Door of the heart

 船路は快適だった。悪天候に見舞われることはなく波も穏やかなもので、これが旅行であったならばとても素敵な出だしと言える。ただ残念なことに彼らは旅行ではなく事務所への帰路途中で船を利用しているに過ぎなかったが、それでも荒波にもまれることを思えば素直に喜べる航海となった。
 甲板に出て潮風に身体を晒しているのは二代目。呆然と海を眺めているようにも見えるがその実、迷いを断ち切ろうとしていた。
 自分が並行世界、つまりはこの世界と似て非なる世界から来た存在であると暴かれた時、もう皆の傍には居られないのだと覚悟した。隠し事がなくなったという安堵……いや、罪悪感からの解放も一応感じはしたが、やはり“受け入れてもらえなくなる”恐怖には敵わなかった。
 ダンテという存在にとって、確実に必要であった青年ネロと出会うことすら出来なかった自分は、本当にダンテであるのだろうか? 時を刻むにつれ、何か大切なものを落としていってしまうような男がダンテであると言えるのだろうか?
 今更なことだが、こちらの世界に来てからも自分だけは何も変われていないように思えてならない。これまで偉そうに話してきたことは、全て自分が出来なかったことだ。同じようになって欲しくなかったから、特にダイナには多くの言葉をかけた。彼女は素直だからどれも真正面から受け止め、そして実行に移せる強い心の持ち主だった。
 ネロもそうだ。まだ年若いとは思えないほどにしっかりとした自己を持っていて、前に進んでいる。だというのに自分は──。
 こうなってしまったのも、全てを自分一人で抱え込んでしまったが定めというものか。不器用であることを言い訳にして、守るためだと口実を作り、支えてくれていた人たちを自ら遠ざけてしまったがために起きた必然。
 本当は怖かっただけに過ぎない。自分の力が及ばず大切なものを守れなかった時、耐えられる自信がなかったから、最初から失うものを無くしてしまえばいいと考えた。それも結局は更なる負の感情を増長させ、最後に残ったものは、誰からも必要とされなくなる、世界からも存在を否定されたような虚無感だけだった。
 思えば、その頃から異様に家族というものを恋しく感じ出した。どれだけ世界からはみ出た存在になったとしても、家族だけは受け入れてくれると縋るような思いだった。無論、血縁者どころか知り合いすらいなかったので、叶うことのないものである……はずだった。
「二代目が俺を呼ぶなんて、珍しいこともあるんだな」
 甲板に上がってきたネロが声をかければ、いつもと変わらない表情の二代目が振り向いた。大事な話があると呼ばれて来たが特に深刻そうには見えず、一体何を話されるのだろうかと推測ばかりがネロの頭の中を行き交った。
「呼びつけてすまない」
「いや、いいけど。……で、話って?」
 用件を催促したら、恐ろしいほどの沈黙がやってきた。一度開きかかった二代目の口は一文字に結ばれ、再び解かれることは無かった。つい先ほどまで普段通りにしていたはずの顔はいつの間にか険しくなっていた。眉間にしわが寄せられ、何かを懺悔したそうな罪深い表情はとても印象的だった。顔に刻まれた数本の疲れ切ったしわが老いを誇張させているように見えたが本当の彼は、これほどまでに疲れていたのかもしれない。
 冷たい風がコートをなびかせる。ネロの立場からすれば呼び出された挙句に何も言ってもらえず、ただ待たされているだけだ。大抵の相手であれば文句の一つも浴びせてやりたいところ。その大抵の相手という枠に二代目が含まれるかと言われれば、入っていると即答できる。
 ネロの中で二代目という存在は頼れる仲間であって、近寄りがたい存在じゃない。だから必要の無い遠慮はいらない。遠慮はいらないが、配慮は必要だと思った。
 異様な雰囲気を纏っているなんてことは誰の目から見ても明らかである。ただ違うのは子どもが悪いことをした時、何とかして見つからないようにと隠し事をする、幼いながらも奮闘しているような可愛いものではない。知らぬ者が見れば完璧超人だと妬んでしまいたくなるほどに完成された男が、重苦を抱えているのだ。掛けられる言葉など、出てくるはずがない。
 再び冷たい風が過ぎ去る。身体を動かしていないのでいつも以上に寒いと感じた。身震いをしたつもりはなかったが体温は嫌でも落ちてしまうもので、ネロの生まれながらにして白い顔がさらに血色悪くなっているように見えた。
「……冷えてきたな。二人の元に戻ろう」
まさか、と思った。“ネロにだけ聞いてほしい”と言われたからやってきたというのに二人の元に戻ってしまえば、反故にされてしまう。ようやく口を開いてくれたのに、これではあんまりだ。
「俺は平気だから……」
 目が合う。ネロは口を閉じ、言葉の続きを呑みこんだ。困り顔で心配するなと訴えかけられても信ぴょう性は無いに等しいというのに、きちんと話してもらえると思えてしまうのは二代目だからこそ成せる業だとしか説明できない。
 ブーツの重々しい音を立てながら二代目が甲板から姿を消す。本当におっさんとダイナの元に行ったんだと理解して、ネロも慌てて後を追った。

 客室に戻るとゆっくりしていた二人が迎えてくれる。風が遮断されるだけで部屋の中をとても温かい場所のように感じた。二代目と並ぶようにして近場の椅子に腰を下ろしたネロは、ふと自分に注がれる視線に気付いてそちらを見る。
「……何とも、思わなかったのか?」
 おっさんが先ほどまで呑気にあくびをしていたとは思えないほどの真剣な表情で、意外だとでも言いたげに注意深く観察してくるので居心地が悪い。そもそも、こういう言い方をしてくるということは二代目が呼び出した要件についておっさんは知っているということだ。話の内容を知っている人物にこういった態度を取られると、ますます気になってしまう。是が非でも話してもらわないと、今晩眠れなくなってしまいそうだ。
「まだ聞いてない」
 わざとらしく二代目を横目に見ながら言った。ネロとしてはほんの少しだけ、軽い罰を与える程度の心積もりだったというのにおっさんが今にも二代目に飛びかかりそうなほど殺気を高めたのでぎょっとした。傍で聞いていたダイナも先の言葉の何処にそこまでの怒りを覚えたのかと、おっさんを諫めようとしたほどだ。
 怒りを露わにするおっさんを止めたのは他でもない、怒りを向けられている二代目だった。
「落ち着け。ダイナにも聞かせた方が良いと、自分の中で踏ん切りをつけたんだ」
「それについては確かに、一任したが」
 不服な表情を隠す気はないといった態度でおっさんは二代目を見た後、過去の発言を変えることは出来ないとして、どうにか自分に言い聞かせるよう目を瞑った。
 空気が重いことは言わずとも分かる。こんな状態で話を聞くべきなのかという躊躇いもあるが、今を逃せば二度と聞くことが出来ない気もする。何より一度お預けを食らっているし、これ以上先延ばしにするという解はあり得なかった。
 同じくダイナは立ち位置に困っていた。わざわざネロだけを呼び出していたということは、自分には聞かせたくない内容であったということだ。どういったきっかけで心変わりしたかは置いておくとしても本人が自分にも聞かせると判断した以上、素直に聞いた方がいいのだろうか……。おっさんが過敏に反応を示してしまうことにも関係があることまでは予想できるが、ここまで気を立たせるほどの何かというのは正直言って聞くのが怖くもある。
 とはいえ、逃げ出すぐらいなら真正面からぶつかることを選ぶ連中ばかりの集まりだ。何を胸中に抱こうとも、二代目の言葉を待つばかりとなった。
「実は、な……」
 前屈みになって組んだ自分の手を二代目は見つめる。何度か息を吸っては吐くを繰り返し、ようやく言葉にした。
「俺はダイナと同じ存在なんだ」
 名を出された本人はびっくりして二代目を見た後、助けを求めるようにネロを見た。ネロもどういう意味かを理解するためにダイナと目を合わせたが動揺する姿を見て、言葉の真意に辿り着けていないことを知った。かと思えば顔面蒼白になっていくダイナは視線を二代目に戻し、震える声で尋ねた。
「わ、私と同じ、とは……そ、その……女、だと?」
 二代目は困惑した様子になった。
「は?」
「私と二代目を比較した時、大きく違うところと言えば性別。だから、その……」
 真面目に言葉を返してくるダイナと、これを聞いて本当にそういった意味だったのかと半信半疑になりつつあるネロを見て、あの男が笑った。
「ふっ……はっ……はっはっはっはっ!」
 これは傑作だと腹を抱えるだけでは足りなかったようで、自分の膝を叩いている。どう考えたってあり得ない答えに辿り着く発想が羨ましい限りだと、おっさんは涙を浮かべながらに思ったほどだ。
 おっさんが笑い転げるので、ネロもいくらなんでも違うと考えなおした。ほんの少しでも信じそうになった自分も恥ずかしいが、笑われてもなお二代目を女だということを受け入れようと必死になっているダイナのことは救いようがない馬鹿だと諦めるしかない。
「言葉が足りなかったことは認めるが俺は正真正銘、男だ」
「あ、あっ……そう。……良かった」
 全否定されて喜ぶというのも如何なものかと思うが、事が事だけに口を挟む気にはならない。というか、元を正せば自分で蒔いた種なのだからネロは事故に巻き込まれたようなもので、同情の余地などない。
 ダイナがアホ丸出しの回答を寄越したせいで何とも言えない空気に変わってしまった。息苦しいよりはましだとしても、これでいいのかと考えると甚だ疑問が残る。肝心の真意には辿り着けそうにないし、もう聞けなくてもいいかとまで思っているのも本音だ。二代目もダイナに聞かせるのは間違いだったと頭を抱えている始末で、このまま話は流れてしまうような雰囲気だった。
「在り方の話だ。仮定でしかなかったものを事実として認識していたことが、間違いだったと分かったんだよ」
 黙って見守っていると話が進まないと、おっさんが渋々ながら説明する。いきなり在り方の話だと言われても閃けないでいると、少し前におっさんから聞かされたことをネロは思い出す。
 おっさんと二代目の間には決定的な違いがある、と言われたことだ。確実に違う何かがあるというのに、何の部分が分からないという妙な話。それのことを言っているのだと分かれば、在り方というのが何を差しているのかも自ずと分かる。
「在り方。仮定の話。私と同じ……」
 要点を反復しているダイナも言いたいことに近付いているようで、意識していなければいつ黙ってしまったのか分からないほどの自然さで口を閉じていた。
 ここで言われている在り方とは、二代目の存在を差している。仮定の話についてはダンテという人物が何人もいることに対しての位置づけ。それが誤りで、二代目はダイナと同じ存在であると言った。つまり──。
「同じダンテでありながら、確実に違う存在……ってことを言いたいんだよな」
 今までずっと、ダンテたちは単一世界に存在する、同一人物だと考えてきていた。そうであると誰もが思い込んでいた。その解に至ったことへの理由はいくつかある。
 まず外見。若、初代、おっさん、二代目の順で年齢を重ねているというのは見て分かること。次にバージルを失っているという事実。全員が口を揃えてバージルを自分の手で討ったという話も嘘をつく理由がないので、本当だろう。当時のことをダンテ同士で振り返ったこともあるようだが、特に相違は無かったと聞いている。他にも気配や魔力の質、魔剣士スパーダが父であることを誇りに持っていることなど思想も同じだった。
 そうして導き出されたのはおっさんの元に集ったダンテ全てが同一人物、つまり若の時代から二代目の時代まで一本道で結ばれた単一世界に生きてきたダンテなのだという答えに、誰も異を唱えることはなかった。何故なら決定的な違いを知っている人物は二代目しかおらず、彼自身もそれを明かすことがなかったから。
 ただ、ここで勘違いしてはいけないことがある。二代目には明確な違いがあり、おっさんとは別人であることが露呈したものの、若と初代をイコールで結んではいけない。あくまでも二代目個人が並行世界の存在であることが確定しただけに過ぎないのだ。
「でも、なんで今更になって?」
 なにより、今一番気になることは若でも初代のことでもない。二代目が別人であることをこうして明かそうと思った経緯だ。言い方は悪いが、二代目なら墓場まで持っていくことも出来たのではないだろうか。
「俺を並行世界の存在であることを確固たるものにしたのがネロ。お前の存在だ」
「どういうこと」
「……俺は元いた世界でネロという人物には出会っていない。ここに来て初めて出会ったんだ。そのことを髭に暴かれた」
 流石に衝撃を受けた。
 初めて二代目と事務所で顔を合わせた時から、初めて出会ったと思わせるような素振りは一切見られなかった。おっさんから俺の未来の姿だと紹介されて、自分はどう挨拶しようかと悩んだというのに二代目は何の躊躇いもなく、よろしくと声をかけてくれたのをよく覚えている。今思えばその時に印象を擦りこまれてしまっていたのだろうが、当時は本当におっさんの未来の姿なんだと信じたものだ。ただ、おっさんがこんなにも寡黙で格好良くなるなんて予想は出来るわけがなかったので、驚愕した事の方が印象としては強く残っている気もする。
 とにかく何か言葉を返さなくてはと思って顔を上げると、二代目に片手で押しとどめられた。何だと思って二代目の視線を追うと、動揺している仲間がいた。
「何か言いたいことがあるなら聞くぞ、ダイナ」
 ダイナは息を呑んで、空気を吐いて、吸い込んだ。何度か深呼吸を繰り返して、冷静さを取り戻そうとしている。
「ごめんなさい」
 意味を成さない謝罪だった。何を言えばいいのか分からず、とっさに出ただけ。余計なことをしたことは本人が一番分かっているようで、口を手で覆い、すぐに位置をずらして両目を隠して何かを堪えた。
「気遣わなくていい。全ては真実を隠そうとした俺の落ち度でしかない」
 微かに髪の毛が縦に揺れた。ダイナが頷いたことを不思議に思ったネロは理由を探して、すぐに見つけた。
 彼女は悲しんでいるんじゃない。怒っているのだ。だから二代目の言葉に頷いた。気遣いながらも、真実を隠していたことに怒りを向けていた。
 最初に口元を隠したのは声を殺そうとしたためではなく、獰猛な獣のようにむき出しとなった歯を隠すため。目を隠したのは涙を堪えるためではなく、憎悪を抱いた瞳を見せないため。どちらの感情も自分がぶつけるのは筋違いだと言い聞かせるために顔を隠していない方の手で太ももに指を食いこませ、その痛みで己を制御しているほどであった。
 ネロは今度こそ何か言わなくてはと再び考えて、とにかく話し出した。
「俺は、その、気にしてないっていうか。驚きはしたけど、それだけ。だからおっさんたちが気にするようなことじゃない。二代目が気に病むことでもなければ、ダイナが怒りを覚えることでもない……と、俺は思う」
 歯切れが悪くなって、最後の方は聞き取って貰えたかよく分からない。とにかくこの場を収めたいと思っているのに良い言葉が出てこなくて、誰でもいいから助けてくれと懇願したいほどだった。
 大体、隠し事の一つや二つは誰にだってあることだ。そのことで傷ついたり、傷つけられたりなんてことは珍しいことじゃない。今回に限ったことを言えば傷つけたのは二代目で、傷つけられたのはネロということになるのだろうが、肝心の当人が傷つけられたとは感じていない。というか、周りの奴らが大げさなほどに反応するから傷心している暇なんて無かったと言った方が正しい。とにかくそのおかげで、ネロは何ともない。
 一番嫌なのは今の空気を引きずったまま、お互いに気を遣わないと傍にいられないほどに関係がこじれてしまうこと。
「なあ、大丈夫だよな」
 誰でもいいから、安心させてほしい。
「こんなことで終わっちまわないよな」
 いつものようにバカ騒ぎして、笑いあって……。
「俺のことを想っての態度だっていうなら、俺の言葉を聞けよ! 勝手に俺を使って怒ったり、心配したりしてんじゃねえ! 本当に俺のことを気遣ってるんなら! 俺の、ことを……!」
 感極まって、涙が出てきそうになった。声が詰まってしまって続きが出てこないのか、何を言えばいいのか分からなくて言葉に詰まったのかはネロ自身わからなかった。
「ネロ」
 名前を呼ばれた。おっさんの声と二代目の声、それにダイナの声もあった。三人は困ったように顔を見合わせて、ネロに近付いた。
「悪かった。……坊やがこんなに強くなってるって、思ってなかったんだ」
「いい加減、ガキ扱いするのはやめろよ」
 おっさんに頭を撫でられた。無性に腹立たしかったので小突いてやれば、やり返された。
「ごめんなさい。知っているふりをされるというのは耐え難いものであると思い込んでいた。……二代目の事情を考えれば、理解を示せることもあったはずなのに」
「まあ、ダイナは俺たちに認知されてない状態でこの世界に来たから、過敏になっちまったんじゃねえの。ただ、今回に関してはダイナが怒ることじゃない」
 ダイナに一発デコピンをお見舞いしてやった。おでこを真っ赤にしながらも素直にネロの言葉を受け取っている様子は、見慣れた姿だった。
「ずっと欺いてきた俺が……ネロの傍に居て、良いものか……」
「居てくれよ。二代目がいないと家事とか回らなくなるし。……これからも、頼りにしてるから」
 二代目に左手を差し出す。最初は遠慮がちに触れる程度のものだったので思い切ってこちらから力を入れたら、心のこもった握手がかえってきた。
 自分も含めて、仲間に対してはとことん不器用な奴らばかりだと改めて思う。気を遣いすぎて自分を追いつめる奴が妙に多くて、挙句に弱音を吐いてくれないからこちらが気付いてやらないと溜め込むという、最高に面倒くさい連中ばかりときたものだ。これでは仲間を想って自らの身を滅ぼしかねない。
「相手を大事にする前に、まずは自分を大事にしろよな」
 子供がいれば息子ほどの大きさの子に正論を言われ、二代目は言い返す言葉もないと終始困り顔だった。おっさんも甥の願いとあっては聞かないわけにはいかない、なんて格好をつけて再び小突かれていた。ダイナはさらに精進しなくては、なんて自分を追い込もうとしていたからもう一度同じところにデコピンされていた。
「もう、大丈夫だよな」
 言葉を口にして、今の情景を心に刻む。
 二代目が打ち明けてくれたこと。ダイナがネロを想って二代目に怒りを向けたこと。おっさんがネロの為に案じてくれていたこと。
 交差する思いが一つにまとまり、とても温かいものに変わった瞬間であった。