴは微笑んでいた。
「嫌だった?」
「んっ……嫌じゃない、けど。その、恥ずかしいし……、ダイゴさんのことを考えるだけで自分がおかしくなっちゃうのが分かるからっ……あまり触れられると……」
言いようのない気持ちが胸の奥にあることに最近気づいた海杏は、懸命にそのことをダイゴに伝える。しかし、ダイゴにとってそれは煽り文句にしかならず
「海杏。そんな可愛いこと言われたら、いくら理性を保てる自信のあるボクでも危うくなるよ」
そう言ってダイゴは胸の中にすっぽりと海杏を包み込んでしまった。
「だっ、だから!ドキドキしちゃうから……!」
「うん。海杏の心臓の音が聞こえてくる。……ねぇ海杏、この森から出るつもり、やっぱりない?」
海杏の静止を聞かずにダイゴは話を切り出す。
「それ、は……」
「このきのみプランターをプレゼントしたのも、海杏が外の世界へ行けるようにと思ってのことなんだ。……他に必要なものがあるなら言ってほしい。必ず、準備するから」
抱きしめられ、ダイゴの体温に触れて言葉以上の気持ちを感じた海杏は、少し困った顔をしながら
「モンスターボールが、ほしい……」
こう言った。
「……へっ?」
これには流石のダイゴも理解できず、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「実は私、旅立つときに空のモンスターボールを貰う予定だったんだけど、そのままお流れになっちゃって。だから、正式な私の手持ちポケモンって、小さいときにお父さんと一緒に捕まえて進化した、チルタリスだけなの」
「じゃ、じゃぁあの海杏に懐いている、他のポケモンたちは!?」
「捕まえたわけじゃないから、区分的には野生のポケモン……ってことになるかな」
まさかの事実にダイゴは何度も瞬きを繰り返すしかなかった。あれだけ立派に育てられているポケモンたちが全て野生だと言うのだ。驚くなという方が無茶なぐらいだった。
「モンスターボールなら、今持ってるけど……」
「本当?それがないとこの子たちと一緒に外へ行けないから。……だから、なかなか森の外へ行くってことに賛成できなくて。それさえあれば今すぐにでも外の世界に行ってみたかったの」
「全く海杏は……。そんなことなら早く言ってくれればよかったのに。それじゃ、はい。これがモンスターボール」
「ありがとう。……ダイゴさん、こんなことまでお願いするのは、少し図々しいけど……」
「前に言ったよね、助力は惜しまないって。……言ってごらん?」
ダイゴの言葉で決心がついたのか、海杏はコクリと小さく頷き
「私を……、外の世界へ連れて行ってほしい」
森で過ごした10年の時に、終止符を打つための決意を口にした。
「その言葉を待っていたよ。……明日、きちんとした形で迎えに来るから、海杏も準備をしておいてほしい」
「うん……。ありがとう、待ってる」
「それじゃ、また明日」
こうして海杏は、明日の旅立ちのためにポケモンたちをモンスターボールに入れたり、荷物をまとめたりと、慌ただしい一日を過ごした。